鳳凰の巣

松本正宗

第1話 

 阪急塚口駅南口からJR尼崎駅へまっすぐ十分程歩いたところにあるお世辞にも綺麗とは言えない立派な病院で俺は産まれた。頭は悪いがプライドだけ高い愚かな父親と男を見る目が腐り果てている母親の長男としてこの世に強制的に発生し、弟が二人産まれた後も戸籍上父親のカスに頭を悩まされる人生を送るはずだったが、俺が小学生の時に父親は歯茎の長い茶髪の愛人と栗拾いに行き二人仲良く栗の棘が頭に刺さり、病院に運ばれた二日後に呆気なく死んでしまった。

 そこから先はトントン拍子に良い方へと物事が進んだ。父親を殺したときのためにかなり多めにかけていた生命保険金が入ったことや母方の祖父母が裕福だったこともあり、金銭面で困ることはなかった。さらに、母親が結婚してからの碌でもない人生を綴ったエッセイ本が爆発的に売れ、エッセイストとして息子三人を十分養っていけるほどの収入を得ていた。

 親父が死ぬまでは奴の仕事の都合で名古屋に住んでいたが親父の死後は俺が元々関西に戻りたがっていたこともあり生まれ故郷の兵庫県尼崎市南塚口町に戻ってきた。これから語る話は俺が尼に戻ってから数年後、高校入学の時からはじまる、どこにでも転がってそうなアホで騒がしい学生時代の物語だ。



           塚口・王子公園・入学式



 新年度の始まりを祝うかのように咲いた桜の木を小さな毛虫がいつか空を飛ぶことに想いを馳せながらもぞもぞ登っていた。その毛虫から十時の方向にあるマンションの一室で十年ほど前に流行った夏の恋を歌ったコマーシャルソングがけたましく鳴っていた。

 「兄ちゃんはよ起きや。目覚まし消してくれなうるさぁてかなんわ」

 今日から中学校に入学する景が部屋に入ってきてぼやいた。

 「うんぁ。君は生き残ることができるか」

 「どんな夢見てたんや。はよ起きな入学式間に合わんで」

 お手本のような呆れ顔で弟が部屋を出ていってからようやく体を起こす気になった。綺麗でごっつい校舎と校訓に惹かれてそれなりに努力して入学した学校に初日から遅れてはかなりサブい。そんなことを考えながら携帯を手に洗面所によって顔を洗いダイニングに向かった。

 「おはよう。朝ごはん何食べる」

 既に台所で弟の朝ごはんを用意しているおかんが毎朝の定型文を投げかけてきた。

 「おはよう。ご飯と卵焼きとソーセージ」

 「オッケー」

 俺のリクエストを快諾し冷蔵庫を漁りだした。父親が死んでからエッセイストとしての才能を開花させ息子たちになんの不自由をかけさせないほどの収入を得ている母親を俺は尊敬している。日常がガラリと変化した数年前から格段に明るくなった母親を見てると傍から見れば大きな災難である夫の死は決して傍から見たそれではないと思った。

 「今日出版社と打ち合わせやから夜外食してくれる?お金おいていくから。家で食べたかったら何か作ってから行くけど」

 「外で食べるから大丈夫やで。どこで打ち合わせなん。梅田」

 「そう!こないだ出した新刊がめっちゃ重版かかるみたいでシリーズ物にせんかって話みたいよ」

 「新刊て『アキコの悪夢』か。あんなゴミみたいな婆さんでも役に立つこともあるんやな」

 アキコは父親の母親、つまり俺の父形の婆さんなのだがここで言うこともはばかられるようなことをおかんや孫の俺達にし続けた根性の悪い姑であり祖母である。現在はもうこの世にはいない。頭はボケ、身体も言うことがあまり効かなくなった末、夜間徘徊の途中に淀川を三途の川と勘違いして飛び込み溺死した。この死に様は、ババアの死体が見つかったのは大阪湾沖であったためあくまでも俺とおかんの予想であることを断っておく。

 「そういうことよ。じゃあ夜よろしくね。そういえばあんた今日の朝に雄基君たちと待ち合わせしてるんちゃうの」

 「そうやった。一緒に入学式行く約束してたん忘れてたわ」

 テレビの時計を見ると待ち合わせの時間まであと二十分足らずだった。急いで朝ごはんをかきこみ歯磨きと着替えを済ませ弟にいってらっしゃいと手を振られながら家を出た。待ち合わせ場所は阪急塚口駅南口なので家から五分少々で着く。待ち合わせのときには十分前には着きたい性格なのでちょうどいい時間だった。家から出てすぐのところにあるコンビニで飲み物を買ってから駅に向かって少しだけ早歩きで進みだした。

 春先ということもあり朝の空気は鋭い冷たさを投げつけてきたが、気が遠くなるような年月をかけて太陽が降らした気持ちのいい日光によって、その鋭さが心地よく感じた。駅に行くまでの街並みを眺めながら歩いていると、小学生の頃に戻ってきたこの街も今や胸を張って故郷と言えるまでに愛着が湧き、街も受け入れてくれていると思った。引っ越した当初は久々の関西で戸惑うことも多く、新しい環境に打ち解けるのも時間がかかるだろうと思っていた。しかし、同じクラスになった吉田雄基と濱田聖斗がそんな不安を消し飛ばしてくれた。子供の頃から論理的で冷静な雄基と誰よりも情熱的で飛び抜けて明るい聖斗の二人と居ることが名古屋にいた頃には味わえなかった充実感を俺に与えてくれた。

 

 

 二人との関係が始まったのは引っ越してきてから初めての大きな行事であった王子公園への遠足のときだ。いじめられっこ気質であった俺は糞投げに定評のある象さんの檻の前でいじめっ子たちに囲まれていた。

 「お前んとこ父ちゃんおらんねやろ?余所者の貧乏人が俺たちの小学校来んなやー」

 「親父おらんくても貧乏ちゃうし。おかん頑張ってるもん。俺生まれたの塚口やから他所もんちゃうわアホ」

 「うっさいわ。お前のおかんなんかが作った弁当なんかどうせまずいやろ。象の糞のところに捨てたるから貸せや」

 ガキ大将ぶってた八木君がそう言ったのを合図に取り巻きの連中が俺の持ってた弁当を奪おうと飛びかかってきた。

 「おら、やっちゃんが貸せ言うてんねん、貸せや」

 「やめろや。てかお前口臭いねん。お前の弁当こそ捨てろや」

 おかんが入れてくれた俺の好物ばかりの弁当。単純に取られたくない気持ちと朝おかんが弁当を作ってくれているところを思い出し抵抗しながらも涙が出そうになってきた。泣いたらこいつらの思うツボだと思い我慢していたが、もうそろそろ涙袋が決壊すると諦めかけたとき、後ろから声が聞こえた。

 「お前らサブいことしてんなやコラぁ。象さんが鼻で笑うで。象さんだけに」

 「うまないねん」

 声のした方を見ると季節的に少々気の早い半袖短パンの聖斗と小学生にしては大分背伸びしてる春先のジャケットを着た雄基が並んで立っていた。

 「お前ら関係ないやろ。どっかい······」

 八木君が言い切る前に聖斗が八木君の平べったい顔にドロップキックを食らわしていた。あわれ八木君は勢い余ってそのまま象の檻の周りについてる手すりを鉄棒の要領で回ってしまい檻の隅にあった糞に尻餅をついてしまった。

 「なーっはっはっは。ケツうんこまみれやんけ。人の弁当捨てようとするからバチ当たっとんねん」

 聖斗が嬉しそうに飛び跳ねながら言った。

 「お前らこんなことしてええおもてんか。先生に言うぞ」

 「せやせや先生に言うぞ」

 「言うてもええが、お前らが先生に言うなら俺らもしっかりこうなった経緯を先生に説明するで。悪いことをした訳でもなく、お前らのいちゃもんにも丁寧なほどに受け答えしていた龍一が怒られる理由は何もないし、その龍一を助けた俺らも同様や。せやけど、お前らの方はどうやろな」

 雄基の淡々とした状況説明に取り巻きのアホたちの先生に言うぞコールは完璧に消え失せ、その場には青ざめた顔で俯いているアホたちだけがいた。声を出してるのは尻が変色し、うえうえ言いながら涙を流している八木君だけだった。

 「龍一、一緒に弁当食うやつおらんねやったら俺らと食うか」

 「それええやん。食おや龍一」

 雄基の言葉に反応した聖斗が楽しそうに俺に飛びついてきた。

 「うん、食べる。ありがとう。俺の名前覚えてくれたんやな。」

 「当たり前やん。同じクラスの友達やし。それになんとなく仲良くなれそう思てたからな」

 聖斗の言葉にちょっぴり泣きそうになったが笑ってごまかした。

 「よし、じゃあこんなとこ離れてちょっと高台になってるとこで食おや。あっこ眺めええし女子もあのへんで食ってるやつ多いみたいやで」

 「女子おるん。ええやん。こころちゃんおるかなぁ」

 「お前さんほんまあいつ好きな。たしかに可愛いけど」

 「せやろ。俺はいつかこころちゃんとチューするねん」

 聖斗は情熱的だった。

 「好きなだけチューしたらええがな。龍一は誰か気になる子おるん?引っ越してきてまだひと月ぐらいやけど」

 「うーん、梨村さんかわいいと思うけど気になるとかじゃないな」

 「梨村は俺らの学年のアイドルやからな。でも梨村は龍一のこと気になってるみたいやで。お前自己紹介のときダウンタウンが好きって言うてたやろ?梨村もダウンタウン好きやねん。」

 「ほんま。じゃあ仲良くなれそうやなー」

 「やろ。今日遠足終わったら俺の家で遊ぶねんけどお前さんも来いよ。梨村も来るで」

 「えっ行きたい。行ってええん」

 「来てほしなかったら誘わへんで」

 そう言いながら優しく笑った雄基を見て俺は幸せな気持ちになった。さっきまでは最悪な日だと思っていたのに今は引っ越してきてから一番の幸せな日だと思っていた。今からのお弁当も楽しいだろうし、何より放課後に遊ぶ約束が出来た事が俺の気持ちを豊かにしていた。お弁当を食べるために向かっている高台への坂道は昨日降った雨がキラキラ光り、坂道の先の空は夏が会いにきてくれたのかと思うほど青く、笑っていた。

 

 

 待ち合わせ場所にはちょうど十分前に到着した。朝の出勤時間帯なので駅前のロータリーには生きるため、幸せになるため、仕事に向かう人たちで賑わっていた。駅の方からは特急電車が通過することを注意喚起するホームアナウンスが流れていた。

 「おっす。いつもながら早いな」

 そう言いながら雄基が片手を上げて近寄ってきた。

 「おはよう。来る順番は高校入っても変わらんみたいやな」

 「まあ聖斗は絶対最後やし、こころと架純はいつも丁度に来るからな。架純は家北側やのに待ち合わせくるん」

 「あぁ、一人で行くの嫌やから来る言うてたで」

 王子公園の遠足から未だに俺らは仲良くしている。遠足のあと架純やこころと雄基の家で知り合い、それからは仲の良い五人組として、周りにも知られている。高校受験でバラバラになるかと思ったが、聖斗以外は第一志望が鳳凰尼高で全員合格し聖斗は第一志望に落ちて鳳凰尼高に進学することになった。因みに聖斗は五人の中で一番賢い。第一志望は全国的に有名な進学校で偏差値は七十を超えていた。そこに聖斗は数点差で落ちてしまったのだった。しかし、本人はあまり凹んでもおらず架純の家で聖斗残念会をやったときも一番テンションが高かったのは聖斗でなぜこの会を開いたのか忘れるほどだった。さて、この中で色恋沙汰があったのか、これからあるのかは各々勝手に判断していて頂ければと思う。

 「おはようー。晴れてよかったね今日ー」

 立浪こころが眠そうな顔で俺たちのいるところに近寄ってきた。

 「おはよう。お前だいぶ眠そうやな。昨日遊んでたん」

 「うん、聖斗が映画行こって言うから梅田行ってた。マンピース観てきたけど普通に泣いたわー」

 マンピースは麦わら帽子をかぶった青年が大秘宝マンピースを探して旅をする目下大ヒット中の漫画である。

 「あれ昔の話の焼きまわし映画やろ?やっぱ原作あるなら漫画で読まなあかんで。なあ雄基」

 「マンピースてどんな話なん」

 「お前に話し振ったのは俺のミスや、すまん。雄基はコーナンしか読まんもんな」

 名探偵コーナンはホームセンターで勤務する万引きジーメンが主人公の推理漫画である。

 「それにしても、架純遅いな。聖斗はまだ来ないん普通やけど架純は普段こないに遅れへんねんけどな」

 そう言いながら俺は架純から連絡が来てないか携帯を確認した。

 「流石、しょっちゅう二人で遊んでるだけあって詳しいねー」

 こころがニヤニヤしながら言った。

 「アホか。特別二人で遊んでる言うわけでもないわ。お前かてよう遊んでるやんけ」

 「いやいや、意味合いがちゃうよー」

 相変わらずニヤニヤしているこころを無視して携帯画面を見るとちょうど架純から電話がかかってきた。

 『もしもし龍一。ごめん今起きてんー。初日から遅刻やわ最悪や』

 「アホやなぁもう。まあ式自体は九時半からやから今から急げば間に合うやろ。あんま慌てず急いで来いよ」

 『うん、ありがとう。私と龍一同じクラスやったらええね』

 「やな。学校着いたら確認しとくわ」 

 『うん。じゃあ後でね。みんなにも謝っといて』

 「あいよ」

 携帯を切ってから二人に電話の内容を伝えた。あとは聖斗だけだが、いつまでも待つと俺たちまで遅刻してしまうので先に行こうかと駅の北側へ渡る踏切の方へ歩き出した時、後ろから情熱的な声が聞こえてきた。

 「おはようー、こころちゃーん。今日も可愛いねー」

 野良犬の体毛で踊るノミのように飛び跳ねながら聖斗が満面の笑みでこちらに向かってきているところだった。

 「はいはい、ありがとう。そんなに叫んでしまうほど可愛い女の子を待たせるのいい加減やめなさいね」

 最早慣れ過ぎて聖斗を出来の悪い息子のように扱うこころが呆れたような顔をしながら言った。

 「よし、じゃあ行こか」

 雄基の落ち着いた声を合図に今日から三年間お世話になる学び舎へ向かって四人でぞろぞろと歩き出した。四人で踏切を渡った直後、カンカンと踏切音が鳴り出し少し間を開けてから特急電車が轟音を鳴らしながらまるで進行方向に何か欲しいものがあるかのように必死に走っていった。子供の頃あの音を怖がってあの踏切の前でベビーカーに乗りながら何度も号泣したことを思い出しながら、鳳凰大学付属尼崎高等学校への記念すべき一回目の登校を楽しんでいた。これから始まる人生最大の青春時代に思いを馳せながら。

 

 

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