チェリーピンク・バースディ

貫木椿

第一話

「七」はふみにとって特別な数字だった。

彼女の誕生日が七月七日で、七夕の日でもあって、

短冊が飾られた笹を見るとワクワクする。

皆が自分を祝ってくれているようで、

その日ばかりは自分が「お姫様」になった気分になる。

そんなわけで「七歳」を迎える今年の誕生日は、

彼女の一生において特別な日になるはずだった。


「お父さん帰ってこないの!?」

帰宅を出迎えた母が告げた言葉によって、文の期待は裏切られた。

「遅くなるだけだからね、急に明日までの仕事が入っちゃって」

「また?私の方が先に約束したじゃん!」

「お父さんだってね、文を怒らせたくて破ったわけじゃないのよ。」

文だってそれは分かっている。でもだからこそ余計腹立たしいのだ。

「だからね、今度の休み――」

「もういいっ!」

毎年母と一緒に用意している笹に向かって、文は思いっきりランドセルを投げつけた。

「なんてことするの!」

「もう知らないっ!」

散らばった笹飾りも呼び止める母の声も無視して、文は玄関を飛び出した。

その瞬間、薬缶がピーーッと鳴ったので、母は彼女をすぐに追いかけられなかった。




自宅の裏山にある、座ると頭が出るほど浅い枯れ井戸(と文が思っている)の中、やぶ蚊を払いながら文は後悔し始めていた。

この井戸は彼女が幼稚園の頃から「秘密基地」と呼んでいる遊び場で、ここにしばらく隠れて父を困らせてやろうと考えていた。

けれども陽が沈むにつれて樹々の影が伸びていくのを眺めているうちに、なんだか怖くなってきた。

(そもそもお父さんが悪いんだ。)

五歳のクリスマスも残業で一緒にケーキ食べられなかったし、

去年の大晦日も出張で年越しできなかったし、

ゴールデンウィークなんて皆で旅行に行くはずが父だけ付いて来なかったのだ。

折角七月七日七歳の誕生日なのに祝ってくれないなんて、お父さんのバカ。

でもそんな父より馬鹿なのは自分だと、お腹が空いてきて文は気付いた。

折角飾りつけをした笹に八つ当たりなんかして、

ケーキだって母が買ってくれているだろうに食べるはずだった自分はいないのだ。

お母さん、今頃私を探しているのかなぁ?

井戸から顔を出してみると、あちこちに灯りの点いた家や車が見えた。

山から下りること自体は楽だけど、気持ち的に帰りづらい。

何より猪や蛇などの危険な生き物と遭遇するかもしれないのだ。

「お嬢さん、こんな所で何をしているのかな?」

涼やかな男の声が、文の頭上に降ってきた。見上げると天の川を背景に、日本人離れした男の顔があった。若いモデルみたいにきれいな顔立ちなのに白髪で、それを一本の三つ編みにしている。ごく薄い青緑色のコートと相まって、全体的に「冬」という印象を与えたが、目だけは火の玉みたいに赤かった。

「お兄さん、外国の人?その恰好暑くない?」

男か女か分かりづらいその人物は、はにかんで答えた。

「私はとても寒い国から引っ越してきたばかりなんだ。

夏の日本も夜風が肌寒いから、これでちょうどいい位だよ。」

なるほど、確かに涼しい気がしてきた。

「ところで、お嬢ちゃんはかくれんぼ中かな?」

文は大きく頭を振って答えた。

「お父さんへのお仕置き中」

「お仕置き?それが?」

コートの男が目を丸くしたので、文は事情を話すことにした。

「お父さんね、今年こそは私の誕生日一緒にお祝いするって言ってたのに、

 約束破ったの。いい子にしてたのにお仕事しなくちゃいけないんだって。

 だから私が怒ってる分困らせてやるの!」

「なるほど、でももう暗いから危ないよ。」

コートの男は井戸の中の文を抱き上げた。

「私の屋敷に案内しよう。この辺りで一番、天の川に近い所だよ。

 君は新居に初めて招くお客様だね、お姫様。」

「お姫様、やったぁ!」

左右に束ねた髪とヘアゴムのリボンを揺らして、文ははしゃいだ。

知らない人について行ってはいけないと耳にタコができる程言い聞かされていたけど、かまうもんか。

夜九時過ぎにテレビを見ている時よりワクワクしてきた。

「まだ名前を教えてなかったね。私はサイコース。変わった名前だろう。」

「たなばた ふみっていうの。お婆ちゃんが付けてくれた名前。お母さんは〝あや〟にしたかったんだけどね。〝あや〟のがハツラツとして可愛いのにと言ってたけどね、今のままでもふんわりした感じがして好きだけど。」

などと、文はサイコースの顔を見ながら話に夢中になっていたので、

彼の踏んだ草や土に霜が降りていることに気付かなかった。

「さぁ、着いたよ。」

星空に照らされた館は文の家の三倍も五倍もありそうで、

窓から青白い光が漏れていた。

どうして近所なのに、こんな立派な建物を知らなかったのかしら?

と文は疑問に思った。

しかし、いつからこんな建物があったのか、いつの間にかできていたとしても、

何故工事に気付かなかったのかまでは思わなかった。

「ようこそ、ルリム館へ」

 石畳の道を進んで、両開きの大きなドアの前まで来ると、こちらに歓迎の意を示すかのように内側から静かに開いた。

「こんな自動ドア初めて!」

「ハハッ、故郷のイイーキルス城からそっくり持ってきたからね、

 もっと面白い物があるよ。」

玄関ホールは青一色で、非常に広かった。床は鏡のようにツヤツヤしていて、

天井から青白い炎がともったシャンデリアが吊るされていた。

「滑りそう!」

「大丈夫、しっかり捕まって。」

サイコースが文をそっと床に下ろし、彼女は彼の右手を両手で掴んだ。

サイコースが右足を踏み出したので、文の体も彼につられて滑らせた。サイコースの足はそのまままっすぐに滑っていくので、文は腰を引かせながらもついて行った。

「怖くない怖くない」

サイコースは励ましながら、文の手をゆっくり外そうとした。

彼の左手は文の右手をそっと掴み、

それを自身の右手から一本ずつ指を離していった。

「離すよ」

今度は文の汗ばむ左手を一本ずつ外していき、最後に自身の右人差し指を掴んでいた文の二本の指が離れた瞬間、

彼女は浮遊感に襲われた。が、恐怖は一瞬のことだった。

「空飛んでるみたい!」

文は両手をバタつかせ、ゆっくりと上体を起こした。今まさに自分は、滑る床の上を二本の足で立っているのである。

「そう、その調子だよ。」

いつの間にか離れた所にいるサイコースに向かおうと、文は右足を蹴った。

ところがそれが大きすぎて、彼の脇を横切ってしまった。

けれども滑った時に起きた風が心地よくて、文は大きく旋回した。

滑りながら彼女は思った。スケートってこんな感じなのかなぁ?

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