Untold Treasure —魔女の叡智—
吉本ヒロ
第1話プロローグ
「ええと……、フィオーネ=クレインバルグ、だったか? まあ、あれだ。突然だけどお嬢ちゃん、お前さんを攫いに来た」
「…………っ!」
びくりと、声を掛けられた少女の体が強張った。
貧民街にある中身が溢れ返ったゴミ箱の影。そこで隠れるように体育座りになって、塞ぎこんでいた少女がゆっくりと顔を上げる。
その際、砂埃にすすけながらも未だ青銀に輝く髪が、微かに揺れた。
「……目的は、なんですか?」
固い声だ。
野犬のような瞳で、フィオーネと呼ばれた少女は男を睨みつける。
「おおっと、そう警戒しないでくれ。少なくとも、お前さんにとって悪い人間じゃない」
声を掛けた男は貧民街にありながら、一点の穢れもない白いスーツを着ていた。
だが、そのスーツに反して中折れ帽はくたびれてしわのよった年季物だ。元は同じ白だったのだろうが、日に焼けて茶色に変色している。
それに、西欧の伊達男のような出で立ちの東洋人。
どうにも統一感のない、妙な男だった。
「生憎と、信用出来ません」
これ以上近づいたら許さない。
険のある瞳で雄弁に語る少女はゆっくりと組んでいた腕をほどき、僅かに足を開く。
そんな少女を刺激しないよう、男は両手を上げる。
少女が自身の体で隠せる位置に用意していたガラス片を掴んだ事に、男は気付かない。
「まあ、そうだろうな」
頑なな少女の態度に、だけど男はどこ吹く風。
その余裕が、少女の癇に障った。
「証明は後にでも。今はあまり時間がない。とりあえずでいいから信用しちゃくれねえか?」
「……では、ナイフをください。そのくらいは持っているでしょう?」
「そりゃまあ、一応はな。ただ、使い道くらいは聞いてもいいか?」
「護身用です。東洋人はロリコンが多いと聞きますし、オジサンがその類とも限らないので」
不用意に触ればナニを切り落とされそうだと、男は冷や汗をかく。
だが、それ以上に大切な事があった。
「いいか、お嬢ちゃん。大事な事だから言っておくがオジサンじゃない、お兄さんと言ってくれ。お嬢ちゃんのような思春期と同じくらいに繊細な年ごろなんだ。……地味に傷つくだろ」
男が最後に小さく付け加えた言葉には、やけに感情が籠っていた。
「世間では三十くらいになればおじさんで通ります。そしてロリコンと犯すというのは否定しないんですね。やっぱり変態ですか」
「やっぱり!? お兄さんそう見えちゃう!? 一応言っておくが、ロリコンでもなければ犯すつもりもないからな。それにお嬢ちゃんのような年ごろの女の子が犯すとか言うのは良くないな、品がない」
「でも売り飛ばされるのでしょう? 権力もあるお金持ちの変態か、おじさんみたいな底辺の変態か……。どっちがマシでしょうか?」
「俺ってそんな底辺に見えるの!? というかそんな事を真剣に悩まないで! 近頃の女の子はすっごくすれてるのな!」
なぜだか、攫われるはずの少女よりも誘拐犯たる男の方が叫び声を上げて目立っているし、子供みたいに騒がしい大人と、達観した大人のような子供。
更には攫うと宣言した方もされた方も緊迫感が感じられないのんびりとしたやりとりをするものだから、実に奇妙な誘拐劇だ。
「世知辛さは十分に知っているつもりですから、少なくともその点で私はもう大人です。……きっと、死が最良の選択肢だと理解出来る程度には」
「ああ、本当に。どうにも世知辛いな……」
こんな子供が淡々と悟った風に言う様は一般的とは程遠く、男は遣る瀬無さを押し殺して苦笑に変えた。
実際、貧しい国では人攫いなどザラにある。比較的まともなこの国でも毎日のように誘拐、人身売買、強姦、強盗、殺人すらも。
だからこの誘拐も、実状はともあれそう珍しいものではない。そうした環境に身を置けば、そして自分自身やその周囲に不幸が重なれば、心が擦り減るのも当然の事だった。
「分かった。それをお前さんが使う事のないよう努力するよ」
男は少女にナイフを投げ渡す。
隠し持っていたガラス片を置き、代わりにナイフを受け取った少女は、ゆっくりと抜いて検分した。
「それと、一応言っておきますが
試す様に、不敵に。
やれるものならやってみろと。
表情は変わらずとも、少女の醸し出す雰囲気が張り詰めた。
諦観の混じっていた瞳は形を潜める。
本当に何も知らないのか、喋るつもりがないのか。
ただ、敵意に満ちた視線でわざわざ自らを探し出したお前の目的など既に看破していると、そしてそれは無駄でしかないと言外に告げた。
「世の中広いからな。何があるか分からないし、何でもない物が重要な何かに化ける事だってある。それに言っただろ? 俺はお嬢ちゃんを攫いに来たんだ。まあ、悪いようにはしない。信用出来ないだろうけどそれを約束するから、しばらくはお兄さんに攫われてくれないか?」
「…………仕方ないですね。どうせ私では碌な抵抗も出来ませんし、他の選択肢もありません。好きにしてください」
少女の予想とは裏腹に怒りも落胆もなく、男は陽気なまま手を伸ばす。
どうにも攻め気をすかされた気分で、想像していた誘拐と違う展開に拍子抜けしたほどだ。
だからだろうか。ただ心配だからと言わんばかりに伸ばされた男の手を、感情(こころ)が壊れかけていた少女は確かに取った。
あくまでお兄さんだと言い張る男の頑固さを。そして言葉に出来ない妙な雰囲気を、少しばかりおかしく思いながら――
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