第194話 契約の成立

「このままだとマルク公爵の計画は失敗に終わっちゃうだろうね。東と西の戦場は呆気なく負けたようだし、戦力が最も低い南の戦場も、今やどうなっていることやら……」


 ルッツの言葉を否定することは、窮地に追い込まれつつある現状を十分に理解しているジェレミー・マルク公爵には出来なかった。

 戦場を見渡せば、幾百幾千もの気を失った兵士たちが地に伏せている光景が目に映る。

 今もなお、仮面を着けた男の幻影は戦場を駆け、次々とジェレミーの私兵を無力化していっているが、幻影を止められる者は誰一人として現れない。

 このまま好き勝手に幻影に暴れられてしまえば、間違いなくジェレミーの計画は頓挫してしまうだろう。


 いや――最早『詰んでいる』と言っても過言ではなかった。


 東と西の戦場が敗北に終わっていることを考慮すれば、残す戦力は北と南に残る者のみ。

 しかし北の戦場は現在、トムと名乗る一人の男に蹂躙されており、南に関しては未だに情報こそ入ってきていないものの、最も割り振った戦力が少ないことを考えれば、希望を持つことなど土台無理な話である。


 万を超える軍勢で王都を囲み陥落させるという計画は、既に失敗に終わってしまったのだ。

 後は北の戦力だけで王都を陥落させるしか、ジェレミーに残された道はない。

 だが、残す兵士の数は三千前後。

 これでは仮に、トムがこの場から突如消え失せたとしても、外壁の上で待機している王国騎士団の防衛線を突破することは不可能。

 王都に侵入出来ない時点で、ジェレミーの敗北は決定したも同然だと言えよう。


(もう打つ手は残されていないのか? ……いや、諦めるにはまだ早すぎる。まずは南の戦況を確認し――)


 ジェレミーの脳裏に『敗北』の二文字がちらつき始めるが、奥歯をきつく噛み締め、闘志を再度燃やす。だが、そんなジェレミーの闘志をかき消すかのような報告が舞い込む。


「……報告致します。南での戦いは敗北に終わり、指揮官を任されていたシプリアン・ギグー男爵は捕らえられた様子。さらには、指揮下にあった兵たちは王都から離れるように南へと敗走したようです」


 そう告げた兵士の表情は絶望に染め上げられており、覇気を無くした声で淡々とジェレミーに報告を行った。

 そして、報告を受けたジェレミーは、ある程度想定していたこともあってか、『やはりか……』と小さく呟くだけに留め、手振りで報告を行った兵士を下がらせ、思索に耽る。


(北以外の戦闘が終結したともなれば、全ての王国騎士は北へと集まり、守りがより強化されるだろう。対して、こちらは魔法部隊も弓兵隊も壊滅している。……そうか。私は負けたのだな)


 冷静になって考えれば、自ずと答えは導き出せた。

 ルッツの協力を得て、魔物に王都を襲わせる。そして、魔物との戦いで疲弊したところに追い討ちをかけ、王都を陥落させるという計画は、たった数人ばかりの強者の存在で失敗に終わってしまったのだ、と。


 打つ手は何も思いつかない。

 幻影を無視して門を抉じ開けることは、外壁の上で待機している王国騎士団の存在がある限り、極めて困難だろう。

 到底上手く事が進むとは思えない。

 しかし、だからといって降伏するといった選択肢はジェレミーにはなかった。

 降伏すれば、その先には処刑される未来しかないのだ。そのような選択が出来るはずがない。


 ならばどうすればいいのか。

 その答えは一つしか残されてはいない。

 ルッツの提案を受け入れる。それだけだ。


 提案通りに手を借りてしまえば、玉座についたとしても帝国の狗に成り下がってしまうが、最早受け入れる他に選択肢はない。


(処刑されるくらいであれば、帝国の狗になってやろうとも。それに、例え帝国の狗になろうが、生きてさえいればどうとでもなろう。強者を集め、帝国に対抗するだけの力を得ればいいだけの話だ。今から悲観する必要はない)


 ジェレミーはそう決心し、側に控えているルッツに声をかける。


「あの日に話したことは覚えているか?」


「話したこと? それは何のことだい?」


 白々しい返答をするルッツに苛立ちが募るが、無駄に時間を費やすつもりはジェレミーにはなかった。


「ルッツから持ち掛けた提案のことだ」


「あぁ、そのことか。うん、勿論覚えているよ。それで、それがどうしたっていうのさ」


「ふん。白々しい。その提案を受け入れるという話だ。既に察していただろうに」


 誰が見てもジェレミーの敗北は必至な戦況。その事にルッツが気づいていないはずがない。

 何より、つい先ほどルッツから戦況について話しかけられたばかりなのだ。自分があの日の提案を受け入れるであろうことを予期していたに違いない、とジェレミーはルッツに鋭い眼差しを向けるが、ルッツは飄々とした態度のままであった。


「まぁね。でも、マルク公爵が僕の提案を受け入れるとは思わなかったよ。再起を狙って国外に逃亡でもするのかなって思ってたからさ」


「それはあり得ん。他国に逃げたところで私に何が残ると言うのだ。金も権力も爵位もなくなれば、それは私にとっては死も同然。だったら、この戦いに全てを賭けた方がまだ分があるだろう」


「へぇ……。僕には全く理解出来ない考え方だよ、それは。でも、まぁいいや。これで契約は成立だ。僕はマルク公爵に手を貸す。そして、マルク公爵は帝国の狗になる。問題ないよね?」


「……ああ」


 ほんの僅かにだが、ジェレミーの返答が遅れる。

 それはルッツという名の悪魔との契約を心が拒絶しようとしていたからに他ならない。

 果たしてこれで良かったのだろうか、とジェレミーの脳裏によぎったが、契約は成立してしまったのだ。今さら後戻りは出来ない。


「それじゃあ早速始めようかな。面倒だし、最初から僕のとっておきの魔物を暴れさせるとしよう」


 そう告げたルッツは一度瞼を閉じ、全身に魔力を纏わせ始めた。

 オーロラのように様々な色に変化していくルッツの纏う魔力は美しく、近くにいた者の瞳を奪っていく。

 そして、準備を終えたルッツは瞼を開けると共に手のひらを地面につき、全身に纏わせていた魔力を一気に地面へと流し込んだ。


「……ふぅ。これで準備は完了っと」


 ルッツは額に浮かんだ汗を拭うような仕草を見せるが、それはただの演技だった。

 実際は布に覆い隠された額には汗など一滴もかいてはおらず、あたかも大仕事をしたのだと思わせるよう、周囲に過度なアピールをしていたに過ぎない。

 見ていた誰もが演技だと気づいてはいたが、ルッツにそれを指摘する者は現れなかった。


 否――そんな事をしている余裕がなかったのだ。


 原因は大地を大きく揺るがす地揺れにあった。

 ルッツが地面に魔力を流し込んだすぐ後に、地揺れは発生した。

 大地が叫び声を上げているかの如く轟音が王都の北部に鳴り響き、地が揺れ始めたのだ。

 地揺れは秒を追う毎に強くなっていき、数十秒が経った頃には、揺れに耐えきれずに尻もちをつく者まで現れ始めるほど。


「ルッツ、一体何を……」


 突然の出来事に思考を停止していたジェレミーは正気を取り戻し、ルッツに何をしたのかと問いかける。


「さっき言ったじゃないか。『僕のとっておきの魔物を暴れさせよう』ってね」


「――そうではない! 一体何を呼び寄せたのかと聞いているのだ!」


 正気は取り戻していたものの、冷静さまでは取り戻せていなかったジェレミーの怒声がルッツに浴びせられる。

 だが、ルッツはジェレミーの取り乱した様子を見て、馬鹿にするかのような笑い声を上げた。


「ははっ、ははははっ! まさかマルク公爵がそこまで慌てふためくなんて、意外過ぎてついつい笑っちゃったよ。あー面白い」


「貴様……」


「ごめんごめん。そうカッカしないでよ。それに――もうすぐ『あいつ』のお出ましだ」


 ルッツの視線は誰もいない開けた場所へと向けられ、ジェレミーも怒りを何とか抑え込みながら、そこに視線を向けた。


 そしてそれは、地中から雄叫びを上げながら現れた。


『――グウォォォォォ!』

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