19-菓子
すぐに逃げるべきだった。俺の野性の本能は、一刻も早く逃げろと言っていた。
だが、森で人間を見てすっかりおびえてしまったマーは寝床にもぐりこんだまま震えているし、以前より道具を増やしてしまった俺は、ナイフ一本で飛び出して別のねぐらを探しに行くわけにもいかなかった。そのうち暗くなったから、人間たちも一旦撤退しただろうと踏んで、そのまま眠ってしまった。
翌朝、まだ明けきらないうちに最大級の警戒をして、俺は周囲を見て回った。どうやら人間たちはもう、このあたりにはいないようだった。新しい場所へ移るにしても、怯えてしまったマーを外の空気に慣れさせてやらなければいけない。さらにその翌日、やはり早朝に、俺は同じルートをマーと巡回した。そして、昨日はなかったはずのそれを見つけた。
マーの編んだ、どこかに落としてきたはずの籠。その籠に、甘い香りの菓子が盛られている。短い手紙も挟まっていて、俺はこのときどうして、マーにフランス語の読み書きを教えてしまったのかと後悔した。
「黒い森の清き姫よ、もう一度どこかで、再びまみえることができるだろうか。……だって」
一瞬きょとんとした顔をしてから、ひぁっと叫んでマーは飛び上がった。見たこともないほど顔が紅潮している。怖さと、嬉しさと、恥ずかしさ。それが同時に溢れかえって、全身がパンクしそうだ。俺は真っ赤になって震えているマーを抱えて、一旦、籠の中身を持ち帰ることにした。
洞窟でようやく落ち着いたマーは、菓子を食うと言って聞かない。毒かもしれない、と警戒したが、たとえ埋めても掘り返して食ってしまいそうなマーの勢いに負けて、俺は菓子を毒見してみることにした。最悪、俺が死んでも今のマーなら少しくらいなんとかやっていける。俺が死んだ場合の対処法まで、半ば脅しのつもりで話して聞かせたが、マーはうん、うん、とうなずくばかりで菓子から目を離さない。やれやれ、俺より菓子のほうが大事か。ちぎって中身を確認したせいでぼろぼろになった菓子を、俺は一かけら、口に放り込んだ。
何十年、いや、何百年ぶりの味だろう。甘く、豊かに、アーモンドと砂糖が口の中で溶ける。脳みそが痺れるような、ぼんやりとした眩暈。いや、毒じゃない。たぶん毒じゃないが、とろけるような快楽が過去の記憶につながっていく。鼻に抜けるアーモンドの香りが、懐かしい感覚をダイレクトに刺激してくる。
「ター、ター、大丈夫? やっぱり毒なの?」
呼ばれてようやく、我に返った。頭を軽く振って、意識をはっきりさせる。
「いや、たぶん大丈夫だ。マサパンだな」
「マサパン?」
「昔、グラナダで食った。ドイツ語で読むとマルチパン、英語読みならマジパン、ってとこか」
おずおずと手を伸ばすマーを止めようとして、その理由がないことに気づく。菓子を口に含んだマーは目をまん丸にした。まるで違う世界に飛び込んでしまったかのように。
「甘い……おいしい……おいしい……。……おいしい!」
驚愕の表情が抜群の笑顔に変わり、きらきらと瞳が輝く。そりゃそうだ。俺と違ってマーは、今まで甘いものなんて、野生の果物か、たまに見つける蜂蜜くらいしか食ったことがないんだから。
「全部、食っていいぞ」
飛びつくように菓子を頬張るマーを見ながら、俺は一種の、罪悪感に似た気分を味わっていた。人間は恐ろしいものだと教育したが、実際、それは完全に俺の都合だ。人に見つかれば記憶され、再び見つかれば化け物として迫害される。人間は俺たちを殺すもの、だから人間は怖い。そう教えてきた。でもそれは年を取らない俺だからであって、マーには何の関係もない。このまま、人の世界を忘れたまま、あいつを森に閉じ込めておくことが、果たして本当に許されるのか。
「なぁ、マー」
「んー?」
口いっぱいに菓子を詰め込んだマーが、喉の奥で返事しながらこっちを見る。
「人間について、少し、話しておきたいことがある」
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