第11話
「後は由美さんに任せて、ソウくんは先に帰って」
「はい、分かりました」
「澄美も先に帰りなさい」
「待たせておいて今更帰れって言うのよ!」
時間は八時過ぎ。会社から駆けてくる由美さんも病院に着いていた。着いたところには一時ハアハアと息が切れていたけれど、呼吸が落ち着いたら、由美さんはさっそく診察室へと向かっていった。
事情はさらに複雑になったので、俺と澄美は帰らされることになった。
別に俺がいてもできることはないし、とても正しい判断だと思うが、澄美は納得できないようにぶつぶつと不満を言っていた。帰れって言うなら先に言え、と。
そんな騒がしい二人を差し置いて、俺は自転車を取っておくことにした。
今は一人でいたいのだ。
エレベータで地下まで降り、行くともなしに駐輪場に行く。途中ですれ違った人と車が走る音を構わず、ただ体を引っ張っていく。
和音の泣き顔は脳を丸ごと占めている。一筋の涙が和音の頬を伝い、跡を残していったのをちゃんと目で見たから、どうしでも頭から離れてくれない。
彼女が泣いていた理由、今になっても心当たりなんて一つもない。確かに生まれた直後の赤ちゃんはすぐにワイワイと泣くけれど、和音は赤ちゃんじゃあるまいし、目を覚めた直後にすぐ泣き出してしまったわけでもない。
「はあ……」
駐輪場に着いたところで、俺は大きくため息をついてしまった。何回目のため息だろうかと自分に問いかけて、自転車のノックを解除し病院の正門へ引き返す。
「やっぱり理解できないな」
それでも、一つだけは分かる。
その時、俺はどんでもなく震えていた。
すごい勢いで湧き上がってくる吐き気をどうにかこらえるだけで精一杯だった。
最適なやり方を考え出せずに、非常ボタンを押そうとしなかった。
もし澄美が病室に来てこなかったら、俺は和音を危険な目に合わせてしまったかもしれない。
自転車を押して正門に戻り、しばらく立つと足の裏からふくらはぎまですごいしびれを感じた。
普段と比べて、今日はかなり足を使った自覚はあるが、まさかこれだけの運動量で足がこんなに痛くなるのは思っていなかった。
「今日は入浴剤を入れようか」
天気もかなり寒くなっているし、少々長く浸ってもいいよな。
今日のお風呂を楽しみにしながら、手を温めるために息を吐く。白い息が立ち上りすぐに消えていった。
もう白い息が出るほどの温度に下がったのか。思わずにもう一度息を吐き、息が上がっていくのを見上げようとしたところで。
「奏佑、愛してるわ~」
いきなりパンチを打ってくる女が現れた。もともと空振りするつもりのようなので、俺はよけなくてもパンチは当たらなかった。
言うもでもなく、このようなイタズラをするのは澄美だけだ。俺を見かけるたびに必ず元気そうにパンチを打ってくるのはもう癖になっている。
「おっとっと」と転びそうな澄美を、俺は手で支えてやり、呆れた目で彼女に言う。
「愛してる相手にパンチなのか? 普通」
「じゃあ~」
澄美はイタズラっぽく笑い、つま先で立ちながらこちらの頬に近づいてくる。
その意図に気づき、俺は少し後退りした。
キスをよけられたのに、澄美は一時膨れっ面を作ったか、また何かを思いついたように人差し指と中指を自分の唇に当てた。
「奏佑、愛してる」
今回は投げキスなのか……。
彼女らしいというか、ありのままでいられるというか、俺の姉はとにかくマイペースな人間なのだ。
そんな彼女の態度に、俺はすでに慣れている。
「……あのさ」
「ん?」
「お前って本当に日本人なのか?」
慣れてはいるが、まったく納得できたわけではない。
特に外では、やっぱり自分の言動を慎むべきだと思うのだ。
「札幌人よ! あ、今は東京人か」
「……はあ」
一瞬ツッコミたくなったが、ツッコミどころが多すぎて逆に口籠ってしまった。ツッコミを入れるタイミングを逃れていると、澄美は「エイッ」と俺の腕を絡めてきた。
手に伝わる柔らかい感触は間違いなく胸の感触だ。
血の繋がりがないとはいえ、十年間以上もの間同じ屋根の下で暮らしていた姉だ。いまさらドキッとしたりしない。
「お前さ、今日随分テンション高いじゃねえ」
「だって、和音ちゃんが目を覚めたもん!」
やっぱり和音のことが原因だ。
笑顔を浮かべた彼女に目をやり、俺はふっと気づいた。
和音が回復したのはとても喜ばしいことのはずなのに、俺はなぜか嬉しいという気持ちより、他に何かの気持ちが強かった。その正体の知らない気持ちに焦りまで感じた。
俺の心に一体何か起こったのだろう? 自分に問いかけてみると、俺は考えるのをやめた。
このまま深く考え込んだらまずいと気がしたのだ。
俺は頭を振り、意識を思考から再び澄美に戻す。
「だとしても、自分の言動に注意すべきだ。ほら、さっさと俺から離れろよ」
外で彼女でもない女にぴったりくっつかれるのは嫌だ。いや、例え彼女だとしてもこれほど密着するのはダメだ。
「ええ、いいじゃん。あたし、大学生の傍らグラドルやってるのよ」
「だから?」
「グラドルとイチャイチャするのにお金が必要でしょ。だから、奏佑はもっとありがたく思いなさいよ。あたしとタダでイチャイチャできるから」
「別にイチャイチャしたくないし」
「もうっ、いい」
澄美は拗ねるように膨れっ面を見せた後に、手を離してくれた。そんな彼女をよそに、俺は自転車を押して家の方へと向かった。
「ちょっと」
「家に帰るけれど、お前は帰らないのか?」
少し歩きだしたところで、彼女の声につられて俺は振り向いた。
「乗せてよ」
「二人乗りは禁止だぞ」
「……足痛いけれど」
俺は澄美の足に視線をやる。かかとの高いブーツだ。
「自業自得だろ」
と言ったものの、俺は後ろの座席を叩いた。
「ありがと。やっぱり奏佑が好き」
と言う澄美はすぐに自転車に乗った。
まったく、俺だって足が疲れているのに。心の中で愚痴を言いながら俺は自転車をこぎ始めた。そして、仕返しにいいアイデアを思いついた。
「お前また太ったんじゃねえ?」
「もう! それ、女の子に言っちゃいけない言葉第二位よ」
え? 第一位じゃなかったのかよ?
その問いを訊くより先に、澄美はいきなり手を俺の腰に回り、体重を丸ごと預けた。
「ね、奏佑」
「ん?」
「やっぱりあたしの言う通りでしょ」
「そうだな……」
訊くまでもなく、彼女は和音のことを言っているのだ。
しかし、いちいち自分の気持ちを片づけていない俺には、曖昧な相槌を打つしかできない。
俺が黙っていると、澄美はまた話しかけてきた。
「ね、奏佑」
「今度は何?」
「ううん。なんでも」
澄美は俺の背中に埋めたのを感じた。また何かを企んでいるのかなと思ったけれど、何か違う気がする。
再び、俺たちの間に沈黙が続く。
この珍しい静かさに従い、俺はただただ自転車をこいでいた。
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