卒業する君へ
大石 陽太
第1話 光陰矢の
灰色の雲に覆われた空を見上げる。いくら太陽を遮ってもじめじめするだけで、暑いは暑いので有り難さはあまり感じない。
横を通り過ぎていく生徒たちは手に傘を持っている。ビニール傘と紺色の傘を持っている人が多い。かく言う俺も今朝コンビニで買ったビニール傘ではあるけど。
他人の傘を見るのが好きだった。いや、好きというほどのことはないけど、やめろと言われて、分かったと答えた後、その返事を忘れてまた他人の傘に視線を移してしまうくらいには癖付いている。そんな感じだった。自分でもよく分からない。
分からないついでに自分の傘を開く。もちろん、雨は降っていない。通り過ぎていく生徒が俺の姿を見て雨が降っていないかを確認している。その姿が好きなのだ。いや、やっぱり好きじゃない。というか恥ずかしい。
そもそも、自分が立っている場所自体、生徒玄関と校門を繋ぐ一直線のちょうど真ん中辺りであり、ただの道であり、途中なのだ。そこで何をするでもなく立ち止まっている時点で高校という小さな社会から浮いてしまっている。ただまぁ、道に立ち止まるだけで浮くのなら、人は案外、簡単に空を飛べるのかもしれない。
「何やってんの」
背後から声を掛けてきたのは同級生であり、クラスメイトであり、友達のS君だった。S君は何かに呆れた顔をして、それでも一応、言っておいたほうが誤解を与えないだろうといった感じで言った。
「ワシにはS君じゃなく
そう、この見るからに普通で、平凡で、どこにでもいそうな少年こそ、僕のクラスメイトの佐城。一人称がワシなのは小さい頃からで、本人も気にしているが、本人曰く「呼吸法を変えるのは無理」らしい。
その事と、一応は直そうとはしているという話を自己紹介でしたので事故紹介になることはなかった。
しかし、この佐城、一人称がワシになってしまうような幼少期から分かるように、見た目に反して中々面白いやつなのだ。
ある日、教室の出入り口で転んだ佐城はミサイルが如き勢いで窓から飛び出し、三階の教室から落下した。が、なぜか無傷だった。軽傷だったのではなく無傷だった。たまたま下にいた体育教師が佐城を受け止めたのだ。クラスメイトからは謎の拍手と賞賛の声が贈られた。
「それより帰ろう。本当に降ってくる」
雲に覆われた空を見て佐城が心配そうに言った。
「本当に降ってきたところで、すでに傘を差している僕は雨なんて微塵も怖くない。なんなら周りのやつらを見て、あーあ、雨が降ることを想定して早く傘を差さないから濡れちゃってるよ。なんて小馬鹿にできるからむしろ降ってほしい」
「捻くれすぎだろ。いや、単に性格悪いだけか。でもな、佐藤、お前分かってないよ」
一人だけ傘を差していることの優越感に浸っていた僕はドヤ顔をしている佐城に何が分かっていないのか尋ねた。
「傘はな、案外差してても濡れるんだよ」
ふむ、まぁたしかに考えてみれば傘差してても肩とか足元とか袖とか、結構濡れてるよな。だからといってここまでドヤ顔をできはしないが。
「それじゃあ帰るか」
別に佐城を待っていたわけではないが佐城と帰る形になった。これまで佐城とは何度か帰ったことがあるが途中まで同じ帰り道だ。
「なぁ佐藤。部活決めた?」
「もう六月だからな。もう所属してるよ」
「何部?」
「青春部」
「なんじゃそら」
高校に入って早くも二ヶ月が経とうとしていた。高校生活はあっという間、なんてお決まりの言葉を校長先生や来賓の方々が入学式でおっしゃっていたが、どうやら嘘ではなかったらしい。別に疑っていたわけではないが、大人はいつだってそう言うのだ。
「あ、降ってきた」
佐城は空を見上げて言った。俺もビニール傘越しに空を見上げた。すると、細い雨がビニール傘に当たって視界をぼやけさせている。
ビニール越しに見る空が好きだった。これは完全に嘘だ。
「佐城、傘忘れたのか」
雨はあっという間に勢いを増すが、佐城は一向に傘を差そうとしない。傘を手に持っていなかったのでなんとなく分かってはいたのだが、折り畳み傘を持っている可能性もあったので今まで何も言わなかった。
「走るか」
佐城はクラウチングスタートの構えを取ると一人でスタートの合図を言って走り去った。こういうことを相手の反応を伺うことなくする辺り面白い。
「多分、あそこだな」
と口に出して言ったものの、佐城がどこへ行ったのか見当もつかない。多分、帰ってはいないだろう。別れの挨拶こそが人生だと熱弁していた佐城だ。これで帰っていたら僕はあいつに別れの挨拶の大切さを熱弁しなければならなくなってしまう。それだけはなんとしても避けたい。気がする。多分。
「ここにいたか」
案外、なんて言葉で言い表せてしまうほど簡単に、佐城は見つかった。近くの神社で雨宿りをしていたのだ。僕が近づくと佐城は声を上げて笑った。なんだこいつ。
「ちくしょう。なんだこれ青春か? ワシ達、青春してるのか?」
「お前、改めてワシの違和感マジパネェな」
「いや、仕方ないよ。だって呼吸法は変えられ……」
そのとき、僕は縁の下に二つの光を見た。しゃがんで確認してみると、そこには子犬がいた。濡れてはいないようなので、雨が降る前からいたのだろう。可愛らしい瞳でこちらを見つめている。
「お、犬かぁ。可愛いなぁ、でもワシ、犬アレルギーなんだよなぁー!」
佐城が何やら言っているが何一つ耳に入らない。僕は今、目の前の可愛らしい生物に魅了されている。人間とはなんと醜い生物だろうか。
なぜ親犬がいないかは分からないが、痩せ細ってはいないので生きられてはいるのだろう。なんと逞しい。
「お……お」
子犬の前に手を差し出す。子犬は不思議そうに僕の手を見つめた後、その小さい舌で僕の手の平をひと舐めした。そして。
ゴジラみたいな顔で僕の指を噛んだ。僕の血肉を、喰らった。
ああ、神よ。あなたは何という試練をお与えになってしまったのだ。私は今、笑顔だ。限りなく笑顔だ。どこまでも笑顔だ。しかし、笑顔を崩すことができないのだ。何も感じない。何も感じない。
無だ。僕が今まで積み重ねてきたものが、何の音も立てずに、突然消え去った。消し飛ばされてしまった。
子犬は今も僕の指に歯を突き立てている。というか、こいつよく見れば結構大きいな。子犬っていっても僕の膝くらいはあるじゃないか。なんてことだ。そりゃ痛いに決まってるよ。痛い? 何が? 一体何が痛いっていうんだ。僕は今、無にあるというのに。あれ、よく見れば目の前の子犬、指を噛んでいるじゃないか。こらこら、そんなことしちゃダメだろ。あれ、これは誰の指……。あ、なるほど、僕か。あはははははははははははははははははははハァ!
「いっっっっっっっっっっっっっっっツゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥァァァァァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァッ!」
右手の指先から鋭く鈍い痛みが駆け巡ってくる。その痛みのエネルギーが左手にまで流れ、そして気づけば、佐城の腹に鮮やかなボディブローを決めていた。佐城は意識を失い、僕も意識を失った。
その後、僕は近所のおばちゃんに犬の小便塗れになっていたところを発見された。
僕のあだ名は小便ボディブローになった。
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