第113話 今までの生き方を捨てた日
2045年、7月16日――。
当時、日本における治安はどうかと問われれば、世界中を見渡しても間違いなく良い方に含まれるだろうことは周知の事実であった。特に愛知県の周辺は、極端だと表現しても構わないほど、犯罪率は低下している。
その一因を担っているのが、
ハンターズシステムの発祥を遡れば、2010年アメリカになるが、その職業が個人であることから、活動の場を広げると共に、施行もまた世界へと広がり、認識は共通のものとなる。
各国が提示する公式の依頼を含め、個人が出す非公式依頼を請け負う人種。
しかし、古くからあるそれら職種は未だに現存し、それぞれの専門を所持した狩人が誕生した――が、誰でもなれるわけではなく、また、自称することは許されない。
年に二度、世界各地で同時開催される狩人認定試験を突破した者のみ、その職種に就ける。一次試験は三時間三百問のペーパー試験、これだけで受験者が千人いても、十人ほどに絞られるほどの難易度。平均年齢は二十六歳、退職年齢の平均が三十二歳と、憧れることすら笑い話になるような職業だ。
合法殺人者――日本では、そう揶揄する記事が書かれることもある。
狩人は、殺人、強盗、不法調査、そういったものを可能にする法規的処置がとられている。なんでもできる? ――否だ、代わりに責任を負う。
つまり、できるのならばと、前置されるわけだ。法律を無視し、違法な行動をとることは可能だが、その痕跡一つ、足跡一つ、指紋一つでも発見されれば、その時点で狩人専用留置所と呼ばれる、一般の留置所が楽園に思えるような場所に放り込まれ、生きている間に出て来ることは、ほぼない。見つからない技術、それでいて法律を無視できる手段を得ているからこその狩人であり、そのための厳しい試験だ。
そんな職業がいるからこそ、犯罪率が逆に低下する。間抜けな犯罪をして、警察が駆け付けるよりも早く、近くを歩いている狩人に確保されれば終わり。店内の監視カメラの視覚を探すのとはわけが違う――そして、狩人は警察と違って、容赦がない。銃所持が認められ、発砲にいちいち許可など取らなくとも、犯罪者に対して銃口を突き付けることもできる。それこそ――結果、死ななければ問題ないと、そのくらいの感覚で。
しかし、冷静に考えれば犯罪率の低下は数字上のことであって、ごくごく簡単に言えば、臭いものに蓋をしただけだ。
見えなくなったのだ。気付かなくなった。――その薄氷の下で行われる、むごたらしいほどの殺戮劇が、目隠しされたのだ。
故に。
その惨劇に間に合わずとも、結果だけ見れば、それこそありふれた結末だったのだろう。
まず、どうして狩人の中でも世界に三人しか存在しない最高峰、ランクSS狩人の
愛知県
それを血の匂いと表現すればわかりやすいが、ジニーに言わせればそれは、肉の匂いだ。血肉混じり合い、肉体から溢れた血は溜まりを広げ、けれど口を開く者はいない。
魔術式を扱うジニーにとって、わざわざ手で触れて調査をする必要はない。この場が戦場ならばまだしも、既に終わった現場においてそんな警戒など無意味。
つまり――。
屍体は四つ、減った銃弾は六発。生存者二名。
その現実を察するのに、二秒とかからなかった。
一歩、外に出てしまえば気づかないような、死を間近にする現場の中、ため息と共に携帯端末を取り出したジニーは、小さく吐息を落とすような動作と共に、耳に当てた。
――間に合わなかった。
こんなはずじゃなかった、なんて言葉は浮かばない。現実として結果が出ている以上、悔やむくらいなら、次を失くせと、今までジニーは若い連中に教えてきた。であれば、自分がぐだぐだと、ここで後悔するわけにはいかない。
「――俺だ」
電話が繋がった時点で、すぐにジニーは端的に伝える。
「軍秘匿、A
『――それで?』
だからどうした、という返事ではなかった。電話の向こう側にいる彼は、事態をすぐに理解して、続く処理を訊ねたのだ。
「杜松市管理狩人への連絡はこっちでやる。一名は問題なし、救急搬送から先の手配は報告を。もう一人は駄目だ、――俺が預かる」
『生存者一名、それで構わないな?』
「頼む」
『諒解した』
いくら秘匿回線とはいえ、今どきならば誰が盗聴しているかもわからない。そのためすぐに通話を切断すると、ジニーは生きている内の一人、少女の方を肩に担ぐようにして、――そして。
「……すまん」
もう届かない謝罪を投げて、その場を後にした。
作戦名を知っているよう、ここで起きていた何かに関して、ジニーは知っている。とにかく軍部なんてものは、人を動かすのに作戦を考えがちであり、多くある作戦の中でも、今回のものは、いわゆるただの挨拶に過ぎない。
現役を半ば引退しても、仕事を続ける彼らに顔見せをすることで、スパイ容疑を払拭し、あるいは結果報告を受け取る――そういう、定期的に行われるものの一つでしかなかった。
そして。
屍体の一つ、女性のものは、ジニーがよく知る相手でもあった。ああいや、よく知るなんてのは言い過ぎか。
昔、ちょっとしたことがあって、傭兵だったガキを一人、拾って軍部に預けただけだから。
表に停車させていた車に気絶したままの少女を横たえ、すぐに走り出す。
――クソッタレと、毒づきながら。
「なにが、ランクSS狩人だ……!」
いざという時には間に合わず、なんのための狩人か。ランクSSは、世界最高峰であるがゆえに、最低でも三つの国の首相などから許可がなくては、仕事すら簡単にできはしない。それだけの脅威であり、いわば象徴のようなものだ。
そして、ランクSSの中で唯一、ハンターズシステム発祥から現存する狩人でもある。倒れるのなら前向きに、死ぬまで生涯現役と掲げてきて――その心が、ぽきりと折れた。
なんの意味があると、疑問を抱いてしまった。
肝心な時に間に合わないランクSSの称号に、価値などない――初めて、ジニーはそれを自分で決断した。
今までの人生を振り返れば、クソッタレと言いたくなるような仕事ばかり。それを悪いとは思わなかった。必要だから、やるしかないとやったし、やるべきだとも思った。ゆえに、人生に価値はあったし、意味はあったのだろう。
けれどもう、無理だ。
それでもと、足を前に進める気力を失った。
だが。
けれど少女を拾い上げたのならば、その責任を負わなくてはならない。
そしてあいつが、ジニーが拾った彼女が、ほんの数秒の間で選択したこの結末を、せめてこの先の道を作らなくては。
ジニーは。
これを最後の仕事に決めた。
※
それは、ジニーがやってくる少し前のことである。
簡単な仕事だからと、アイギス・リュイシカは油断していたわけではない。ただ、三人揃って挨拶をした時、やってきた少女と目を合わせた瞬間に、何が起きるのか、いや、起きたのかを理解した。
だから、ほんの三秒ほどだった――はずだ。
まず、何がどうであれ保身を優先させる。障害物であり、不純物である同行者二人を、拳銃を引き抜いて始末する。この一秒の間にも、事態は進行していた。
少女が座り込んだのもそうであるし、アイギスたちが目的としていた両親が何事かに気付いたのも、その一秒だ。
さらに、もう一秒が経過した。
座り込んだ少女のところへ母親が、そして銃声への反射行動で父親がアイギスの前へ来る――まずい、と思った。それはいけないと。
だが、どけと口にする余裕もなければ、蹴り飛ばす猶予もないことを、やはり、アイギスは知っていた。
喰われる。
かつて、アイギスがその身に三番目の刻印が入った刃物を得た時、喰う側だった。
相手から強引に奪うような感覚に反吐が出たものだが、その時もこうした突発的な状況であったし、まだ幼かったアイギスは止めようと思う暇もなかった。
だから。
その二秒目の段階で、少女が三番目との親和性が高く、自分から奪おうとしているのは自覚的だったし、その状況に対応できる自分もいる。
だから、その三秒目で決断だ。
現状を見よう。
今、この状況を止めれば、自分は生き残る。軍部の二人が死亡したのはしょうがない――が、間違いなくこの少女は、喰おうとした行為の反動を得て、後遺症が残るか、死ぬだろう。こういう時、生き残る割合よりも、死ぬ可能性を強く見てしまうのは、戦場を歩いてきた故かもしれない。
そして、止めなければ刃物はアイギスごと、少女に喰われる。つまり自分は死に、そして近くにいる両親二人が死亡するだろう。
三人を助けて一人を犠牲にするか、それとも結果を逆転するか。
ああだが、確認するまでもない。
この状況下でありながら、子供を守ろうとする親が、両親が、何を優先しているかなんて明らかだ。
つまり、状況は、少女を助けるか、自分が助かるか、たったこれだけのこと。
――こんな時に。
間延びしたような、長く感じるこの一秒の間に。
アイギス・リュイシカは。
自分より親和性が高いから喰われるこの現実に、じゃあ将来性もありそうだなと、そんなふうに笑えたのだから、結末はもう決まっていたようなものだ。
少女の両親が、驚いたような表情を作ったのも見えた。言葉を作る時間はないが、伝わればいいと、そう願えば、彼らも小さく肩の力を抜いたようだ。
ああ。
人生がどうとか、そういうのはどうでも良い。
ただ間違いなく、この瞬間の判断に関して、アイギスは満足した。
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