Épisode 12「もしかして私、あなたのこと」


 薬草の入ったかばんを持って、ユーフェは部屋を出る。

 そっと息を吐いた。

「何をそんなに緊張している?」

「っ⁉︎」

 自分しかいないと思っていたのに、いきなり真横から声をかけられて、ユーフェはぎょっとした。

 ヴィクトルがじっと瞳を覗き込んでくる。

「べ、別に緊張なんて……」

「いや、していたな。まさかあの軟弱そうな男にまで恐怖を抱いているわけではあるまい。ではなぜ、君はあの男に緊張していたのだろうな?」

「っ。だから、私は本当に」

「誤魔化すな、ユーフェ」

 彼にしては珍しい、真剣な眼差しだ。

「ヴィク、トル?」

「わからないか。俺は面白くないと言っているんだ。ついさっき俺だけを見ろと言ったはずなのに、君はもう余所見をするのか? まさかあの男に好意があって、だから緊張しているなどと初心なことは言うまい?」

「あの、何を言ってるの? 好意とか……何か誤解があるわ」

「ほう。ではどんな?」

「好意とかじゃなくて、私はただ、どうしてかまだダニエル様には慣れなくて。伯爵や夫人には慣れてきたのよ? だってもう数年は通っているから。だから、ダニエル様がとても優しい方だとも、わかってはいるの。わかってはいるけど……」

 あの、瞳が慣れない。

 穏やかに自分を見つめる、太陽のような金色の瞳が。

 というのも、ユーフェの人見知り基準は、まさに瞳であるからだ。

 過去、両親から、屋敷の使用人から向けられた冷めた目は、ユーフェのトラウマとなっている。そして初めて出会う人間は、自分にそれを向ける可能性が大いにあるのだ。

 だから、その人間が、自分に白い目を向けてくる人ではないという確信を持てるまで、ユーフェはその人に近づかない。

 これはもう本能が判断していることだった。

 ユーフェの本能は、どうやらまだ、ダニエルを認めていないらしい。

「自分でも本当に不思議なの。ダニエル様は、いつも本当に良くしてくださっているのに」

 それこそ、ヴィクトルなんかよりもずっと。

 意地悪なことはしないし、酷いことも言わない。

 慣れないユーフェを気遣ってくれているのは、良心が痛むほどわかっている。それでも。

「私、ダニエル様を、怖いと思ってる……?」

 疑問系なのは、心が拒絶していても、頭が理解していないからだ。自分の行動を。

「ふむ、なるほどな」

 真剣な顔でそう頷いたヴィクトルだが、次には思いっきり口角を広げていた。

「そういうことなら、許そう」

「はい?」

 尊大に腕を組む彼に、ユーフェは怪訝な顔をする。

「つまりこういうことだろ? 数年も顔を合わせている男にすら慣れないのに、君は知り合ってたった数日の俺には慣れた。つまり君の中で、あの軟弱男よりも俺のほうが上だということだ。それならまあ、我慢してやらないこともない」

 やっぱり言っていることは意味不明だったけれど。

 でも、確かに、と思う自分もいて。

 いくら猫のときの接触分があるとはいえ、ユーフェがここまで早く慣れた人なんていない。仲間意識が芽生えたフランツとだって、ユーフェ自身はまだひと言も話していないのだ。

 けれど、ヴィクトルには、つい素の自分が出る。むしろ彼の瞳を見ていると、恐怖よりも安堵が湧く。

 こんな感情、リュカ以外には初めてで。

「どうしてだろう……不思議だわ。もしかして私、あなたのこと――」

「なんだ、やっと気づいたのか。そうだ、君は俺のことが」

「弟のように思ってたのね!」

 がくり。ヴィクトルが崩れ落ちる。

「なぜだ⁉︎ どういう思考回路をしたらそうなる⁉︎」

「え、だって。リュカにもそうだし、私はリュカのこと、弟のように思ってるから。だからあなたのことも……」

「リュカのことはそのままそう思ってろ。だがな、俺のことは別だ。俺は弟じゃない」

「わかってるわよ? そんなこと」

「わかってない! ああもう、こうすれば手っ取り早いか?」

 言うや否や、彼はユーフェの腕を掴んで自分に引き寄せた。

 急なことでそのままヴィクトルの胸に倒れこんだユーフェは、自分の頬に添えられた手の促すまま、顔を上に向ける。

 なに、と思う間もなく。

 唇と唇が、触れ合っていた。

「⁉︎」

 猫のときにされたそれとは違い、少しだけ長いキス。唇に唇を押しつけられるだけのそれだったが、ユーフェの頭は一気に限界を突破した。

 振り上げた腕は、難なく受け止められる。

「うん、なかなか美味だ」

 彼がぺろりと唇を舐める。その仕草が艶めかしくて、ユーフェの顔は今にも煙を出しそうなほど茹であがった。

 柔らかい感触。生温い吐息。間近に迫る、湖面の瞳。

「あ、なっ」

 ――何すんの変態! 

 そう言いたいのに、脳みそまで茹であがったのか、思うように言葉が出てこない。

 信じられない。ふざけないで。なんて最低な男なの。

 心の中にはいっぱい文句が浮かぶのに、でも、唇には彼の感触がまだ残っていて。

「ん? どうしたユーフェ。何か言いたいことでも?」

 ニヤニヤと意地の悪い顔が、この上なく腹立たしい。その綺麗な顔にうんと痛い拳をめり込ませてやりたい。いや、めり込ませてやる。

 そう思って右手に力を入れたとき、何の予告もなく、鈴を振ったような可憐な声が耳に届いた。



「――お姉様? もしかして、そこにいらっしゃるのは、ユーフェお姉様ではありませんか?」



 ド ク ン。


 ユーフェの心臓が嫌な音を立てる。

 ドクン、ドクン。

 知らず息が止まった。聞き覚えのあり過ぎるその声に、走馬灯のように記憶がフラッシュバックする。

 ドクン、ドクン。

 まさか、そんなはずは。

 ドクン、ドクン。

 そんなはずは、ない。

 彼女が、妹が、こんな田舎にいるわけが。そう思いたいのに。

「まあ! やっぱりお姉様だわ。お久しぶりですわね、お姉様!」

 目の前までやってきて、天使のように柔らかく微笑む彼女を見たとき、小さい頃の妹の面影と重なった。


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