第27話

 バスタブの縁にもたれかけて、シャノンは幸せな息をついた。馬車の旅で疲れた骨身に温かいお湯が沁みて、夢みたいに心地良い。同じ部屋にトリスタンがいてくれることも、恥ずかしいけれど嬉しかった。だが、その浮かれた気持ちも先ほどの彼の言葉を思い出した拍子に、すぐに掻き消されてしまった。

 ——ぼくが関係を持った女性は過去ひとりだけだ。

 彼はきっと、シャノンを安心させようとして言ったのだろう。けれどもシャノンはその事実を知ったとき、ナイフで抉られたように胸が痛んだ。

 レディ・バークレイは彼の唯一だった。その事実が悔しくて、気が付けば目尻から涙が零れ落ちていた。

 もしも、このパーティーに彼女も招待されていたら? この屋敷のどこかに彼女がいたら? 本当に、あのとき彼はラウンジに行くつもりだったの?

 先ほどは引き止めることができたけれど、これからもずっと彼を繋ぎ止めていられる自信が、シャノンにはなかった。五日間にも及ぶハウスパーティーのあいだ、ひとときも彼を見失わずにいられるなんてことは、まずありえない。シャノンの目を盗んで愛人の元へ行くことなんて、彼にとっては容易いことだ。

 熱くなった目元を手のひらで拭い、シャノンは湯船の中で両膝を抱えてうずくまった。


 入浴を終えたシャノンがパーティションの陰から顔を覗かせると、床に脱ぎ捨てたはずのドレスは部屋の隅の衣装篭にまとめて片付けられており、いつのまにかすぐそばに置かれていた椅子の背もたれに、麻布のバスタオルと白いネグリジェが用意されていた。トリスタンは窓際のソファに身を沈めて、何やら本を読んでいる。ちらりと向けられた珈琲色の瞳にシャノンを映すと、彼は一瞬真顔になって、それからひとつ咳払いをして、いつもの調子で口を開いた。

「着替えを用意しておいた。今日は一日中馬車の中で疲れただろう? 食事を取ってゆっくり休もう」

「あなたも一緒よね?」

 シャノンが問うと、彼は相変わらずの皮肉な笑みを浮かべて言った。

「きみが嫌でなければそうしたいね」

「そばにいて欲しいわ」

「仰せのままに」

「約束よ?」

「ああ、約束だ」

 穏やかにそう言って、それから彼は眉を顰め、くっと声を漏らして笑い出した。

「どうしたんだい、ダーリン。今夜はいやに積極的じゃないか。まるでぼくのことを、放っておいたらふらふらとどこかに消えてしまう子どもみたいに扱ってるね」

 シャノンはどきりとした。冗談混じりではあるものの、彼の言葉は的を射ている。シャノンが何も言えずにいると、彼は屈託なく笑い、一歩、また一歩とシャノンに近付いて、彼特有のざらついた声で言った。

「さあ、はやく着替えてそこから出るんだ。バスタブの湯が冷めないうちに、ぼくも入浴させてくれ」

 そうして椅子の背からタオルと着替えを手に取って、シャノンにそれらを手渡しながら、もう一言付け加えた。

「もっとも、そのまま一緒に入浴するのでも、ぼくは一向に構わないけどね」

 彼が艶っぽく目を細めるものだから、シャノンは慌てて着替えを受け取って、パーティションの陰に身を隠した。急いでタオルで身体を拭いて、すっぽりとネグリジェを被り、膨らんだ袖に腕を通す。燃えるように頬が熱いのも、身体のあちこちが火照っているのも、長湯をしたせいではなかった。


 シャノンが着替えを終えて出て行くと、トリスタンはドレッシングガウンを片手に、シャノンとすれ違うようにしてバスタブに向かった。彼がパーティションの陰に身を隠すわけでもなく、次々に衣服を脱ぎ捨てていくものだから、シャノンは目のやり場に困ってしまった。

「無理して目を逸らさないでも良いんだよ、ダーリン。きみに見られたところで、ぼくは恥ずかしくなんかないからね」

 愉快そうにそう言って、彼はシャツを脱ぎ捨てた。

 露わになった引き締まった身体から、シャノンは目が離せなかった。彼の身体はシャノンが想像していたよりもずっと筋肉質で逞しく、腰回りはきゅっと引き締まって、シャツを脱いだ際にちらりと見えた腹筋もくっきりと割れていた。

 ——街の美術館で見た男神の裸像のようだわ。

 彼の見事な肉体を目に焼き付けようとでもするかのように、シャノンは茫然とその姿に魅入っていた。一糸纏わぬ彼の背中を見ているだけで、身体の奥の未知の部分が切なく疼くようだった。

 トリスタンが入浴しているあいだ、シャノンはベッドに腰掛けて、長い髪を乾かしていた。落ち着かない気持ちを誤魔化すように絶え間なく彼に話しかけていたけれど、彼は迷惑そうにするどころか、シャノンとのやり取りを愉しんでいるようだった。


 夕食にはサンドウィッチとビスケット、それからワインが出された。セオドア・マナーの料理長は相当に腕が良いらしく、サンドウィッチのしっとりしたパンと新鮮な野菜、ジューシーなローストビーフの組み合わせに、シャノンは感嘆の息を漏らさずにはいられなかった。それらはまた芳醇なワインとの相性も絶妙で、食事が終わるころには、シャノンの頬はアルコールのせいで真っ赤に染まってしまっていた。

 食事を終えて歯磨きを済ませても、シャノンはふわふわと夢見心地な気分でいた。天蓋付きベッドの寝台にどさりと身を投げ出して、ごろりと仰向けに寝転んで、寝台が軋む音で彼女はようやく我に返った。

「気持ち良く寝ているところすまないが、もう少しそっちに詰めてもらえるかな、ダーリン」

 はっとして顔をあげると、トリスタンが寝台の縁に腰掛けていた。

「ご、ごめんなさいっ」

 シャノンは捲れ上がったネグリジェの裾を慌てて引っ張りおろし、寝台の奥に詰めて、彼に背を向けて猫のように身を丸めた。

 ぎしぎしとベッドを軋ませて、彼が隣に来た。シャノンは彼に背中を向けたまま、シーツを握り、かたく目を瞑った。緊張と原因不明の感情で、身体が燃えるように熱かった。口の中がからからで、吐く息も震えている。ふたりが同じベッドで眠るのは、これが初めてのことだった。

 不意に背中から抱き締められて、シャノンはびくりと身を縮こまらせた。肩越しに、歯磨き粉のペパーミントの香りがする。振り返ろうと身を捩ると、「そのままで」と耳元で囁かれた。

 腰に回された逞しい腕に、ぎゅっとちからが込められる。彼はシャノンの髪に顔を埋めたまま、苦しそうに呼吸をしていた。

「……トリスタン?」

 おそるおそる、彼の腕に手で触れた。しばらくの沈黙のあと、彼はごくりと喉を鳴らし、シャノンの耳元で「すまない」とくぐもった声を漏らした。

「今振り向かれたら、約束を守っていられる自信がない。頼むから、そのままで……」

 吐息混じりの囁きが耳を掠める。シャノンは全身の震えを押さえ込むように、乾いた唇を噛み締めた。

 ——振り返りたい。彼の目を見て、口付けて、彼と愛を交わしたい。

 逞しい腕の中で彼のぬくもりを感じながら、彼女は祈るように瞼を閉じた。


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