もしかしたらあり得たかもしれないもう一つの人生。また一晩寝れば真新しい朝がやってくる?

シュート

第1話 もしかしたら

  耳の奥で救急車のサイレンの音が聞こえたような、気がする。

  何かを選んだつもりになっていても、ただ空をつかんでいるだけなのかもしれない。考えて見れば、自分はいつも、ここではないどこかを目指していた。

 あの日が陽炎のように空へと昇って行き、頭の中が白くもやがかかったようになる。

 春の陽射しがシーツに陽だまりを作っている。

 布団の中で、目覚めの縁にもたれかかっていると、階下から母の声が聞こえてきた。

「綾香、もう起きなさい。遅刻するわよ」

 ベッドの中で、まだ半分夢の中にいた真鍋綾香は手を伸ばして、さっき一度自分で止めた目覚まし時計をつかみ時間を確認する。

 マズイ

 遅刻するかもしれない。布団を跳ねのけ、パジャマ姿で部屋を飛び出し階下の洗面所へ向かう。洗顔をし終わり、顔をあげると後ろに立つ兄の顔が鏡に映った。その時、綾香はなんとなく違和感を持った。

『何かが違う』

 しかし、それが何かは解らなかった。再び二階の自室に戻り、身支度をする。ギリギリ間に合いそうだ。急いで階段を下り、台所で朝食の準備をしている母の背に声をかける。

「お母さん、じゃあ行ってくるね」

 返事も待たずに玄関に走る。

「ごはん食べないの?」

 たぶんそう言ったに違いない母の言葉を半分だけ聞いて玄関を出た。駐車場の車の横にとめてある自転車を出し、駅まで突っ走る。おかげでなんとかいつもより二本だけ遅い電車に飛び乗ることができ、無事始業時間に間に合った。

 制服に着替え、自分の席についてパソコンの電源を入れる。この日、急遽開かれることになったという早朝会議から戻った課長が席に着くのを目の端にとらえる。だが、この景色はすでに何度も目にしてきたように感じられる。『既視感』というのだろうか…。課長はきっとこの後、綾香の斜め前に座る大迫学を呼んで説教する。

「大迫君」

 課長の苛立った声に、課の全員が耳に蓋をしているのがわかる。その後もいくつか事前に知っていることが起こったが、もう気にはならなかった。むしろ、楽しんでいた。

 この日は、来週で会社を辞める高坂美佐江の送別会が会社の近くの焼肉屋で行われる。綾香とも仲の良かった美佐江は、寿退社する。喜びと寂しさと羨ましさの混じった複雑な感情だった。

 幹事の音頭で乾杯をした後、美佐江が挨拶をする。綾香は美佐江が話し出す前から涙を流していた。それは美佐江がこれから話す内容がわかっているから。仲の良かった美佐江との別れが、綾香の酒の量を増やした。二次会も終わりをむかえる頃にはすっかりできあがっていた。

「綾香、大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」

 そう言って、さらに一口酒を飲む。

「でもさあ、もうこんな時間だよ。綾香そろそろ帰ったほうがいいんじゃないの」

 一人だけ遠方から通勤している綾香を心配して、田中すみれが言った。すみれの一言で綾香は現実に引き戻される。

「今何時?」

「11時20分」

「えっ、マズイ。最終ギリギリだ」

「なら、早く帰ったほうがいいよ」

「うん。じゃあ、私帰るけど、美佐江元気でね」

 隣で同じくできあがっている美佐江に向かって言う。

「おー、綾香もね」

 最後は明るく別れ、綾香は急いで駅への道を小走りで向かう。飲み過ぎの体にはきつかったが気が張っていたことで何とか間に合った。最終電車はいつも満員だ。ドアが閉まると、人いきれで再び気分が悪くなるが、途中で下車すればもう帰ることができなくなるので必死に耐える。やがて、乗客の数も減り、綾香も席に座ることができた。すると今度は、快適な温度と揺れのせいで、一気に眠気が襲ってくる。乗り過ごさないよう眠気と戦い、ようやく自宅のある駅に着いた。ホームに降り立つと、酔いで火照った顔に風が当たり心地よい。いつもなら徒歩で帰るが、送別会が行われることがわかっていた今日は自転車で来ていた。

 駐輪場から自転車を引き出して乗りペダルをこぐ。大丈夫だ。これならいつもと同様15分ほどで自宅に帰ることができる。

 大事な話があるから、どんなに遅くなってもいいから電話がほしいと、今付き合っている増渕晴久からラインで連絡が入ったのは、午後8時頃。送迎会が一番盛り上がっていた時間帯だった。今日は綾香が送迎会で帰宅が遅くなることは晴久に事前に伝えてあったのに、なんでよりによって今日そんな連絡を寄越すのだろうか。送迎会の最中は、そちらに気が向いていたから、さほど気にはならなかったが、今になって何の用なのかが急に気になりだした。あまりに気になったので、さっき車内から『何の話?』と連絡したが、だからそれは後でちゃんと話すと返されてしまった。

 大事な話って何だろう。

 いい話のような気もするが、もしかしたら悪い話かもしれない。何せ、綾香の猛烈なアプローチの末にようやく始まった恋なのだ。今でも、彼の綾香に対する思いより、綾香の彼に対する愛情のほうが、数倍大きい。つまり、二人の恋愛関係は決して均衡状態にはなく、綾香は圧倒的に弱い立場なのだ。彼の言葉が気になりだしたら、気になって気になってしょうがない。当たり前だけど。

 気のせいていた綾香はいつも以上にペダルをこぐ足に力を入れた。シャッターの閉まった商店街を抜け、神社の前を全速力で通過する。やがて、信号のない交差点が見えてきた。あの交差点を渡り切れば自宅はすぐそば。一応横の道をちらっと見たが、幸い、車がくる気配は感じられない。ところが、ペダルに込めた力を一段と強めて交差点に入った瞬間、いつ侵入してきたのか右側から車のライトが猛スピードで近づいてくるのがわかった。自分の自転車が交差点を走り抜ける速さと、右側から迫りくる車の速さを想った時、背筋がぞっとしたが、今はもう自分を信じて走り抜けるしかないと、とっさに脳がそう判断した。

 鳴り響くトラックのクラクションの音と激しい急ブレーキの音。車のライトが自転車のすぐ右横まで迫っている。『ああもうダメかもしれない』と思いつつ、ペダルをこぐ足に渾身の力を入れる。すると、ぶつかるぎりぎりのところで自転車はすり抜けていた。まさに奇跡と言っていい。それは、一瞬の出来事のはずだが、綾香にはまるでスローモーションのようにゆっくりと感じられた。

「バカヤロー」

 運転手の怒鳴り声を背中に聞きながらも、綾香は逃げるようにペダルをこぎ続けた。自転車を自宅の駐車場の横に入れ、玄関に入る。みんな寝てしまったのか家は静まっていた。階段を上がって自分の部屋に入り、ようやく一息つく。しかし、胸の高鳴りはまだ続いている。迫りくる車のライト、鳴り響くクラクションの音、運転手の怒鳴り声が、いつまでも綾香から離れない。

 本当に危なかった。もしかしたら自分は大事故にあっていたかもしれない。そう思うとぞっとする。今になって恐怖が訪れている。しばらくの間綾香はうずくまっていた。ようやく少し落ち着いたところで、晴久に電話することにした。晴久は何時でもいいと言っていたが、いつまでも待たせるわけにはいかない。

「もしもし晴久? 綾香」

「ああ、結構遅かったね」

「ごめん、いろいろあって」

「いろいろ?」

「こっちの話」

「声が沈んでいるけど、何があった?」

 今は先ほどのことを話す気力が湧かない。

「何でもない。大丈夫。それより、大事な話って何?」

「うん。実はさあ、今日部長に呼ばれてニューヨーク行きを打診されたんだ。本当は会って話そうと思ったんだけど、綾香は今日送迎会って聞いていたんで、電話で話すことにした。俺としてはまず綾香の気持ちを訊きたいと思って」

「なんだ。そんなことだったの」

 綾香はいい話だとしても、悪い話だとしても、もっと深刻な話を想像していた。

「なんだ、そんなことって何だよ。俺にとっては大事なことだし、綾香にとっても大事なことなんだぞ」

「短期出張じゃないの?」

「短期出張ならこんな大げさにしないよ。少なくとも一年。だから。とりあえず返事を保留して、綾香に相談しようと思ったんだ」

「そうかあ。一年…。長いね」

「そうだろう」

「でも、それって栄転なんでしょ」

「まあ、そうだけど」

「じゃあ、断っちゃダメじゃない。一年くらいだったら我慢するよ。晴久が浮気しないように、私が毎月一回くらいニューヨークに様子見にいくから」

「そんなの大変だぞ」

「格安チケットがあるから大丈夫」

「それに、少なくとも一年ということはそれ以上長くなることもあるということだから」

「ふ~ん。行くとしたらいつから?」

「10月から」

「まだ5か月あるじゃん。それまでの間、私、晴久にべったりくっついて離れないからいいや」

「準備なんかで忙しくなるからそうもいかないさ。それと、この話には続きがある」

「続き?」

「そう」

「何、何?」

「それは今度会った時に話すよ」

「えー、そんなのズルイよ。私眠れなくなっちゃうじゃない」

「会って話したいんだ」

 悪い話の感じはしなかったので、ここは引いておく。

「わかった」


 ニューヨーク行きが正式に決まった5月24日に、綾香と晴久は夜景の見える高層階のレストランで食事をとっていた。

「いよいよ決まったんだね」

「そう。どう? 寂しい?」

「いじわる」

「俺は寂しいよ」

「ほんと?」

「ほんとに決まってるじゃないか」

「私のほうが寂しい」

 こんなどうでもいいことで張り合えるのが楽しい。

「毎月来てくれるんだろう」

「そうだけどさあ。やっぱり…」

 晴久のニューヨーク行きが正式に決まったことで、急に現実の出来事として意識し、悲しくなったのだ。思わず涙が出ていた。

「泣かないで。それで…、この前の電話の続きなんだけど」

「うん」

「一緒にニューヨークへ行ってほしい」

「私も?」

「そう」

「それから、ニューヨークへ行く前に結婚式をあげたい」

「えっ、それって…」

「綾香、俺と結婚してほしい」

「晴久…」

 なんとなく予感はあったけど、実際に言われると、とてつもなく嬉しかった。でも、ニューヨークへ行くことには少し迷いもあった。綾香には夢があって、日本でそれを追い求めようとしていたからだ。

「嬉しい。こちらこそお願いします」

 結局そう答えていた。大好きな晴久と結婚できる。ずっと一緒にいられる喜びのほうが大きかったから。

 それからというもの、二人は急に忙しくなった。結婚式の準備と転勤、転居の準備が重なったからである。綾香は会社を辞めることにしたのだが、業務の引き継ぎのこともあり、すぐにというわけにもいかなかった。そんな中で式場探しもしなければならなかったのであるが、なにせ時間が差し迫っていたためあいている式場がなかった。両親も協力して動いてくれたおかげで、幸いある式場にキャンセルが出たということで間に合うことになった。転勤、転居のほうは晴久の会社のほうで手配してくれたので問題はなかった。しかし、案外こうしたことは一挙にやってしまうとうまくいくものらしい。おかげで綾香はマリッジブルーになる余裕すらなく結婚式を迎えていた。新婚旅行にも行かず、慌ただしくニューヨークへと旅立ったのである。


 それから5年後、綾香と晴久は現地で生まれた娘の芽衣を連れて東京に戻った。当初は1年くらいという話だったが、結局5年ニューヨークにいたことになる。あの時、晴久のプロポーズを受け入れ、結婚して一緒にニューヨークに行って良かった。もし、日本で晴久の帰りを待つという道を選んだとしたら二人の結婚はなかったかもしれない。

 久しぶりの日本という国に慣れるまでに多少の時間はかかったものの、今では感覚を取り戻している。今日は母が実家から孫の顔を見に来ている。さんざん家の中をチェックして、掃除の仕方がどうの、洗濯物の畳み方がどうのと言っている。花嫁修業の何ひとつしないまま結婚してニューヨークへ旅立った娘のことが心配でしょうがないのであろう。

「こっちへ戻ってどのくらいになるんだっけ?」

「もう半年よ」

「そう。どう? もう日本の生活には慣れた?」

「大丈夫よ、お母さん」

「それならいいけど…。何か心配なことはない?」

「心配性ね。何もないわよ」

 思わず強い口調になってしまった。小さな子供を諭すような母の言い方が気に入らなかったこともあるけれど、本当は心配事があることを言い当てられたことに対する苛立ちのようなものでもあった。

 母には言いたくないけれど、綾香には今二つの心配事がある。

 一つは日本人の母親たちとの関係づくりだ。ニューヨークへ行った時は、当初アメリカ人とのコミュニケーションの取り方、付き合い方に悩んだ。ようやくそれにも慣れた頃に日本に帰ってきた。すると、今度は日本人との関係づくりに悩まされることになった。

 いわゆる公園デビューを果たした時も戸惑うことばかりだった。そこに出来上がっている見えるようで見えないコミュニティに支配されている複雑な人間関係。うっかり近づいてみたら、誰が裏のリーダーだから彼女の言うことは絶対に反対しないこと、とか、誰と誰は仲が良く見えるけど、本当は仲が悪いとか、表面上の関係とは別の裏の関係を知らされて嫌気がさした。これ以上深入りすると面倒なことになりそうだったので距離をとったら、今度は総スカンを食らうこととなった。

 増渕親子が公園に入っていくと、コミュニティの母親たちが固まってこちらをじろじろ見たり、何かを囁き始める。そんなこと気にしなければいいようなものの、やはり気分は良くない。それに、母親同士の妙な関係など何も知らぬ娘はコミュニティの母親の子供と遊びたがったりする。

「ママ、雛ちゃんと遊びたい」

 遠くにいる山形雛乃を指さす。

「芽衣ちゃん、今雛ちゃんはお母さんと用事があるみたいだからダメなのよ」

「ふ~ん」

 納得していない芽衣。こんなことを言わなければならない自分が嫌になる。本当はもっと公園で遊ばせたいのに、早々に家に戻ることになる。ちょっと離れたところに別の公園もあるが、そこに行っても同じことが起こることがわかっているので行かない。勢い、家の中で遊ばせることが多くなり、芽衣には可哀そうな思いをさせている。しょうがないので、時々電車に乗って大きな公園に連れて行っている。今、このことが綾香にとって大きな悩みであり心配事になっている。しかし、解決策などない。自分の母親に相談したとしても、時代が違うため適切な答えを得ることは期待できないのでしない。

「ああ、面倒くさい」

 このところ綾香は日に何度もこの言葉を一人で口にする。解決するわけではないけれど、口に出すことで少しだけ気が楽になる。

 もう一つは晴久の浮気疑惑である。

 ニューヨークにいる頃は、異国で一人家で晴久の帰りを待つ妻を案じてか、晴久は人一倍優しかった。極力残業も減らして、二人の時間を作ってくれた。もちろん、新婚だったということもあったのだろうけれど。そうした生活は娘が産まれても変わらなかった。

 ところが、日本に帰ると晴久は変わった。部署が変わったことや役職についたことがあるかもしれないけれど、人が変わったように仕事人間になった。残業がすごく増えたし、出張も多くなった。だが、その出張の中に時々疑わしさを感じさせることがあった。男は忙しい時のほうが浮気すると、友達の美穂子から聞いていたけれど、どうやらそれは当たっているようだ。ただ、現段階では具体的な証拠をつかんでいるわけではなく、綾香の勘に過ぎない。この段階で母親に相談すればかえってややこしくなるだけなのでしないと決めている。綾香は先週の木曜日の夜の晴久との会話を思い出していた。

「明日、急に大阪出張が入っちゃってさ」

「ふ~ん。なんか最近大阪出張多くない?」

「ああ、それはこの間も話したと思うけど、今うちの部署が進めているプロジェクトが関西の顧客を想定しているからだよ」

「それにしても多くない?」

「何だよ、それ。疑ってるわけ?」

 急に声を荒らげたこと自体怪しいと、綾香は思う。

「誰もそんなこと言ってないじゃん。ただ、感想を言っただけだよ。もういいよ」

 晴久も自分がきつい言い方になってしまったことを反省したようだ。

「ごめん。俺が悪かったよ。このところ仕事が忙しくて精神的ゆとりがなくなっていたんだ」

 そういうこともあるとは思うけど、なんか納得できなかったので返事しない。夫が浮気しているかもしれないと思うと綾香の気持ちは塞ぐ。かといって、証拠をつかむために何か行動を起こす気にもなれない。

 そうこうしているうちに、綾香は新たな命を身ごもったことを知る。病院でそのことを知った時、もう夫のことを疑うのは止めようと思った。綾香は新しい命のために精一杯頑張ることにした。そうして産まれたのが次女の紗英だった。


四 

 昨年長女が大学を卒業して社会人になり、次女も大学生となり、綾香の手を離れつつある。もちろん、この先も次女の就職、長女の結婚など心配事が途切れることなどないのであろう。しかし、母親にとって一番大事な子育てから解放され、心にぽっかりと穴が空いた。

 22歳で結婚した後、専業主婦として夫の世話と子供の養育に邁進してきた綾香にふいに訪れた立ち止まる時間。

『自分の人生』って何なんだろう

 降ってわいたような思いに自分自身戸惑っていた。

 結婚してからこれまでの人生は家族のための人生だったような気がする。それはそれで幸せだった。これからもそれは続くであろうけれど、残りの半生は自分のために生きることも考えたい。

 しかし、いざ自分のために生きるといっても何も浮かんでこなかった。OLになって二年目に結婚してしまった綾香には身に着けた専門知識もなければ、誇れるような仕事上のキャリアもない。子供の頃は漫画や絵を描くことが好きで、みんなにも上手いと言われていたけれど、それをこれから再び始めても仕事にできるほどの才能を発揮できるとも思わない。趣味として始めることはできるだろうけれど、今後の自分の人生における生き甲斐にはなり得ない。

 誰かと話したい。意見を訊きたいと思う。学生時代の友人に電話してみるが、誰も出ない。自分より後に結婚した友人たちの多くは今子育て真っ最中なのだろうから忙しいのかもしれない。最後に電話したのは、高校時代に仲の良かった足立まりえだった。まりえは綾香とは違い、4大を卒業し総合職のキャリアウーマンとして活躍していた。そんな彼女なら、綾香の抱える虚無感を充たすアドバイスをしてくれるのではないか。

「久しぶり」

「ああ、綾香。元気?」

 電話の向こうで小さな子供の声が聞こえる。

「うん、元気よ」

「そう。良かった。で、今日は何?」

 何か用事がなくちゃ電話してはいけないのだろうか。なんとなく話したくなったから電話したのだけれど。そんな綾香を拒絶するような冷たい声だった。

「ごめんね、忙しいところ」

 まだ小さい子の子育て中の女にとっての関心事は限られていることはわかっていた。でも、なんで自分が謝らなければならないのだろう。

「うん、大丈夫よ。で?」

「この間、正美から電話があって、久しぶりにクラス会開かないかって相談受けたのよ」

 とっさについた嘘だった。

「ああ、ごめん。今、私は無理」

「そうよね。わかった。正美にはそう伝えておく」

 早々に電話を切った。電話をかけてしまったことを後悔する。そして、電話をかける前よりも心の中はざらついていた。この感情を自分の中のどこにどんなふうに収めればいいのかわからない。

 結局、綾香は何も見つけられないまま求人情報誌で見つけた駅前の本屋でパートとして働くことになった。反対するかと思った夫が賛成してくれたのは意外だったけれど。

 家族を送り出した後、掃除、洗濯などの家事を片づけた後に出社して、夕方まで働く。とりあえずは週3日働いてほしいと言われた。仕事に慣れるまでにはしばらくかかったけれど、今は楽しいと思えるほどになっていた。

「増渕さん、事務所に来てくれますか?」

 店長の渡部さんに呼ばれる。なんだか気持ちが高鳴る。入社面接を受けた時から綾香は店長のことを素敵な人だと思っていたから。

「はい」

 狭い事務所に入ると、店長が小さな椅子に座っている。綾香は、その前に置かれた同じく小さな椅子に座る。店長との距離が近くてドギマギする。

「どう? 慣れました?」

「はい。楽しく働かせていただいております」

「それは良かった。で、どうだろう。そろそろ週5日勤務にしてもらえればありがたいんですけど」

「大丈夫です」

 即答していた。今家族で綾香の手を必要とする者はいないからだ。

「良かった。助かります」

「いえ、こちらこそよろしくお願いします。

「増渕さんのその明るくて、てきぱきとしているところが、社員や他のパートさんから信頼されてるし、それにお客様の評判もいいんですよ」

「えっ、ほんとですか」

「嘘なんかついてもしょうがないでしょ」

「嬉しいです」

「そういうことで、これからも頑張ってください」

 誰しも褒められて嬉しくない人間なんていないが、自分が素敵だと思っていた店長に言われて、綾香は舞い上がってしまった。それからというものの、以前にも増して店長のことを意識するようになってしまった。

 最近は企業側もパートやアルバイトを正社員に対する補助要員としてとらえるのではなく、重要な戦力と見てる。週5日勤務が始まりしばらく経った頃には、新書のコーナーを任されるまでになっていた。その分責任も重くなったが、時給は変わっていない。このことだけを考えれば割に合わないと言えなくもないが、確実にやりがいは高まった。

「ママ、最近イキイキしてるよね」

 次女の紗英が言う。

「そう? しばらくぶりに働きに出たから楽しいのよ」

「それだけ?」

 何か含みを持たせたような、揶揄うような言い方をした。紗英が綾香の仕事場での姿を知っているはずもないのであり、深い意味を込めた発言とは思えないが、綾香のほうが妙に反応してしまった。

「どういう意味よ。へんな詮索は止めてよね」

「そんなに怒んなくたっていいじゃない…」

 母親の理不尽な怒りに直面し戸惑っている。へんに怒ることで、自分の心の奥にある揺れ動く思いを露呈させてしまったことを反省する。

「ごめん、ごめん。お母さん、今まったく別のことで頭がいっぱいなので、つい…」

「ならいいけどさあ」

 紗英は納得していない様子を見せる。そこで、綾香は話題を変える。

「そんなことより、紗英もそろそろ就職のことを考えておいたほうがいいんじゃないの」

「まだ考えたくないよ。もうしばらく大学生活を楽しみたいもの」

「そうね」

紗英の疑いはなんとかかわした綾香だったが、自分の様子が他人から見ても変化していると気づかれてはならないと気を引き締める。だが、夫はそんな妻の変化にも気づかないようだった。というか、考えれば綾香も随分前から夫についての関心が薄れていた。といって、不仲になっているわけでもない。夫婦生活も長くなると、お互いの長所も短所もすでにわかりきっているので、特別なことがない限り関心を持たなくなる。少々の変化にはお互い気づかないものなのかもしれない。

 しかし、綾香の気持ちは着実に店長に傾いていた。夫との恋愛期間が短く、若くして結婚してしまった綾香は恋愛の免疫力が低い。再び訪れた恋心は綾香を乙女のようにしていた。それは、燃えるような激しいものではなく、控え目に咲く花のような静かで優しいものだった。店長には奥さんも子供もいることはわかっていたので、深入りするつもりもなかった。それでも、店長の傍にいたい。店長ともっと会話したい。店長の顔を見ていたいという気持ちは強くなっていた。恐らく、店長も綾香の思いに気づいている。

「増渕さん、今週の土曜日に時間取れませんか?」

 土曜日は綾香が休みと知っていて声をかけてきた。

「えっ、土曜日ですか」

「増渕さんがお休みということはわかっているのですけど、その日出版社のパーティがあるんです。毎回、うちで働いてくれている人を招待しているんですけど、今回は増渕さんどうかなと思って。ただ、パーティといっても立食形式のざっくばらんなものなので普段着で参加できるものですから心配はいりません」

 なるほど、そういうことか。この誘いに深い意味はないのだと知って安心したと同時に落胆もした。

「ぜひ、参加させてください」

 実際のところ、出版社のパーティというものに興味もあったし、店長と二人で行けるということも魅力であった。

 当日、家族には短大時代の友人たちとの会食だといって出かけた。そんな嘘などつく必要もなかったのだけれど、自分の心の中にいくらかのやましさがあったせいかもしれない。

パーティは有名作家や芸能人なども参加していて楽しかった。食事も立食形式だったが、なかなかの豪華さで驚いた。パーティが終わり、まだその興奮も冷めないまま外に出る。綾香は駅前からバスで帰ることにしていた。まっすぐ伸びた道を二人並んで歩いていると、綾香は急に店長を意識してドキドキしてしまっていた。

「増渕さん、この近くにある公園の桜が満開らしいんです。せっかくだから、見て行きません」

 まだ午後3時半だった。今日の夕食の下準備はしてきていたので、時間はあった。

「いいですね」

 大通りから一本奥に入った道沿いに、その公園はあった。それほど大きな公園ではなかったが、まさしく満開だった。桜の木の下にビニールシートを敷いてお花見をしている家族の姿が目に入る。ああ、今日は土曜日だったんだと改めて思い出す。二人は公園内の道をゆっくり歩きながら桜を愛でる。

「きれいですね」

 綾香にとっては、今年初めてのお花見である。

「そうですね。ところで、今日のパーティどうでした?」

「ああいうパーティに参加したのは初めてなので楽しかったです」

「そう。それは良かった。また機会があれば招待しますよ」

「ありがとうございます」

「そう言えば、増渕さんのところのお子さんは何人でしたっけ?」

 わざとらしく話を転回させた店長のわかりやすい言葉の軽さ。

「うちは二人です。店長のお宅は?」

「3人です。それも男ばかり」

「うちと逆ですね。うちは二人とも娘ですから」

「そうだったんですね」

 ふっと会話が途切れた。当たり前だけど、考えて見れば自分は店長のことを何も知らない。だけど、ここで根掘り葉掘り訊くのも躊躇われた。かといって、この場で仕事の話はしたくなかった。

 二人の間に気まずい空気が流れたというわけではなく、満開の桜が作り出す幻想的な世界が二人を無言にさせていたといってよい。

「突然ですけど。増渕さんにとって一番大切なものって何ですか?」

 どうやら、ここからが本題のようだ。

「本当に突然ですね」

「すみません」

「う~ん、そうですね。やっぱり家族でしょうか」

「僕も同じです。仕事とかその他のものはすべて家族のためにあるんですよね」

「へえー、それはちょっと意外でした。あれだけ仕事熱心な店長を傍で見ているので、仕事の位置づけはもっと高いのかと思っていました」

 店長の夢は、いずれ本部の中核部門で仕事をすることだと聞いたことがあった。常に前向きに、しかも上を見て仕事をしている人という印象を持っていたのだ。

「ああ、他人にそう見えているのは自分でも知っています。でも、違います」

「そうですか」

「僕も男ですから、たとえば増渕さんのような素敵な女性を見ると心は動きます」

「………」

 話の流れが予想と違う方向に進んでいるのに戸惑う綾香。自分のことを素敵な女性と言ってくれたのは嬉しいけれど…。

「でも、やはり僕にとっては一番大切なものは家族です。一時的な気持ちで、一番大切なものを喪うことは避けたい。避けなければならないと思っています」

 店長は綾香が自分に好意を持っていることを知っていて、敢えてこんな話をしているのだろう。今日のパーティ招待も、このことを言うためだけにセッティングされたに違いない。真面目過ぎるというか、不器用過ぎる、この人は。

「ひょっとして、私ふられました?」

 綾香にはっきり言われてしまって、店長は逆に慌ててしまった。

「いやいや、そういうのじゃなくて…。増渕さんも一番大切な家族を守って生きてほしいと思って…」

「ふっふっふ」

「僕、何かおかしなこと言いました?」

「いえ。私、ますます店長のことが好きになりました。でも、安心してください。わたし、最初から今以上の関係になろうなんて思っていませんでしたから。でも、これからも一ファンでいてもいいですよね」

「それは全然かまいません」

 安心したような店長の顔が憎らしい。さっき、ちょっとだけ店長の言葉に傷ついたので、ちょっとだけ嘘をついた。本当のところ、綾香の中にはもう少し距離を縮められたらいいなという思いがなかったわけではない。

「店長って真面目なんですね」

「そうでしょうか。すみません、へんなこと言っちゃって。これからも今まで通りよろしくお願いします」

 日に照らされたおもての光景は静止しているように見えた。綾香の手のひらにはぽっかりとした空白が残っているだけ。近づいてくるバスがゆらゆらと揺れている。


「ねえ、お母さん、話があるから私のところへ来て」

 妙に切羽詰まった声だったのが気になったが、そもそも長女の芽衣から電話があること自体が珍しかった。芽衣は一人暮らしを始めた時から、羽を伸ばすことを覚えたようで、実家に寄り付かなくなった。必然、芽衣の住まいに綾香が行くことも少なかった。もともとしっかりものだったし、きれい好きでもあったので芽衣の一人暮らしに不安はなかった。これが男の子だったら、綾香はチェックの意味も含めて頻繁に訪れたかもしれないが。

「珍しいじゃない」

 ちょっとからかってみた。

「いいから来てよ」

「何よ、親に向かってその言い方」

「ごめんなさい。でも大事な話だから…」

「ふ~ん。大事な話って何?」

「電話では話づらいことだから来てって言ってるの」

「そう。わかった」

 この時の綾香は、娘が結婚の話をするものだと思っていた。結婚するには年齢的に少し早すぎるような気もするけれど、自分も同じような年頃に結婚したのだからいいかなと思った。親子って、こんなところも似るものなのかと感傷にひたりもした。しかし、まさか、あんな話だったとは…。

 芽衣の住むマンションは吉祥寺にあった。駅から少し離れてはいるが、なかなか瀟洒な建物である。部屋に入ると、いきなり芽衣の不機嫌な顔に出会う。自分には思い当たる節はない。

「まあ、とにかくそこに座って。飲み物は何にする?」

「なんでもいいわよ」

「なんでもいいって言うのが一番困るの」

「じゃあ、紅茶」

「わかった。じゃあ、ちょっと待ってて」

 芽衣がキッチンに消えたので、綾香は部屋を見渡す。相変らず掃除が行き届いている。潔癖症のきらいのある芽衣は、リモコンの置き方にさえ気を使っている。紅茶と、自分の分のコーヒーをお盆に乗せ戻ってきた。

「紗英から聞いたんだけど、最近ママ、妙に浮ついているらしいわね」

 いきなり嫌みを言われ、今度は綾香が不快な顔になる。

「妙にって、紗英が言ったの?」

「そうよ」

「まったく嫌ねえ。母親に対して」

「だけど、子供からもそう見えるって言うことじゃない」

「別に浮ついているわけじゃないわ。仕事が楽しいから気分が高揚していることは確かだけど。私が仕事に意欲を燃やしちゃあいけないの。芽衣もそんなことを言うために私を呼んだわけ?」

「そういうわけじゃないけど。関係あるっちゃあ、あるかもね」

「いったい何なのよ」

「そんなに浮かれている場合じゃないってこと」

「だから、何?」

 紗英も芽衣も親のことを何だと思っているのか。すると、芽衣は近くにあったバッグからスマホを取り出し、何か画像を探している。しばらくして、目当てのものが見つかったようだ。

「ママ、これを見て」

 芽衣が差し出した画面には夫が見知らぬ女と手を絡めて夜の繁華街を歩いている姿が映っていた。事実なのだろうけど、何もかも現実感がなかった。

「どういうこと?」

 認めたくないという気持ちが、事実を受け入れない。

「そういうことよ」

 冷たく言い放つ芽衣。綾香は画面を見つめたまま固まってしまった。体から空気が抜けていく感覚に襲われる。

「かして」

 そう言うと芽衣はスマホをもう一度自分の手に戻し、画面をスクロールして違う画像を綾香の前に突き出した。そこに写っていたのは、夫が先ほどの女の腰に手を回し、身体を密着させているものだった。さらに、3枚目の画像は二人が今まさにラブホテルに入って行こうとしているもので、致命的なものだった。

「どうして…」

 綾香には後に続く言葉がなかった。心の中が真っ黒になる。しかし、芽衣には綾香が訊きたいことがわかっていた。

「偶然だったのよ。私が大学時代の友達と新宿に出かけていた時、イチャイチャしている中年の男女を見たわけ。なんか気になってよく見たらパパだったのよ。だから、急用ができたと言って友達と別れて、私は二人の後をつけて証拠写真を撮ったの」

「そう…」

 どう見ても、誰が見ても夫とこの女はできている。これほど確かな証拠はなかった。いきなりこんな画像を見せられて、綾香の心の中には怒りと悲しみと落胆が一気に押し寄せていた。それと、なぜか相手の女が若くないことにも傷ついていた。

「ママ、その女の人知っている?」

「知ってるわけないじゃない」

 自分でも驚くほど強い口調になっていた。

「ママがショックを受けているのはわかるけど、私に当たらないでよ。私だってショックだったんだから」

「ごめんね。そうよね」

 あくまでプラトニックなものとはいえ、自分が店長に心を寄せていた時期に、夫はあまりに生々しい浮気をしていた。芽衣の言うように浮ついている場合ではなかった。

「これ、紗英にも見せたの?」

「見せるわけないじゃない。紗英はパパのことが大好きなんだから。見せたら大変なことになるに決まっているじゃない」

「そうよね。私、どうしたらいいんだろう」

 これまで夫とともに築き上げてきたはずの家族、家庭というものが崩れかかっているようで、綾香は急に不安になってしまった。

「ママ、しっかりしてよ」

「うん…」

「これだけはっきりとした証拠があるわけだから、一度パパとちゃんと話し合ったほうがいいと思うの」

「うん…」

「大丈夫、ママ。なんならその時私も立ち会う?」

 今の自分は娘の芽衣から見ても頼りなく見えるのだろう。先ほど本人も言っていたように、今回のことでは芽衣自身が深く傷ついている。そんな娘に心配させてしまう自分を恥じる。同時に夫に対して改めて怒りを覚える。

「大丈夫よ。ちゃんと話し合うから。その上で芽衣にも相談するわ」

「わかった。連絡待ってる」

 その日、自分はどうやって自宅に戻ったのか覚えていない。やはりそれほど綾香には堪えていた。

 綾香が芽衣の住まいに行ってから一週間が経つ。この間、綾香はずっと夫の様子を見ていたが、そこにはあの画像のほうが嘘だったのではないかと思うほど普段と変わらぬ夫がいた。しかし、綾香の中では、あの画像を見せられたことで受けた衝撃が時間を追うごとに強まっていた。

「あなた、今週の日曜日、出かける予定はあるの?」

「えーと」

 ちょっと考えるふりをする。あの女との予定でも考えているのかと思うと腹が立つ。

「いや、何もないよ」

「そう。じゃあ、時間作って」

「うん?」

「ちょっと相談したいことがあるの」

「わかった」

 夫は若干怪訝な顔を見せたものの、気づいている様子はない。

 当日、紗英がボーイフレンドとのデートで朝早くから出かけていたのは幸いだった。昼食が終わったところで芽衣から電話があった。

「もしもしママ、大丈夫?」

 この日夫と話し合うことは芽衣に連絡してあった。

「大丈夫よ」

「それならいいんだけど。私、今日どこにも出かけないから、何かあったら連絡してね。すぐに駆けつけるから」

「ありがとう」

 自分の娘ながら、いい子に育ったなあと思う。

 夫は書斎で待っていた。ドアの前で息を整える。

「あなた、入っていい?」

「いいよ」

 心なしか声が固い。ドアを開け、そっと部屋に入ると、夫は椅子に座って本を読んでいた。綾香は部屋の隅にあるもう一脚の椅子を持って夫の正面に座る。それを確認して夫が椅子を回して綾香と向き合う。

「それで、相談って何?」

 夫には『相談』と言ってあった。『話』と言うと身構えてしまうので、敢えて『相談』という言葉を使った。恐らく夫の頭の中では娘に関することの相談だと思っていたに違いない。今までも夫への相談と言えば、娘に関することが一番多かったし。

「相談というか、話があるの」

「話?」

 とたんに夫の顔が強張った。もともと夫はわかりやすい人間なのだ。この顔がこの後もっと歪むのを見られると思うと、ちょっと爽快な気分になった。

「そう」

「何?」

 明らかに苛ついている。綾香が手にスマホを持っていることにこの時点で違和感を持ったのだろう。盛んにスマホを見ている。

「あなたと結婚して何年になるんだっけ」

 もちろんわかっていたけれど、敢えて訊く。

「いきなり何だよ」

 苦笑いをして綾香の顔を見るが、綾香の顔が真剣なのを見て続けた。

「今年で確か24年目だと思うよ」

「あなたは幸せだった?」

 いつもの夫なら、ここで何かしら冗談を言うところだが、そういう雰囲気にないことを察して真面目に答えようとしていることがわかる。

「幸せだったと思うし、今も幸せだよ」

「ほんとうにそう思ってるの?」

「ほんとうにそう思ってるさ。君と出会い、二人の娘にも恵まれて」

「そう…。私もこれまではずっと幸せだったと思っていたわ」

「だったと思っていたって? どういうことだよ」

「あなたは私たちが何も知らないと思っているのよね」

「何を?」

 夫の身に異変が現れた。急に顔が赤くなっている。今の綾香の一言で恐らく察したのだろう。だが、夫は妻がどこまで知っているかはまだわかっていない。

「今からあなたに3枚の画像を見てもらうから、それを見た後で説明してくれる」

「何、何?」

 綾香は持っていたスマホを操作して画像を取り出す。

「はい、これ」

 3枚の画像を見て夫は固まったまま声も出せない。単なる浮気疑惑を問いただしているレベルではないのだ。これだけ動かぬ証拠を突きつけられてはぐうの音も出ないはずだ。

「説明してよ」

 自分の声が怒りと悲しみと憎しみで震えているのがわかる。

「探偵でも使ったのか」

画像を見た後、夫が最初に発した言葉を、綾香は信じられない思いで聞いていた。思わず深いため息が出ていた。

「あなたって、そんなふうにしか言えない人だったのね。でも、それならまだ良かったわよ。この画像は、芽衣が新宿に友達と遊びに出かけた時、偶然遭遇したのを撮ったものよ。あなたたちのあまりにいやらしい姿を見つけて証拠として撮ろうと思ったと言ってたわ。芽衣がどんな気持ちで、この写真を撮り、どれほど傷ついたか、あなたにわかる」

「芽衣が…」

「娘に見られていても気づかないほど、あなたは腑抜けになっていたっていうこと。情けない」

「………」

「相手の女性は山倉雅恵さんよね。あなたが総務部長で、山倉さんが総務課長。これも芽衣が調べてわかったことだけど」

「………」

「なんとか言いなさいよ」

 叫びたい衝動をむしろ抑え、できるだけ低い声で言った。

「………」

「あなた、もう逃れられないのよ。覚悟を決めて包み隠さずすべてを話して」

「………」

 夫は綾香の顔を見ることができないのだろう。下を向き一点を見つめたままだ。どれくらい経っただろうか、ようやく夫が言葉を発した。

「すまない」

 小さな声で囁くように言った。

「何て言ったの?}

 もちろん、聞こえていたけれど、綾香の気持ちが納得していなかった。

「すまなかった」

 こんな言葉で済まされるはずもない。

「関係を持ったのはいつから? 最近でないことはわかっているの」

「もう20年くらいになるかな」

「やっぱりね。最低ね、あなたって」

「………」

「紗英が産まれる少し前くらいから始まっていたわけね。あの頃、私はあなたの様子がおかしいことに気づいていたわ。だけど、紗英を身ごもったことがわかって、私はあなたを追及することは止めることにしたの。自分の気持ちが、これから産まれてくる赤ちゃんに向かったのと、万が一あなたが浮気していたとしても、私が身ごもったことで浮気は終わると信じることにしたの。甘かったのね。まさかあの時からずっと続いていたなんてね」

 店長に、一番大切なものは家族だと言ったばかりなのに、まさか夫に裏切られていたとは思ってもいなかった。

「本当にすまない」

「もう止めて、そんな言葉聞きたくもない」

「………」

「あなたは20年間、私を、娘たちを平気な顔して裏切り、騙し続けてきたのね。悔しい」

「そういうつもりはなかった」

「じゃあ、どういうつもりだったって言うのよ。一時的な浮気ならともかく、20年間も関係を持ってきた女がいながら、それでも私たち家族を愛してきたから裏切ってはいないとでもいうつもり」

「そういうことじゃなくて。心の中ではずっとすまないと思っていたということ」

「それは嘘ね。本当にすまないと思ったら止めれば良かったんじゃない。でも、止めなかった。今回たまたま芽衣が見てしまったからわかっただけで、芽衣に見られなかったらずっと関係を続けていたに決まってるわ。もういいわ。これ以上話し合っても悲しくなるだけだし、自分が惨めになるだけだから…」

 突然涙が溢れてきた。幸せだと信じてきたこれまでの家族の時間が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。込み上げるものがあり、嗚咽になった。夫はうなだれて、ただ黙っている。しばらくの間、静かな部屋に綾香の忍び泣く声だけが響いた。

「これからどうするか、私には考えなければならないことがいっぱいあるわ。それに子供たちとも相談しなければならないし。だから、あなたはあなたで考えてください。じゃあ」

 下を向いたままの夫を残して部屋を出たが、綾香は芽衣のところへ行くことにした。あのまま、夫と同じ空間にいることは耐えられないと思ったからだ。

 外に出てわが家を振り返る。わが家をこれほど寒々しいと思ったことはない。一歩一歩踏みしめるように歩き出すことで、緊張が少しずつほどけてくるのがわかった。

 部屋に入った綾香の顔を見て、芽衣はすべてを察したようだった。

「すべて認めたわ」

「そうでしょうね。あの画像を見せられたら否定のしようがないものね」

「紗英が産まれる前から関係を持っていたらしいわ」

 話ながら綾香はすでに他人事のように感じていた。

「すると、もう20年も続いているわけ。信じられない…」

 芽衣が今回のことで初めて涙を流した。綾香は芽衣の涙を見て、改めて夫は罪作りだと思う。

「ママ、どうするの?」

「私、あの人のこと許すことはできそうもないの。ただ、あなたたちのこともあるし」

「私のことは大丈夫。紗英は少し心配だけど、私からもよく話す。だから、ママ、何よりもママの気持ちを優先して」

「ありがとう」

 夫のことを聞いた紗英は気が狂ったように泣き叫んだ後、いっさい口をきかなくなってしまった。傷の深さからすると、立ち直るまでには時間がかかりそうだった。そんな紗英に対して、芽衣がずっと寄り添ってくれていた。

 結局綾香は離婚することに決めた。芽衣にあの画像を見せられた時にすでに綾香の気持ちは固まっていた。夫はすべての資産を私たち家族に残して家を出て行った。

 私が求めていた幸せは、まさかの形で終わりをとげた。すべて夫が悪いと思いたいけれど、今頃になって自分のほうにも非があったのかもしれないと思うこともある。しかし、今更考えてもどうしようもなかった。自分が考えるべきは、過去を振り返ることではなく、新たな幸せを求めてスタートを切ることだった。この先も人生には何が待ち構えているかわからないけれど、前を向いて歩を進めるだけだ。二人の娘たちにとっても今回のことは辛い出来事だったに違いないが、それぞれの方法で立ち直りつつある。ただ、今回のことで男性不信にならないことだけを願っている。

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