輪廻紬(りんねつむぎ)
まきや
第一話 少年:山谷 虎ノ助(やまたに とらのすけ/八歳)
僕はずっと『本の虫』と言われてきた。
学校にも近所にも、友達は全然いない。できたとしても、すぐに喋らなくなっちゃう。
でもそれで、嫌な気持ちになってしまったり、後悔したことなんて、ほとんどないって言い切れる。
学校が終わって下校の時間になる。学童に行く組や、地域ごとに帰りの班を作る子供たちの集団に加わる事はない。僕はいつもひとりで帰るんだ。
今日もおんなじ。
誰もいない家に着いて、扉を開けるけれど、ランドセルと黄色い帽子を玄関に放り投げたら用事はおしまい。おっと、野球帽だけはちゃんと忘れないで被っていく。
もういちど扉に鍵をかけて、すぐに走り出す。向かう先は近所の図書館さ。自動ドアを開けて中に入ると、いつも中の暖かさはちょうどいい。
『青少年コーナー』の本棚の前の六つの椅子、それも窓と壁にいちばん近い角の場所が、僕の特等席。
持ってきた帽子を机の上に置いて、席取りをしたら、すぐに本棚の並ぶ通路に出発する。
知ってる?
ここに来て最初に、左右に並ぶ本棚の間に立つ時がいちばん、僕がしあわせ――ちょっと大げさだけど――を感じる時なんだ!
ここは宝の山がタダで積んであって、危険もない場所。伝記、冒険小説、図鑑、ちょっと子供っぽいけれど、昔僕が好きだった童話も全部揃っている。
何でもかんでも、全部持っていきたいんだけれど、残念なことに、僕には二本の腕と子供の腕力しか無いから限界はある。
おでこの辺りまで本を高く積んで、よろよろと運んでいく。机にドスンと置いて椅子に座ったら、誰にも邪魔されない、僕の時間の始まり。
まあ、たまにいびきをかく変なオジサンとかは来たりする。僕は本に集中しているから全然気にしないよ。まあ、あんまりウルサイ時は告げ口するけれど。
夕方の帰りの音楽が鳴るまで、僕は何十冊も本を読む。真剣な目から始まって、笑ったり、怒ったり、泣いたりと、僕の顔の筋肉たちは忙しい。
全部の本を読み終わったら、僕はふーっとひと息つく。今日はこれくらいにしよう。
そうして全部の本を元の場所に片付け終わったあと、最後に僕はある本棚のところ、一冊の本の前に立つ。
目印はくすんだ赤色の本の背中だ。カバーはもうボロボロで、図書館の人が貼り付けている記号のシールは、たぶん何回も貼り直されていて、糊の跡が汚らしい。
僕は背を伸ばしてこの本を手に取ると、もう一度、角の椅子に座り直す。この本を借りて家に帰った事は一度もない。中身は詩だし、読むページはいつも決まっているから、この場ですぐに読めてしまうんだ。
少しだけ読んでみるね。
『げきどうするもの』
そういう 言葉でいえない ものがあるのだ
そういう 考方に乗らない ものがあるのだ
そういう 色で出せない ものがあるのだ
そういう 見方でえがけない ものがあるのだ
書いたのは『たかむら こうたろう』という人なんだって。めいじ生まれっていうから、いくつも前の時代に生まれた人だと思う。
難しいことはわからないんだ。ただ、どうしてか僕はこの本のこの詩が、とっても好きだ。
だからいちどだけ帰る時にこうして、心の中で読んでから、図書館を出るんだ。
理由は良くわからない。お父さんやお母さんに話をしたこともあった。ただ『えらいね』って言われただけだ。
不思議だよね。
どんな友達の悪口も、先生が教えてくれた事も、あんまり覚えていないんだけれど、この詩の言葉だけはずっとずっと、僕は忘れないんだ。
たぶん、いやきっと、変な小学生だよね!
いつもより考え込んでいた僕は、時計の音楽を聞いてはっとした。
しまった、もうお母さんが駅から家に歩いている頃だ! 鞄を片付けていないのが見つかると怒られるんだ。
最後にその詩の本を本棚にしまうと、僕は走って図書館を出た。
舗装した道を駆けて行くとすぐに『せんかわ通り』って描かれた青い看板のある、大通りに出る。歩行者の信号は赤いまま、なかなか変わろうとしない。
このタイミングなら
僕は歩道橋の階段を走って登っていった。翼が生えたみたいに、走っていく車の上を飛び越える。下りの階段は一段抜かして、ジャンプして降りていった。
地上に降り立ったら、あとは家までの細い道を行けばいい。
暗くなりかける路地を走っていこうとして、僕は頭のてっぺんが、やけにスースーする事に気づいた。つむじの辺りを両手でまさぐる。
やっちゃった! 帽子! いつもの机の上に置きっぱなしだ。
僕は踵を返すと慌てて、いま来た道を駆け戻った。
ラッキー!
大通りの歩行者用の信号は、だいぶ前に赤から青に変わっていた。
誰だって経験があると思う。こんな時は何となく分かるんだ。信号は青のままなんだけれど、今にも時間切れで点滅しそうになっていた。
急がなきゃ! 僕は足に力をいれて、全力で道路に向かって走っていた。
ついに信号が点滅しだした。
大丈夫、間に合う。僕はいちばん速いスピードで、大通りに飛び出した。
耳をつんざくような、大きな金属音がした。
何だろうと思った時にはもう遅かった。僕が飛び出した所に、ちょうど猛スピードで左折してきた車が突っ込んできた。
ぶつかった時に、バンってすごい音がしたんだと思う。
でも僕にはわからなかった。
夕方のオレンジ色に染まった空が、逆さに見えた。頭の上から地面が近づいてくる。落ちて、落ちて、でも体は指の一本も動かせなくって――。
暗くなっていく中、意識を失う前に、僕は確かに見たんだ。
さっきまではそこにいなかったはずの、一匹の黒い猫が横断歩道に立ちどまっていて、やけに親しげに僕を眺めていたことに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます