第63話 厨
ごろりと寝返りを打った初は、真っ暗な天井を見上げて、息を吐いた。
「──寝られん」
あんな話を聞かされたせいで、どうにも胸の中がもやもやする。寝よう寝ようと考えるたび、じくじくと苛立ちが募っていく。
このままでは埒が明かない。初は夜着を払いのけると、襖を開いた。
「おい、ちょっと水を飲みに……」
隣室では、
全員、酒臭い。どうやら仕事を忘れて、宴席で飲みふけっていたらしい。
部屋に戻り、
「これでよし」
満足げにうなずき、初は廊下に出た。
「
室内を見回した初は、物音に気付いて動きを止める。
(こんな夜中に、誰だろう?)
屋敷の使用人たちも、寝静まっている頃合いだ。
不審に思った初は、すぐさま、物取りの可能性について考えた。
宴席の後は、使用人たちにも酒が振舞われることが多い。屋敷の人間が寝入ったのを幸いと、忍び込む輩がいたとしてもおかしくはない。
人を呼ぶか? ──脳裏によぎった考えを、初は否定した。
宿直の者たちでさえ、あの有様だ。この屋敷の使用人が役に立つとは思えない。
(下手に声を出すと、相手に気取られる)
初はそろりと、足裏を滑らせた。音を立てないよう、慎重に後退る。
(そーっと、そーっと……)
胸の中で唱えながら、一歩一歩。
周囲に動く影はない。わずかでも変化があれば、すぐに逃げ出せるよう、初は着物の裾を摘まみ上げた。
厨の入口まで、あと少し。
最後の一歩を踏み出し、体重をかけた途端。初の足元で、ぎしりと音が鳴った。
厨の空気が揺れる。複数の息を呑む気配に、初の背筋が粟立った。
「やばっ……!?」
身を翻そうとした瞬間、暗がりから何者かが飛び出してきた。
五本の指が、柔らかく口元を覆う。背が壁に押し付けられ、恐怖で身を固くする初の目に、白い影が映り込んだ。
(──ウヌカルっ!?)
驚きに目を見開く初に、ウヌカルは気弱げな笑みを浮かべた。
薄紅色の唇に、人差し指を押し当てる。闇の中に浮かぶ青い瞳が、どこか懇願するような光をたたえていた。
初が目線で了解を示すと、ウヌカルの身体が、ゆっくりと闇の奥に離れていった。
「……こんなとこで、何やってんだ?」
声をひそめる初に、ウヌカルは眉尻を下げた。迷うような素振りを見せるウヌカルの背後で、何かが動く。
思わず身構えた初は、調理台の陰に潜んでいた人物に、目を瞬いた。
「……お前、なんでここに」
調理台を背に座り込んでいたのは、昼間に出会った、子供盗賊の一人だった。
垢まみれだった身体は洗い清められ、ぼろ布の代わりに、古着らしき着物をまとっている。昼間見た時に比べれば、随分と人間らしい格好になったが、ざんばら髪の隙間から覗く瞳だけは、炯々と獣じみた光を放っていた。
こちらの様子をうかがっていた子供は、さっ、と両手を懐に入れた。何かを隠すような仕草に、初は眉根を寄せる。
「お前、何を隠して……」
ちょいちょい、と初の袖が引かれる。
ウヌカルは、不審がる初に、両手を差し出した。小さな手のひらの上には、何か黒い塊が握られている。
「……里芋?」
すらりとした指先に顔を近づけ、初は塊の正体を呟いた。
まだ土が付いたままの里芋を見せて、ウヌカルは申し訳なさそうな顔をする。その視線が、地べたに蹲る子供に向けられた。
(ああ、そういう……)
両膝を立てた子供は、胸元を守るように背を丸めた。餌を奪われまいとする、獣じみた仕草。
こちらに警戒の眼差しを向ける子供に、初は問いかけた。
「お前、名前は?」
子供は、じっと押し黙っている。問いかけを無視しようとしたのかもしれないが、無言で佇む初に居心地が悪くなったのか、もぞもぞと尻を動かした。それでも視線を逸らさない初に、やがて観念したように、
「……
ぽつりと、渋々といった風情の声が漏れる。初はそれに、小さく笑みを返した。
「腹、減ってんだろ。ちょっと待ってろ」
初は、厨の中を物色した。
幸い飯櫃の中には、まだご飯が残っている。
調味料棚から味噌とみりん、醤油、ごま油、ネギを取り出す。唐辛子を手に取りかけて、初は思い直した。
(食ったことないものは、入れないほうがいいか)
唐辛子は、まだまだ珍味の扱いだ。伊助には、刺激が強すぎるだろう。
ネギをみじん切りに。味噌、みりん、醤油、ごま油を練り合わせてタレを作ってから、ご飯を握って、おにぎりを作る。
竈では、ウヌカルが焚口の灰の中に残っていた炭火から、火を熾してくれていた。
おにぎりに竹串を差すと、初は竈の火であぶった。両面に焼き色が付いたら、タレを塗り、ネギをまぶして、もう一度、火にかける。
「おい、伊助。その芋も寄越せ。生のままじゃ、美味くないだろ」
呆然と初の作業を見守っていた伊助は、頬を固くした。伸びあがるようにしていた身体を、再び縮こまらせ、芋を取られまいとする。
警戒の色をあらわにする伊助の傍らに、ウヌカルはしゃがみ込んだ。
右手を差し出すウヌカルに、伊助は戸惑っている。しばらく無言で睨み合った末、伊助はおずおずと、抱えていた里芋を手渡した。
(……こいつ、ほんとに生で食ってやがった)
皮が付いたままの里芋には、歪に齧り取られた跡が、いくつも付いている。
水瓶から桶に水をとり、歯形が付いた里芋を洗う。水を張った鍋を火にかけ、蒸籠を載せて、里芋をふかした。
その間に、もう一つの鍋で湯を沸かした初は、調理台の上に残っていた鯛のアラを手に取った。
おそらく、明日の朝食に使うつもりだったのだろう。屋敷の料理人たちに、心の中で謝りながら、血合いをとった鯛のアラを、鍋の中に投入する。
「あちちっ!」
熱を通した里芋の皮をむき、一口大に切った大根、ゴボウ、レンコンと共に、丁寧に灰汁をとったアラ汁の中へ。
醤油と塩で味を整え、最後に味噌を加えて、ネギを散らした。
「ほら、できたぞ」
初は、ネギ味噌の焼きおにぎりを差し出した。
伊助は、明らかに混乱していた。焼きおにぎりと初の顔を何度も見比べ、どういう状況なのかと、必死に頭を巡らせている。
躊躇う素振りを見せる伊助に、初は串に刺したままの焼きおにぎりを押し付けた。なおも迷いを見せる伊助に肩を竦めつつ、初はあぶっていた別の串を取って、齧りつく。
「……ほれ、お前も食え」
半分ほど焼きおにぎりを頬張ったところで、次の串に手を伸ばす。ウヌカルにも一本手渡すと、さすがに焦ったようで、伊助は自分の串にかぶりついた。
「……うめぇ」
瞼を見開き、そのままがつがつと、焼きおにぎりを平らげる。
串をしがみ始めたのを見計らい、初は次の串を差し出した。今度は躊躇なく手に取り、また勢いよく平らげていく。
勢いが良すぎて、喉に詰まらせた伊助に、初は鯛のアラ汁を手渡した。
木椀からアラ汁を飲み、焼きおにぎりを齧り、アラ汁を飲んで、素手で具材をかき込む。
伊助の食べっぷりに、ウヌカルが安堵の笑みを浮かべる。どうでもいいが、焼きおにぎりを持っていても、ウヌカルの美人ぶりは健在だった。
都合、三杯のアラ汁と、四つの焼きおにぎりを腹に収めた伊助は、大きく息を吐いた。腹をさすりながら、陶然とした様子で虚空を見上げる。
「ちっとは落ち着いたか?」
初の言葉に、伊助はこくりとうなずいた。
腹が膨れたせいで、警戒心まで緩んでいるらしい。なんとも子供らしい反応に、初は微笑した。
「それで。お前ら、今ままで、どうやって暮らしてんだ? 親は?」
伊助は、視線だけをこちらに寄越した。
初がじっと見つめ返すと、なぜか気不味げに、視線を逸らす。反対側から、ウヌカルにも見つめられて、伊助は居心地悪そうに身じろぎした。
「……んなこと聞いて、どうするんです?」
「私は、お前の主人だ。雇った相手の素性を知りたいと思うのは、当然だろ?」
ちょっと命令気味に呟く。
あまり権力を振りかざすのは、好きじゃないが、この場合は仕方ない。それに伊助としても、命令という形をとったほうが、話しやすいだろう。
しばし逡巡を見せた伊助だが、初とウヌカルの視線に根負けしたか。ぽつぽつと己の身の上を語り始めた。
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