8

「『どうせ私のことを笑ってるんだ』って言われたんだけど……どういう事か分かる? ユフィー」

 スコールが飛び出していった部屋で、ディオはユフィーの方を見て訊いた。ヒバリに、「ほら、動かないで。こっち向いてて」と顔の向きを直される。

 スコールが部屋を飛び出した後、階段を駆け下りた彼女の姿を、ユフィーは見つけた。声をかける事も憚られるその後ろ姿を見て、今日という一日を思い返しその理由に思い当たった彼女は、ヒバリを連れてディオの部屋に顔を出した。

 荒れた部屋でヒバリはディオの顔と肩の手当をし、ユフィーは部屋の惨状をどうにかしようと頑張っている。裂けたクッションやカーテンは取り外し、何とか取り急ぎ代わりのものに付け替えた。

 ユフィーは手を止めてディオを振り向き、素直になれない友人に思いを馳せる。

「……スコールは、貴族なのに女王候補になれなかった自分に、負い目を感じてるんだと思います」

 今回の女王候補育成案は前例の無い事だとはいえ、次代女王となるその候補の選定については、当然のように我が国の重要貴族の中から選ばれるのだと、誰もが思っていた。スコールは両親から、目一杯の期待をかけられ、また、幼い頃からあらゆる教育を受けてきた彼女自身も、自分が次代の女王の候補となるに相応しいと信じて疑わなかった。

 それが発表されてみれば、候補として宮殿に上がるのは貴族でも無ければ町娘でも無い、狩猟村の娘達だ。貴族達や、その期待を一身に背負っていたスコールは、あまりの出来事にうちひしがれた。ディオとヒバリの脳裏に、日の曜日の昼下がりが蘇る。

 その頃、数年前から宮殿の下女として奉公していたユフィーは、女王候補付きの侍女を捜しているという話を聞いて昔親交のあったスコールに話を持ちかけた。宮殿側では、選ばれた女王候補達とより年の近い者を捜していたらしく、宮仕えの女達では総じて歳が上過ぎたのだ。

 そしてスコールは、女王候補ではなく、その侍女として宮殿に上がることを決めたのだった。

 ユフィーが語った事に、ヒバリとディオの二人は言葉を失う。二人が今居るのは、本来なら、なりたいと願って努力してもなれるものではない立場。その責任と期待は、否応にも計り知れないものなのだ。

「……」

 瞳を伏せった二人の様子を見て、ユフィーは気遣わしげな声を出す。

「あの、あまり気になさらないで下さい……」

 ヒバリは手当道具の入った箱をゆっくりと閉じ、ディオは拳を見つめて考える。

 この手は幼い頃から、戦士の手として鍛えられてきた。そんな――国民達からすれば、どこの馬の骨の様な者が突然次代の女王を名乗った所で、スコールの様に思う者がいるのは無理からぬ事だ。

 実際、ヒバリとディオの二人も、自分達が何故ここへ選ばれたのか、答えを探し出せずにいる。 

「もう選ばれてしまったものは、どうにもできない……。選ばれた私からは、何も言えない……」

 ディオの言った言葉に、ヒバリも静かに頷いた。ユフィーにはその表情が、二人からの謝罪に見えた。

 そうしてディオは顔を上げると、瞳に星の輝きを宿して言葉を続けた。

「――だから……それなら私は、スコールの分まで頑張ってみせるよ」

 ヒバリとディオには、彼らが納得できる女王になる責務があるのだ。

「時間はかかるかもしれないけど……」

 あはは、と頬を掻くディオにヒバリも笑う。「そうだね、私も。精一杯頑張ろうね、ディオ」

「うん」

 笑むと、頬についた爪痕が痛む。いてて、とディオは痛みに顔を歪める。ユフィーは彼女達の輝きに、手を止めて微笑んだ。

「……貴女達の様な方にお仕えできたことは、私達にとっての幸運だと思いますわ、グランディエ様」

 呟いたユフィーの声に、ディオは顔の傷を撫でつつも笑顔を返した。


 結局、スコールはディオの部屋に戻ってこなかった。捜索を申し出た主人達を制してユフィーが一人宮廷内を捜すと、広い庭園に一つだけある噴水の傍ら、一人ぽつんと佇む姿が見つかった。

 ディオの元に戻るように説得するが、彼女は首を振るばかりだった。仕方が無く当分の間はスコールがヒバリの世話を、ユフィーがディオの世話を、彼女達侍女の役割を逆にする事で、一時問題は沈静化している。

 そうして、三日が過ぎた。


 カーテンが開く音がして、朝日が差し込む。ヒバリはまぶたにぎゅっと力を入れて、寝返りを打った。「――うぅ……ん……」

 昨日もディオと遅くまで国語の勉強をしていたのだ。まぶたを通して入ってくる刺激を尚も拒絶するヒバリだったが、聞こえたスコールの声に観念して目を開く。

「ほら、朝よ。起きなさい。……あーあー、むくんじゃって。ひっどい顔ね」

 ヒバリの顔を覗き込んだスコールは手鏡を向けた。

 ヒバリが手鏡に顔を写し込むと、確かに浮腫んだ酷い顔が彼女を覗き返した。この顔で騎士達と顔を合わせなければいけないのかと思うと、途端に憂鬱になる。顔を両手で包み込んで蒼白になるヒバリに、スコールはすすぎを用意した。

「連日夜更かしをするから、そうなるのよ。とりあえず、顔を洗ってしゃっきりなさい」

 彼女が用意するすすぎの温度は、冷たすぎず熱すぎず、ちょうど良い。ヒバリはこの数日をスコールと共にして、彼女がユフィーと同じくらい、あるいはそれ以上に優秀な女性である、という事に気がついた。ヒバリが自分で気がつけない様な所に、細やかな心配りが光る。

 昨日、教育から返ってきた際、夕食の前に紅茶を淹れてくれたが、彼女が淹れる紅茶はユフィーが用意してくれるそれより、より薫り高いような気がしたものだ。夜、ベッドに入る前に寝間着に着替えると、その着物に焚き込めてあった落ち着く香りが、ヒバリをすぐに夢の世界へ誘ってくれた。

 物言いだけはきついところがあるものの、数日ともに過ごせば素直になれないその言い方を可愛いと感じるようになってきた。全く、村娘の身の回りの世話などには、もったいない素敵な女性だ、と思う。

 ユフィーが一緒の時は朝の支度をほとんど自分でしていたヒバリだが、スコールがテキパキと先回りをしてくれるお陰で、ペースをすっかり彼女に奪われてしまった。

 今朝も彼女の用意してくれた白湯を一杯いただいて、用意を済ませて部屋を出る。スコールを引き連れてディオの部屋へ向かおうとした時、階段の踊り場で当の彼女とユフィーに行き会った。

「ディオ、ユフィー、おはよう」

 にこやかなヒバリの挨拶にユフィーは笑顔で「おはようございます、ヒバリ様」と頭を下げる。ディオの方はまだ眠そうな様子で、あくび混じりに「おあよー……」と返した。

 次の瞬間、ユフィーは後ろから素早く彼女の顔を覗き込んだ。ディオの肩がビクリと跳ね上がる。

「……あー、いや……」

 そして仕切り直しに両手で勢いよく自身の顔を叩くと、再びの挨拶を口にした。

「……おはようございますっ」

 思わずヒバリは、ぷっと吹き出す。ユフィーはニコニコと主人を見て、ディオは恥ずかしそうに唇を尖らせる。この逆転生活が始まってからというもの、ユフィーがディオをこうして躾ける姿を度々見る様になった。これもこれで、面白い生活が始まったな、と思う。

 しかしスコールが、ディオを前にした途端に明後日の方を向く所だけは、相変わらずだった。そんな彼女の横顔を見てしょんぼりとしているディオの表情が、ヒバリの胸を痛める。

 それでも時間は過ぎて行く。女王候補達は教育に自習にと忙しく駆け回り、ヒバリはディオとスコールを仲直りさせる方策がついに見つけられないまま、次の日の曜日を迎えた。


 ☆


 午後、王都のカフェテラスでヒバリはため息を吐く。

「はぁ……」

「どうしたんだい、ヒバリ?」

「――あっ、いえ、すみません、オルガ様」

 慌てて彼女はミルクティーに口を付けた。向かい合ったウィリアム・オルガはそんな彼女に煮え切らない表情を向ける。

 今回の“ディオ脱走・行方不明事件”を受けて、女王陛下は高位騎士達に「女王候補の精神的負担にも心配りする様に」とお触れを出したらしい。高位騎士達は仕事に教育にと大変な所に、更に無理難題を押しつけてしまった様な気がして、ヒバリとディオは申し訳なさで消え入りそうだった。

 その上ディオとスコールの問題に頭を悩ませているヒバリに、早速「日の曜日に一緒に出かけないか?」と声をかけてくれたのがウィリアムである。

「騎士様のお休みの日にまで、ご迷惑をかける訳には……」と、申し訳なさが勝って断りかけたヒバリだったが、彼は照れくさそうに「実は、恥ずかしいけど、俺の方がパフェを食べに行きたくてさ。男一人だと目立つし、ちょっと付き合ってくれないかな」と言うので、結局承諾してしまった。

 スコールの言うところ、「そんなの、あなたに気を遣わせないための方便に決まってるじゃない。バカね」だそうだが。

 しかし今、実際にカフェのテラス席でヒバリと向かい合うウィリアムのチョコレートパフェを頬張るその表情に、嘘は無い様に見えた。なんともまあ、子供みたいに幸せそうに口いっぱいに頬張るのである。

 彼の私服姿も初めて見た。カットソーの上に羽織っているベージュのジャケットと焦げ茶色の細身のパンツ姿がよく似合う。いかにも、『街で人気の好青年』といった風だった。

 パフェをアイスココアで飲み下したウィリアムは、おもむろに手を止める。

「ヒバリ、何か気になる事があるんだったら、相談してごらん。きっと力になれるから」

「でも……」と口ごもるヒバリに、彼は困ったように眉を下げた。

「やっぱり、俺じゃ頼りない……かな……」

「いいえ、そんなこと! ……オルガ様のお気持ちは嬉しいんです、本当に。――でも、これは私だけの問題じゃ無くて……ある人の気持ちも絡んでる、繊細な問題というか……なんというか……」

 今回の件を一から説明するとなれば、スコールの秘めた恋心を明かさなくては説明にならない。しかし、本人のいないところで――しかも同じ高位騎士相手に勝手にそれを明かすのは、彼女の気持ちを考えればとてもできた事ではない。

 どのように説明したものか、うんうんと悩んでいると、突然ウィリアムは「ごめん!」と頭を下げた。

「困らせるつもりじゃ無かったんだ! ただ、何か問題を抱えているなら力になってあげたくて……」

「いえ、私こそごめんなさい。期待に応えられなくて」

 申し訳なさそうに肩を落とすヒバリの様子に、ウィリアムのパフェグラスを持つ手に力が入る。

「ああ、俺ってやっぱりダメなやつだなぁ!」

 言うなり、彼はグラスを持ち上げてほとんど飲むように掻き込み始めた。彼の突然の行動にヒバリが呆気にとられている間に、それはみるみる空になっていく。

 どんと音を立ててテーブルにグラスを置いた彼が顔を上げると、鼻と口の周りがクリームにまみれていた。ヒバリはつい、ぷっと吹き出した。

「――あは、やだ。オルガ様ったら」

 顔を見て笑い出したヒバリに、彼はきょとんと目を丸くする。

「えっ、俺、なんか変なことした!?」

 苦しそうなほど笑うヒバリは、彼に小さな手鏡を向けた。ウィリアムが覗き込むと、酷い顔をした自分が映る。

「うわっ、なんだよもう、はずかしっ……」

 慌てて顔についているクリームを手で拭おうとすると、鏡を避けたヒバリが逆の手にハンカチをもって手を伸ばし、彼の鼻についたクリームをそっと拭った。

「――」

「もう、オルガ様ったら、子供みたいなんだから――……はい、全部とれました……」

 思いもしなかったヒバリの行動に言葉を無くしたウィリアムの澄んだ青い瞳が、彼女のそれと合った。思いのほか近づいていた距離に、二人とも途端に顔を真っ赤に染める。

 少しの沈黙の後、何も無かった様に惚けて、ウィリアムはぎこちなく立ち上がった。

「い、いこうか……」

 ヒバリも慌てて立ち上がり、「あ、は、はい……」と俯いて彼に着いて歩いていく。

 場所を変えようとする二人の後ろ姿を見送って、テラス脇の茂みの中で、リヒトは真っ黒いサングラスを外した。

「――ケッ、ウィリアムの野郎、青臭え事してやがるぜ。今のは手の一つでも握る所じゃねえのか? どうなんだ?」

「さあ……私に言われても……」

 隣で答えるディオはリヒトと同じサングラスをかけたまま、首を捻った。ちなみにこのサングラスはリヒトが開発した自慢の『追跡・暗視機能付きサングラス』だ。彼女に言わせれば追跡はお手の物だし、まだ日は高いので暗視の機能など必要ない。しかし、リヒトが言うには「尾行と言ったらコレだろ!」らしかった。

 日の曜日にウィリアムとヒバリが出かけるという話は、困り顔をする彼女から聞いていたので知っていた。ディオにとっての問題は、これをデートと呼ぶのか否かである。

 男女が揃って出かければデートなのか、それともそこに特別な感情が無ければデートではないのか……男性と出歩く事など、狩りしか経験が無かったディオには分からない。

 ただ、幼い頃からずっと一緒に育ってきたヒバリが、困り顔を朱に染めて恥ずかしそうに報告するのが、少々ディオにはもの悲しかった。このまま彼女の心がディオから離れてしまう気がして、今朝彼女を見送って、気がつけば後を追いかけていたのだ。

 そんな自分が、女々しくて情けないとも思う、のだが――

「……ところでカタルーシア様、着いてこなくていいんですよ」

 ジト目で言ったディオに、リヒトはサングラスをかけ直して答える。

「バッキャロ。またお前みたいな奴を放置して、女王にお説教くらうのだけはごめんだからな。見張りだ、見張り」

 それを言われると、ディオには返す言葉も無い。彼は付け加えて舌を出した。

「こんなん口実にサボれるんだから、女王候補サマサマだぜ」

「お仕事サボっちゃダメじゃないですか! 宮殿に戻りましょう!」

 声を高くしたディオだったが、リヒトは唇に指を当てた。「シーッ」

「あんまりでかい声出すな。気づかれるだろ。大丈夫だ。副官にちゃんと、置き手紙残したから」

「どこが大丈夫なんですか……」

 ディオが呆れ顔になった一方その頃、宮殿では第四騎士団副官が、第一騎士団長の執務室をノックした。名乗るとすぐに「入れ」と返答がある。

「フランチェスカ団長、ご報告が……。うちの団長が……」

「――またか……」

 書類仕事の手を止めたマイクロフト・フランチェスカ第一騎士団長が、第四騎士団長リヒト・カタルーシアから副官への置き手紙を受け取る。

 いつものサボり癖か……と頭に描いたマイクロフトだったが、手紙を開いて読むや否や、額に青筋が浮き立った。それには短くこうある。

『グランディエがまた一人で街に出たから、ちょっと追いかけてくるわ』 

「……グランディエ一人でも手を焼くと言うのに、更に手を焼く奴が追いかけてどうする!」

 マイクロフトが怒りに執務机を叩くと、あまりの迫力に第四副官が飛び上がった。


 ☆


「オルガ様、こんにちは! おや、女王候補様もお揃いで」

「オルガ様、今、できたてですよ! いかがですか!?」

 商店通りをウィリアムと並んで歩くと、そこかしこの店主から声をかけられた。その全てに彼は「やあ」とか「今日も美味しそうだね」と反応して、和やかに歩く。

 道を行く婦女達も、彼の歩みに頬を桃色に染めて振り向いた。その表情は、隣に並ぶヒバリの姿を見つけて、途端につまらなさそうなものになる。

 自分なんかが騎士団長の隣を歩いては駄目なのではないかと、ヒバリは途端に不安になった。やはり高位騎士と二人で出歩くなど、不相応だったのだ。彼女はそう思ってまぶたを伏せる。

 それに……例え相手が第三騎士団長のエドワルド・オズモンドであったなら、私なんてもっと釣り合わなかった――そんな考えが頭をもたげて、ぷるぷるっと頭を振った。

――オルガ様と出かけてる最中に、なんてこと考えてるの。私。

 頭の中の考えを閉め出すように、ぺちぺちと頬を叩いて気を引き締める。確かにエドワルドとは、あの夜以降、なかなかタイミングが無くて話せるきっかけがつかめていない。

 しかし、今はせっかくウィリアムが彼女を元気づけるために誘い出してくれたのだ。後ろ向きや、ましてや他の事を考えていては、連れ出してくれた彼に失礼というもの。

 ヒバリが伏せていた瞳を上げると、少し先を歩くウィリアムが軒先に立ち止まって、店主と気さくに話していた。

「ああ。じゃあ、二つで」

「ありがとうございます。今揚げたばかりのポテトもどうぞ。サービスです」

 店主はにこやかに言って、硬貨と交換して彼の手に小さな包みを手渡した。すかさずウインクと共に、串揚げポテト二本も遠慮する彼に押しつける。

 それらと共にこちらを向いたウィリアムの笑顔を見て、ヒバリの心に立ちこめた不安は、立ち所に消えてしまった。


 ☆


 街の露店でアクセサリーを見る。花を見る。ホットドッグを買う。公園で食べる。通りすがりの飼い犬を一緒に愛でる。子供達と遊ぶ。

 ヒバリとウィリアムを追いかけながら、それらの後ろ姿を確認したディオとリヒトはベンチに腰掛けて、子供達と遊んでいるヒバリとウィリアムの二人を眺めていた。

 小さな屋台で買った鮮やかな色の飲み物を飲みながら、リヒトがつまらなさそうに呟く。

「なぁんか、普通のデートだったな。つまんねぇ」

 その言葉にディオがむせて、声を荒げた。ついでに鼻水まで出る。

「――げほっ、……これ、やっぱり、デートなんですか!?」

「おわっ、きったねぇ! 今更どうしたんだよ。おめーがデートだからって疑って、後付けてきたんだろ?」

「た、確かにそうですけど……」

 ウィリアムと一緒に、楽しそうに子供達と遊ぶヒバリの姿を見る。その笑顔はいつもディオが見ているものと同じ様でいて、どこか、形容しがたい何かが、まるで違った。

 楽しそうだが、嬉しそうでもある。一緒に駆け回る子供達を包み込む様な表情に、寂しさにも似た感覚がディオの胸中に芽生えた。

 いつも見ている様で、見たことの無い親友の顔。ディオがつまらなさそうに唇を尖らせたその時、彼女の耳が街中ではほとんど聞く事が無い響きを捉えた。

 規則的に、荒々しく大地を踏みしめる音。

どんどんとこちらに近づいてくる、馬の蹄の音だ。

「? ……カタルーシア様、馬の蹄の音が聞こえません?」

「ああ? どこのどいつだよ、休日の公園で馬なんて乗り回してる阿呆は……」

 そうして二人でベンチの背もたれに手をついて音源の方へ体を捻ると、向こうから見たことのある白馬と金の髪がこちらに走ってくるのが見えた。馬上の人が叫んだ言葉が、雷鳴の様に轟いた。

「リヒト! 職務怠慢も今日という今日は許さんぞ!」

「げぇ!」

 とっさにリヒトは立ち上がろうとして、足をもつれさせ尻餅をついた。

 間を置かずしてマイクロフトの愛馬は二人の元に到着し、主人の引く手綱に合わせて後ろ足で立ってみせると、一つ凜々しくいなないた。

 ぽかんとしてマイクロフトを見上げるディオに彼も一瞥するが、馬のいななきを聞きつけたウィリアムが名を呼びながら駆け寄ってきたので、そちらを振り向いた。遅れてヒバリも駆け寄ってくる。

「フランチェスカ様、どうされたんですか?」

 マイクロフトは馬上から、ウィリアムに答えた。

「ああ、またリヒトがサボりおったと第四騎士団の副官から報告を受けてな」

「お前、またか。あんまり迷惑ばかりかけてると、その内団長の座をマシューに取って代わられるぞ」

 ウィリアムは、ベンチから転げ落ちた形になったリヒトを見下ろした。マシューというのは、第四騎士団副官の名前だ。

 ディオがベンチに座ったまま思わず動けなくなっていると、ヒバリがその姿を不思議そうに見た。

「あれ、ディオ?」

 名を呼ばれた彼女は慌ててサングラスをかけるが、もう遅い。「どうしたの、偶然だね」と言うヒバリの方は、彼女が自分を一日つけ回してたなどとは夢にも思っていない様子だった。

「は、はは……。散歩にね……。ちゃんとユフィーに言ってあるから、大丈夫だよ……」

 意味を無くしたサングラスを外して両手でもてあそびながら、上擦った声で答える。その彼女を、マイクロフトのするどい眼光が射貫いた。どうやらまた無断で出てきてしまったのは、お見通しらしい。

 しかし次に彼の口から出てきたのは、意外な言葉だった。

「どうだ、傷は治ったか」

 聞かれて、ディオは言葉を無くした。絶対にまた、無断でここにいる事を詰められると思ったのに。

 返ってこない返事に、マイクロフトは眉根を寄せる。

「どうした、やはりまだ具合が悪いか?」

 重ねて問われて、なんとか首を横に振る。

「い、いえ……かすり傷でしたし、気にしてもらう程の事でも……」

 言いながら頭を下げようとした所で、マイクロフトがわざわざ届けてくれた軟膏の事が脳裏を過った。

 そういえばまだ、きちんとしたお礼を言っていない様な気がする。……いいや。その前に、言っていない事があった。

「フランチェスカ様。あの時は、ありがとうございました」

 顔を上げ、彼を見つめて礼を言う。護身術教育の最中に倒れたディオを助けてくれた分だ。

 その意味に頷いたマイクロフトの目尻が、柔らかい曲線を僅かに描く。「ああ」

 いつも厳しい顔をしているマイクロフトが浮かべた微笑みに目を丸くする一同だったが、周りの様子に気づかない彼自身は、リヒトの襟首をむんずと掴んでひょいと馬上に引き上げた。

「さて、リヒト。宮殿へ戻るぞ。貴様、頼んでおいた資料はできておるのだろうな? 期限は明日までとなっているが」

「あ、やべ、忘れてた」

「明後日までに延ばしてやるから、昨年までのデータで算出できるものは今日中にしておけ」

「それ『寝るな』って事じゃねぇかぁ」

 リヒトの嘆きを無視して、マイクロフトはウィリアムを向く。

「休日に邪魔をしてすまなかったな、オルガ。悪いが、グランディエの事も宮殿まで送ってやってくれるか」

「はい、任せて下さい」

 姿勢を正して返答したウィリアムに、ディオは「いやいや!」と首を振った。今この時でさえヒバリのデート――認めたくは無いが――の邪魔をしているというのに、これ以上はごめんだ。

 ディオの知らない顔を持ち始めたヒバリに寂寞とした思いは感じるが、彼女の邪魔をしてはいけないというのもはっきりと感じていた。

「私は一人で大丈夫です!」

「そういう訳には――」難渋の色を示したマイクロフトだったが、ヒバリがディオの手をぎゅっと握った。

「もう。フランチェスカ様を困らせたらだめでしょう? 一緒に帰ろう、ディオ」

 まるで、子供に言い聞かせている様だった。ヒバリが良いなら、とディオは渋々頷く。

「……うん」

 ウィリアムとマイクロフトが頷きあい、第一騎士団長の愛馬は宮殿へ向けて早足で帰路に着く。遠ざかる背中に、未だぎゃあぎゃあと喚いているリヒトを叱るマイクロフトの声が聞こえた。

「自業自得だ、馬鹿者!」

 団長達を見送ると、ウィリアムが「じゃ、帰ろうか」と二人に声をかけた。頷くヒバリは返事と共に、ディオの手を引いて彼に付いて歩き始める。

「はい」

 まだ近くで遊んでいた子供達が、彼らに「またね!」と元気に手を振った。

 二人は楽しかったね、と、今日という一日を振り返って語り合いながら歩いたウィリアムだったが、公園を出た所でヒバリに手を引かれるディオをチラと見た。

「ディオ、ヒバリから聞いたよ。アンリエッタ嬢と喧嘩してるんだって?」

 俯いて歩いていたディオだったが、彼の言葉に驚いて親友を見る。彼女は慌てて弁解した。

「あ、安心して。喧嘩の理由とか、細かい事は伏せてあるから……」

「うん。ただ、いつもよりひどい喧嘩をしているとだけ聞いてるよ」

 ヒバリの証言を保証する様なウィリアムの言葉に、チラリと二人の間の信頼感が見える。またこちらを向いた彼の表情を見て、ディオの心にもやもやとした何かが生まれ始めた。

――なんだよ、その顔。ヒバリが一番頼りにしてるのは、私なんだからな。負けないぞ。

 無意識にまた、唇が尖ってしまう。返した言葉は、自分でも驚くほどぶっきらぼうになっていた。

「……オルガ様には関係ないです。私とスコールの問題です。自分でどうにか出来ますので、お気になさらず」

 ツンと言い放ったディオの言葉に、ウィリアムの目は丸くなる。ヒバリは非難の声を出した。

「ディオ! そんなこと言って、本当にどうにかできるの!? この五日間、まともに口も聞いてないみたいじゃない!」

 図星を突かれて、彼女は後退った。

「ぐ……。だ、だってもう『顔も見たくない』って言われちゃったし……あの、その……でも……」

 反論が見つからない様子でしどろもどろになるディオだったが、ウィリアムはこともなげに言った。

「でも、顔を合わせないと始まらないじゃないか。無理矢理にでも、顔を合わせるような状況を作っちゃえばいいんだよ。例えば……次の日の曜日に、君たち二人が侍女を連れてピクニックに行くのはどうだい?」

 彼の提案に、ヒバリとディオはきょとんとして目を見交わした。確かに、主人の命令とあれば随行してくれるだろう。

 あとは環境が、解決の糸口をくれるに違いない。


 二人の女王候補を送り届けて離宮に到着したウィリアムは、「今日はありがとう、ヒバリ」と彼女に言った。

「久しぶりに食べたパフェのお陰で、明日からも頑張れそうだ」

 そう言って笑うウィリアムに、ヒバリも笑顔を見せた。二人の間の雰囲気にディオがむくれていると、離宮の扉が開いた。出迎えに立っていたのはユフィーだ。

「グランディエ様、ヒバリ様。お帰りなさいませ。良いお休みでしたか?」

 しっかりバレてる。また何も言わずに抜け出したディオを、この場で責めずに涼やかな顔で迎えるこの侍女は、ある意味スコールより恐ろしい。

「うん、まあね……。それよりユフィー、『ディオ』でいいって前にも言ったよね?」

 小言で返したディオに、ユフィーがあっと口を覆った。

「うっかりしていました。もうすっかり癖になってて今から直すのもなかなか……」

「はあ……もういいよ、ごめんね、好きにして」

 ため息混じりのディオとユフィーのやりとりと微笑ましく見守り、ウィリアムは「じゃあ、ヒバリ、ディオ、また明日」と別れの挨拶を口にする。

「送って下さり、ありがとうございました、オルガ様。また明日」

 ヒバリが丁寧に挨拶をしたので、ディオも僅かに不満が残る顔で頭を下げる。

「……ありがとうございました」

 二人が侍女に連れられ離宮へ入り、扉が閉まる。ウィリアムも騎士寮へと帰ろうとして踵を返すと、突然背後から肩を組まれた。

 何事かと見上げると、エドワルド・オズモンドの顔がニヤリと笑いかける。

「えっ、エドさん!?」

「見てたぞ、この色男」

 彼の言葉に、ウィリアムの顔は一瞬で赤く染まった。エドワルドの腕をかいくぐって距離を取る。

「へ、変な勘ぐりしないで下さいよ! べ、べべ、別にそういうのじゃないですから!」

「この前彼女にこっぴどくフラれたばかりの坊やも、成長したもんだ」

 そう言ってエドワルドは満足げに笑った。先週にウィリアムが彼女の誕生日に手ひどくフラれた話は、もはや騎士寮では知らない者がいない。

 ウィリアムは落ち行く夕日と同じ色に顔を染めて、浮ついた足取りで歩いていくエドワルドを追いかけた。

「だから、そういうのじゃないですってばぁ……!」

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