第163話 液体燃化
イグニスから発せられる底知れぬ雰囲気に、ジスランをはじめとする近衛騎士団全員が表情を硬くする中、後方から一人、平然とした態度でイグニスの前に進む者がいた。
「ジスラン、何をしている。いつまで僕を待たせるつもりだ」
イグニスの前に進み出たディオンは不機嫌な顔を露にしながら、横に立つジスランを睨み付ける。
ディオンの立ち振舞いは一切イグニスの雰囲気に呑まれていない堂々としたものであった。しかし実際は、既に王子になったつもりでいることから押し寄せる高揚感が感覚を鈍らせ、イグニスの異様な雰囲気を感じ取れていないだけある。
そんなディオンの様子にいち早く気づいたジスランは、雰囲気に呑まれていた近衛騎士団を奮い立たせるためにディオンの堂々とした姿を利用することにした。
「申し訳ありません、ディオン様。そこの執事が我ら屈強なる近衛騎士団を馬鹿にした発言をしたが故に、怒りを通り越して、呆れ果ててしまっていたところです」
ジスランは全員に聞こえるような声量で、恐怖によって動けなかったのではなく、呆れていたために動かなかったのだと言い繕う。さらに『屈強なる近衛騎士団』という言葉を強調することによって、全員の自信を取り戻させようとした。
その結果、団員の硬くなっていた表情が凛々しいものへと変化し、その姿をざっと確認したジスランがイグニスに向き直る。
「一介の執事が我ら近衛騎士団を皆殺しだと? 笑わせてくれる。では、こちらからも言わせてもらおう。――死にたくなければ、そこをどけ」
ジスランの言葉に同調するかのように近衛騎士団の面々は嘲笑しながら、腰に差している剣を叩いてイグニスを挑発する。
そんな中、イグニスは下を向きながら眉間を指で押し、沈黙を貫いていた。
「……」
「……くくっ。隊長、どうやら我らを馬鹿にした執事は恐怖のあまり黙り込んでしまったようですな。口だけの男は無視して、さっさと――……え?」
イグニスが黙ったことで気を大きくした一人の騎士が笑い声を漏らしながらそう口にした瞬間、ボウッと音を立て、その騎士が突如として炎に包まれる。
「――あああああああ!! アヅイィィィッ! ダズゲ……デ……」
僅か数秒で騎士は燃え尽き、骨も残さず灰となる。身に纏っていた武具さえも跡形もなく消え去っていた。
騎士が存在していたことを証明する灰も風に拐われ、何事もなかったかのように時は進んでいく。
突然の出来事に何が起きたのかさえ、誰にもわからない。
助けを求める声は聞こえていたが、誰一人として動けないほどの衝撃がジスラン率いる近衛騎士団を襲う。
「な、何が……」
唯一、声を出すことに成功したのはジスランのみ。隊長としての立場と矜持が彼を突き動かしたのだ。
そして、その声に応えたのは騎士を燃やした張本人であるイグニスだった。
「羽虫がうるさかったので殺した。ただそれだけでございますが?」
清々しいほどの笑顔を携え、礼儀正しい言葉遣いに戻したイグニスがジスランの瞳を見つめながらそう答えた。
「殺した……だと? ――貴様ァァッ!」
ジスランが怒りに任せて剣を抜く。隊長であるジスランに続けとばかりに、未だに呆然としているディオンを除く全員が戦闘態勢を取り、イグニスに襲いかかろうと一歩踏み出す。
しかし、イグニスに剣を振るうことが叶ったのはジスランだけであった。その剣もイグニスによって呆気なく弾き飛ばされる。
そして他の者はというと、ディオンとジスランを残し、全員が灰となってこの世から消え去っていた。一言も発する事が出来ないほどの時間で。
「……あ、ああああああ!! ジ、ジスラン、僕を助けろ! 早く!」
「……」
恐怖に支配されたディオンは尻餅をつき、地面をアンモニア臭が漂う液体で濡らしながらジスランに助けを求める。
だが、ジスランにそんな余裕は残されていなかった。
剣を失い、残すは己の肉体と魔力のみ。使える幾つかの魔法系統のスキルも、この執事には効かないだろうと本能で察している。だからこそ、ジスランに取れる選択肢は口を動かすだけとなってしまっていた。
「何者なのだ……何をしたのだ……私には何もかもがわからない……」
口を動かしはしたが、既にジスランは助けを乞うことも気概を見せることも出来ず、小さな声で呟くだけ。その瞳の焦点はどこか遠くを見つめていた。
そして、ジスランの小さな声を拾ったイグニスは、律儀に全ての問いに答える。
「私めはこのお屋敷の執事でありながら、偉大なる王に仕える者。それと、何をしたのかとのことですが、ご覧になった通り、ゴミを燃やしただけでございます」
イグニスは淡々と簡潔に説明をしたが、ジスランに理解が及ぶはずもなかった。
数瞬で人間を跡形もなく燃やし尽くすスキルなど、今この時まで見たことも、ましてや聞いたことすらなかったからだ。
だが、現に燃やされ、消し炭になっていった部下を目にしたこともあり、イグニスの言葉を否定する材料はない。
イグニスが使用した、人をいとも簡単に燃やし尽くしたスキルの正体は――
このスキルの効果は液体を燃料に変換し、発火させるというもの。
水は勿論のこと、対象を人間にすれば、血液や唾液、胃液や汗などのありとあらゆる体液を燃料へと変換することが可能な、強力で凶悪なスキルである。
加えて、イグニスの正体が火を司る炎竜だからこそ、あり得ないほどの火力を生み出すことが可能となっていた。
しかし、この『液体燃化』は、イグニスが複数持つ伝説級スキルの一つに過ぎないのだが、そのようなことはジスランが知る由もなかった。
「まさか、エドガー国王が貴様のような切り札を隠し持っていたとは……な」
イグニスの『偉大なる王』という言葉をエドガー国王のことだと間違って解釈していたが、イグニスはわざわざそれを訂正することはなくジスランに近づき、手刀でその首を跳ねたのだった。
(公爵閣下、申し訳ありません……)
死の間際、ジスランはジェレミーへ謝罪し、そして意識が途絶えた。
屋敷の門前に立つものは二人だけとなる。正しくは、その内の一人は地面に座り込み、震えながらうずくまっているのだが。
イグニスは怯えながら顔を隠しているディオンへ、ゆっくりと近づいていく。
コツッ、コツッ、と革靴が打ち鳴らす足音にディオンは恐怖のあまり泣き叫ぶ。
「――来るなぁぁぁぁぁッ!! ぼ、僕はマルク公爵家の嫡男であるディオン・マルクだぞ! 僕は王子なんだ! 手を出したらただでは済まないぞ!」
自分で公爵家の嫡男と言いつつ、王子でもあると意味不明で矛盾を孕んだ言葉を口にしているが、本人はその矛盾に気づいていない。
しかし、その発言のおかげでイグニスの足は止まった。
「……ほぅ。随分と興味深い話ですね」
イグニスは口角を吊り上げ、愉快な玩具を見つけたといった瞳で、うずくまるディオンを見つめる。
だが、ここでもディオンは誰もが呆れ果てるような勘違いしてしまう。
うずくまりながら両腕で隠していた顔を上げ、傲慢な笑みをイグニスに見せつつ、立ち上がったのだ。
「――ははっ! ようやく王子たる僕の偉大さに気づいたようだな。ジスラン共を殺した件については、雑魚だったあいつらが悪いし、仕方がないが許してやろう。寛大な僕に感謝し、これからは僕に仕えるんだ。わかったな?」
自分が王子だとイグニスが思い知ったが故に、手を出せないのだとディオンは勘違いをしていた。
ディオンの精神は完全に狂気によって犯され、正常とは程遠いものとなっているのだが、本人にその自覚が全くなく、イグニスが自身の言葉に従うのが当たり前だと考えていた。
そして、そんな醜い姿と腹立たしい言葉を告げられたにもかかわらず、イグニスは笑みを浮かべたまま、再びゆっくりとした足取りでディオンに近づいていく。
「――ええ。わかりましたとも。貴方が愚かで、どうしようもない程のゴミ以下の存在であることを。ですが、殺しはしません。どうやら利用価値がありそうですので。では、おやすみなさい。深い、深い眠りへ」
「き……さま……」
イグニスの手のひらがディオンの額に触れた瞬間、ディオンの意識は深い眠りの底へと沈んでいく。
意識を失い、全身の力が抜けたディオンは地面へと倒れ込む。
「とても面白い
そう呟いたイグニスはディオンの襟首を掴み、そして地面に転がっていたジスランの頭部を拾ってから屋敷の中へと戻っていったのだった。
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