第56話 大金時

 ──なんで、いつもこうなるのか?


 飛び交う怒号の中、初はひたすらに、この世の理不尽を嘆いていた。


 宴会とは、楽しいものではなかったのか? 酒を飲み、料理を口にし、歌い騒ぎながら、互いに親睦を深める。本来の宴会の姿とは、そういったもののはずである。間違っても、酒樽を囲んで飲み比べを始めたり、素っ裸になって踊ったり、他人の家の庭で相撲を始めたりするものではない。


 太古の時代より、飲食を共にすることは、大切な儀式であったはず。断じて、どちらの逸物が大きいかで揉めたり、それをきっかけとして拳が唸ったり、全裸の男が投げ飛ばされたりすようなものではない。ない、はずなのだが──


「そんな犬の糞みたいなものをぶら下げて、でかい口を叩くでないわ、小童こわっぱが!」

「ぁあっ!? どこに目ぇ付けとるんじゃ、ぬしは! この大金時様が目に入らんとは、耄碌したんでないか、このじじいっ!?」

「ぬかせ、若造が! お主のモノでは、そこいらの雌猫とて、満足させられぬだろうよ!」


 あんまり意味の分かりたくない罵詈雑言の数々に、初は眩暈を覚えた。


 目の前で、酒に酔った家臣たちが暴れているというのに、光定に止める気配はない。それどころか愉快気に笑いながら、煽り立てる始末だった。


「ほれ、どうした蔵六! お主の青大将が萎びておるぞ。もっと腹に力を入れて、いきり立たせんか!」


 こいつ最悪だな、と初は思った。家では、嫁と娘に遠慮して、絶対にこんな下ネタは口にしない。


 互いに股間を突き出し合う家臣たちに、初は額を押さえた。こんな阿呆な争いを見せられて、客人たちは、さぞかし軽蔑していることだろう──そう思い、紅屋の屋敷にある大広間を見回すが、案に相違して、皆、楽しげに笑っていた。


 安宅家の者たち以外は、商人や茶人など、堺の町民たちである。教養も礼儀作法も身に着けているはずの文化人たちだ。それが、股間の大きさを比べ合う男たちを見て笑い転げ、やんやと喝采を送っているのだから、世の中間違っているとしか思えない。


「貴様のことは、前々から気に入らんかった! いい機会じゃ、今ここで決着を付けてくれるっ!」

「望むところじゃ! おい誰か、俺の刀を持ってこい!」

「待て待て待て! こんなところで、刃傷沙汰に及ぼうとするんじゃない!」


 諍いが本格的な闘争に移る前に、初は止めに入った。男たちの間に割って入るが、いかんせん女児の身体では、圧倒的に膂力が足りない。


 二人の間から押し出され「ぶべっ!」床に這いつくばった初の中で、ぶっちんと何かが切れた。


 すっくと立ち上がった初は、据わった目で室内を見回した。宴席の隅で、膳をつついていた亀次郎に歩み寄ると、腕を掴んで引っ張り出した。


「者共、これを見るがいいっ!」


 今にも斬り合いを始めようとしていた二人が、初の声に振り返る。

 何事かと困惑する亀次郎の腰帯に手を掛けた初は、一瞬にして結び目を解いた。そわっ、と袴を引きずり下ろし、ふんどしを掴んで引き剥がす。


 室内の視線が、亀次郎の一点へと集中した。


「……よいな。これが、大金時様じゃ」


 異存はあるまい? と、初は家臣たちを睨め回す。


 急に真顔となった二人は、すごすごと自分の席へ戻っていった。互いに服を着て、先ほどまでの諍いが嘘のように、ちびちびと酒を飲み始める。


「これにて、一件落着──」

「いや、まったく落着してませんからね!? ていうか、早く手を放してっ!」


 その場にうずくまった亀次郎は、落とした袴を掴んで腰に巻き付ける。


 真っ赤な顔で抗議する亀次郎に、初は済まん済まんと手刀を切った。


「目に入ったもんだから、つい」

「ついじゃありませんよ、ついじゃ!? そもそも女子おなごが、男の股に手を掛けないでくださいっ!」


 袴を履き直す亀次郎をいなしながら、初は自分の席に腰を下ろした。途端、初の全身を悪寒が襲った。


 障子の隙間から、瞳が覗いている。瞬き一つしない菊の視線に、初は震えた。


 なぜ、どうしてここにいるのか? 別の部屋で控えているのではなかったのか?


 非常な危機感に、吹き出る汗が止まらない。背を縮こまらせる初に、菊は無言の圧力を掛け続けた。


「ほれ、どうしたどうした、皆の衆! さっきまでの威勢は、どこへいった!?」


 静かに震える初の隣で、光定が声を上げる。

 すっかり意気消沈した一同を見渡して、光定は酒樽を持ってこさせた。


「わしからの振る舞い酒じゃ! 安宅の澄み酒は、天下一ぞ。しかもこの酒は、すこぶるつきの美女が、一晩添い寝した特別な酒じゃ。ほれ、皆で味わうがよい!」


 見れば、初が船の中で、腰掛けていた酒樽である。


 振る舞い酒に行列を作る客人たちに、初は半眼を向けた。


「すまんな、初」


 隣の席に戻った光定が、小声で言った。


「お主がおるお陰で、喧嘩が簡単に収まるからの。皆、羽目を外しやすいのじゃ」

「人をサンドバッグみたいに」


 きょとんとする光定を、初はじろりと睨め上げた。


「返ったら、たえさんと沙希さきに言いますからね」


 妙とは、光定の妻である。

 帰ったら嫁に叱られ、娘に蛇蝎のごとく嫌われることが決まった光定は、面白いほど青くなった。


(これだから宴会は嫌なんだ……)


 労い代わりに出された茶を啜りながら、初は胸中で毒づいた。


 この時代の人間ときたら、男も女も、異常なまでに喧嘩っ早い。自分が馬鹿にされたと感じたら、その瞬間にキレて襲い掛かってくる。酒が入ろうものなら、暴力沙汰に発展するのは確実だ。


 いつだったか、年貢の比率を決める会合に出席したときのことを、初は思い出した。


 興味本位から参加したは良いが、どんどん険悪なムードになるわ、罵詈雑言は飛び交うは、仕舞いには弓やら鉄砲やらが飛び出してきて、会合の場は一瞬にして地獄絵図と化した。あまりの恐怖に、途中から現実逃避していたくらいである。


 素数を数えながら無心になっていたところ、気付いたらなぜか、村人にも代官にも感謝されたのだが、あれはいったいどういう意味だったのか──


「はっはっはっ、さすがは初姫様ですな。いきり立った熊野海賊衆を、ああも簡単に手懐てなずけるとは」


 盃片手に、青海が愉快気に笑う。すでにかなりの酒量が入っているらしく、禿頭は茹でたように、真っ赤になっていた。


「笑い事じゃありませんよ、青海さん。こう毎度毎度騒がれたんじゃ、こっちの身が保ちません」

「なんのなんのっ! 唐土もろこしの海賊共に比べれば、可愛いもの。奴らの無道ぶりを知れば、姫様とて腰を抜かすやもしれませんぞ」


 盃を呷りながら、青海は大声で笑った。


 安宅荘の産物を扱う紀州屋は、海外との交易をおこなう貿易会社でもある。


 そして、この時代の東アジアにおける海外貿易とは、ほぼ確実に違法行為であった。

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