第8話 異変

 懐かしい夢を見た。

 当代の極星の姫ミア=リコは薄い口元を綻ばせた。

「何か良いことでもあったのですか?」

 微かな微笑に目敏く気付いたエヴァが髪を梳く手を止める。艶やかな漆黒の髪はミアの特徴であると同時に悩みの種でもあった。癖があるので、櫛が通りにくいのだ。痛めないように髪を梳かすにはコツが必要で、エヴァ以外にできる者はいなかった。

「ええ。素敵な夢を見たの」

 エヴァは目だけで優しく笑んだ。金髪を上品に結い上げた彼女には、服装にも立ち振る舞いにも一点の乱れもない。物心ついた頃既に母ニアンナを失っていたミアにとっては母も同然だった。

「さあ姫様、お召し替えをなさいませ」

 促されるままミアは顔を洗い、ドレスに着替えた。正確には、侍女達がコルセットを締めたり、長い黒髪を結い上げたりするのを人形よろしく待つだけだ。手持ち無沙汰のミアはベッドに置いた本を手に取る。

 懐かしい夢の正体はきっとこれだろう。昨夜、久しぶりに読んだ童話集。幼い時は毎日のように読んでは想いを馳せていた。

「どなたがいらっしゃるの?」

「星騎士のイオ様です」

 しばし、ミアはその言葉の意味を理解できなかった。星騎士が、ここに来る。イオが、自分に会いに。言葉が頭に染み込むにつれて胸が冷えた。ミアの手から本が滑り落ちた。

「……イオ、が?」

 呆然としたミアの呟きを、エヴァは肯定した。

「さようでございます。先日から何度かいらっしゃってますが、姫様のお身体が優れなかったもので」

「そんな、はず」

 軽いノック音がミアの言葉を遮った。身支度を終えた侍女達が下がる。来客に応対するのはエヴァだ。

「どうぞ」

「失礼致します」

 凜とした声。鮮やかな赤髪に映える白い軍服。騎士らしく背筋をまっすぐにし、腰には二振りの剣を構えている。しかし、操る腕は一本足りない。軍服の右腕部分の肩から先は垂れ下がっていた。

 扉を開けて入室したのは、紛れもなく当代の星騎士イオだった。

「ミア姫におかれましてはご機嫌麗しく……」

 挨拶の口上も耳に入らない。ミアは身を竦ませた。

 そんなはずはない。騎士の礼を取るイオを穴が開くほど凝視した。いるはずのない人物が目の前にいて、平然としている。あまつさえ、近付こうとしている。

「姫様?」

「……あ」

 喉から悲鳴が漏れる。こちらを不思議そうに見るイオから離れるように、ミアは後ずさった。

「あなた、誰……?」

 わななく唇から絞り出した声はか細かった。

「姫様、何をおっしゃいます。命の恩人でいらっしゃいますよ」

 宥めようと肩に置かれたエヴァの手をミアは振り払った。これにはエヴァはもとよりイオも目を見開く。

「ミア様、大丈夫でございますか? 一体何が──」

「来ないで!」

 自身に伸ばされたイオの手を鋭く制した。首を微かに振りつつ、ミアはさらに一歩たじろいだ。

「あなたは、イオじゃない」

 イオはぽかんとした。心底驚いている。というよりは、ミアが何を言っているのか理解できていない顔だった。やましい思いを抱えていたら、こんな表情はしないだろう。ミアも一瞬、自分の気のせいかと思いそうになった。

 しかし、この青年は『イオ』ではない。彼に救われたミアだからこそわかることだった。

「誰? ……イオは、どこに、いるの?」

 イオは少し困った顔をした。

「侍従長、ミア様はかなりお疲れのご様子。今日のところはお暇致しましょう」

 場を取りなすイオに、エヴァはそつなく「ではまた日を改めて」と追随した。短すぎる謁見は終わる。マレに攫われた可哀想な姫、ミアを置き去りにして。

 違う、と叫び出しそうな衝動をミアは辛うじてこらえた。疲れているわけでも攫われたショックで錯乱しているわけでもない。確信があってイオの名を語る者を拒絶したのだ。

 それでもミアが声高らかに言及できなかったのはもしかしたら、得体の知れない偽者が怖かっただけなのかもしれないが。

 胸元で両の手を握る。もどかしかった。この状況も、動けない自分も。何故イオの偽者が現れたのかはわからないが、できるなら、詰め寄ってイオはどこにいるのかを問いただしたかった。

 そう、強く願った。が、今もミアは動かなかった。口にすらしない。耳を塞いで目を閉じて、黙って見送ろうとしている。災厄が過ぎ去るのをただ待っている。

 あの頃から、自分は何一つ変わっていないではないか。

「待って」

 とっさに引き止めた。イオが怪訝な顔で振り返る。早くも後悔が胸をよぎるが、賽は既に投げられた。何よりも目の前の青年が、本物のイオへの唯一の手がかりなのだ。ミアは意を決した。

「無礼を詫びるわ、星騎士殿。おっしゃる通り、私はまだ混乱しているようです。王宮に戻って間もないもので。助けてくださった礼もまだ言ってませんでしたね」

 ミアはぎこちなくも笑顔を作ってみせた。

「気分転換も兼ねて久しぶりに外を歩きたいの。ご一緒していただけるかしら?」



 極星の姫が唯一歩くことを許された庭は、王宮内で最も奥深く、最も小さな花園だった。屋根付のテラスに椅子が四脚と円卓が一つ。囲むように白いバラが植えられていた。

 冬は雪、春から夏にかけては白バラ。一年の大半が白で覆われる故に『白雪の園』と名付けられた庭は、第一王女ミアの許可なくしては何人も立ち入ることの許されない、ミアの支配する、あまりにも狭すぎる領土だった。目にしたことはないが、同じ王女である妹姫のスピカは湖畔のある庭園を持っているというのに。

(でも私には十分よ)

 湖畔があってもミアは泳げない。極星の姫が溺れでもしたら一大事と、水辺には近づけやしない。泳げもせず遠くから見ることしかできない湖畔に、ミアは価値を見いだせなかった。そんなものは絵画と同じだ。

 自分には寝室一部屋程度の庭で十分。余計なものはいらない。『彼』さえいれば何もいらなかった。

「綺麗ですね」

 イオは花開いたばかりのバラを愛でながら、感嘆のため息を漏らした。小さいからといって庭師は手入れを怠ったりはしない。十四年間、この庭はいつ見ても美しかった。誠実な庭師に直接礼を言いたいが、それは叶わぬ望みだろう。

「少し……下がって、いただけない、かしら?」

 付き従うエヴァは顔を曇らせた。無理もない。マレがまんまとミアを攫ったのは十日前。幼少の頃から世話役を務めていたエヴァでさえ気づかなかった苦い記憶は、鮮明だ。

「お願い」

「姫様、何度も申し上げておりますが、お願いなどなさらずとも、ご命令くださればよいのです」

 客人の手前ということもあり、エヴァはミアの耳元でたしなめた。

「……すみません」

「謝るのもおやめください。仮にも一国の王女が、使用人の顔色を伺うことなどあってはなりません」

「ご、ごめんなさ」

 ミアは慌てて口を閉ざす。エヴァは困ったように微笑んだ。

「庭園入口におります故、お呼びください」

 ミアが頷くのを確認してから、周囲の衛兵や星読師、そして女官達を下がらせる。その手際良さはさすがと言うべきか。エヴァ自身もまたイオとミアに一礼して、下がった。

 白いバラに囲まれたテラスに二人きり。ミアは自身の胸に手を当てた。走った時のように鼓動が早い。

「姫様」

 ミアは弾かれたような顔を上げた。

「あ、はい」

「お身体の具合はどうですか?」

「……お陰様で、ほぼ、回復しま、した」

 ぎこちない返答にしかし、イオは穏やかに笑んだ。

「それは良かった」

 砕けた口調に、屈託のない笑顔に、ミアは遠い記憶の星騎士を思い起こした。今になって考えれば、いきなり寝室に現れて失礼な人だった。子供扱いして、一国の王女に払ってしかるべき敬意なんて欠片もなかった。でも、だからこそ、あの星騎士イオはミアにとって特別だった。

 似ているから何だと言うのだろう。

 自分に都合の良いように解釈するのは人間の性だが、星読師たるもの冷静に見極めるべきだ。目の前の人物の姿形がどんなに星騎士イオに似ていようと意味はない。彼は意思を持たない人形。他人がその身体に乗り移ることで初めて星騎士となる。

 だいたい、どうして自分が攫われたことに誰も気づかなかったのか。全く同じ姿形の偽物にすり替わっていたからだ。極星の姫に似た人形ならば作れて星騎士イオはできない理由はどこにもない。マレの技術はベネのそれを凌駕していた、

 ミアは深く息を吸って、吐いた。何年も昔の、たった数分の逢瀬。夢現も曖昧な思い出だが、あの『イオ』は大切なものをミアに託した。マレを倒す力ではない。もっと意義深く、占星術よりもずっと強い力。

 立ち向かう意志、だ。

「あなたは、誰?」

「星騎士イオです」

 打てば響くがごとく、イオは答えた。迷いのない眼差しに後退りしそうになる。

「嘘を見抜く占星術はできないから、あなたが嘘をついているのかわからないわ。でも私、あなたが『イオ』かどうかはわかる」

 ミアはホロスコープを起動させた。

「あなたは、私をマレから救った『イオ』じゃない」

 イオの表情が曇る。落胆か呆れか、いずれにせよ頑として自分を認めようとしないミアにいい感情を抱いてはいないだろう。

「姫様のおっしゃる『イオ』がどのような方かは存じ上げませんが、当代の星騎士イオは私です。そうでなければ、どうしてここにおりましょう?」

 うっかり信じそうになる自身を引き締める意味も込めて、ミアはホロスコープを突き出した。

「あなたが本当にイオなら答えて。ホロスコープを出さないのは何故? あなたの星の輝きが私には見えない。それに、どうして部屋に籠もる私を叱らないの? どうして、私に触ろうとしないの? どうして、」

 ミアは言葉に詰まった。この七年間で言いたいことは山のように増えた。聞き分けのよい『小さなお姫様』はイオに出逢って消えてしまった。ミアは、ワガママになった。それでもいいのだと言ってくれたのは、他ならぬこの騎士ではなかったのか。

「一言も、褒めてくれないの……?」

「姫様、何を」

 訝しげに眉を寄せるイオ。その胸目掛けてミアは占星術を発動させた。狙い違わず一条の光はイオの頬を掠めて、テラスの柵を穿つ。星が旋回するホロスコープを掲げて、ミアは宣言した。

「次は、当てるわ。本気よ」

 まさかの暴挙に目を見開くイオ。油断なく身構える様は警戒と猜疑に満ちていた。ミアの知る『イオ』とは似ても似つかない。一瞬でも本物かもしれないと思った自分が恥ずかしかった。

「やっぱりイオじゃないわ、あなた」

 星の一つが輝きを増す。風を司るサインにその星が納められようとするのを目の当たりにしたイオは、先ほどまでの穏やかさをかなぐり捨てて叫んだ。

「き、きさ、まっ、正気か! 私が破壊されたら、どうなるのか知らぬわけでもあるまい!」

「ええ。もちろん」ミアは高鳴る鼓動を抑えるように胸に片手を当てた「そう言うあなたも、私が死んだらどうなるのかぐらい知っているのでしょう?」

 一瞬の躊躇が生まれる。それが勝敗を決した。ミアの放った突風はイオを直撃。軽々と弾き飛ばされた身体は宙を舞い、テラスの支柱に激突した。

「ひ、姫様、何をなさるのです!?」

 血相を変えてエヴァが駆け寄る。

「来ないで! 誰も、近づかないで」

 エヴァを鋭く制し、ミアは倒れた人形の前に立った。

「私の知るイオなら、こんな術くらい避けるはずよ。本物のイオはどこ?」

 問いかけるが、ぴくりとも動かない。打ち所が悪かったのだろうか。ミアは慎重にそばに寄った。

「無駄です」

 伸ばしかけた手が止まる。エヴァと同じように近くに控えていたのだろう。星読師の儀礼衣をまとった女性が歩み寄ってきた。ミアの知る顔だった。

「姫様、お身体は」

 間に割って入ったエヴァは、ミアの身体をくまなく触りはじめた。

「私は、大丈夫、だけど」

「ああ……っ」感極まったようにエヴァはミアを抱きしめた「星騎士ではございませんが、心臓が潰れるかと思いました」

 エヴァの手に優しく包まれてようやく、ミアは自分の手が震えていることに気がついた。手だけではない。立っているのもままならないくらい足も──全身が震えていた。促されるまま、テラスのイスに座る。

「……ごめ、んなさい」

「姫様が何故謝るのです。おそばを離れた私に非はございます」

 エヴァは再びミアを胸に抱き、感嘆のため息を漏らした。

「ご無事で良かった……っ」

 痛いくらいに抱きしめる腕の中、ミアは消え入りそうな声で再び謝罪の言葉を口にした。ほんの僅か対峙しただけで震えてしまう臆病さが、自分が危険を犯す意味を考えなかった浅はかさが、恥ずかしかった。エヴァの立場が危うくなるのもそうだが──彼女は以前、母ニアンナに仕えていた。星騎士の胸にある『誠心の刃』が壊れた時、極星の姫の命もまた尽きることは十分過ぎるくらいに知っている。

 極星に選ばれた者の宿命とはいえ主人を二度も喪う心痛はいかばかりだろう。優しい彼女のことだから、ニアンナがマレに攫われた時も心を痛めたに違いない。

 ミアの震えが治まってきたのを確認してから、エヴァは腕を解いた。手はミアの両肩に置き、星読師の方を向く。

「話は戻りますがベル、無駄とはどういう意味なのですか?」

「恐れながら、こやつはあくまでも身代わりの偽物。手掛かりにはならないでしょう」

 ベルと呼ばれた星読師は屈んでイオに触れた。無防備な動作だった。

「あ、危ない、かも……」

「大丈夫。ご心配には及びません」

 ミアには快活な笑顔で応じて、調査続行。イオの身体をまさぐり「やはり、思った通り」と一人ごちた。

「何がです?」

 ベルは返答の代わりにイオの胸元を大きくはだけさせた。露わになった白い肌には傷は一つもない。あるべきものも、なかった。

 ミアは思わず目を逸らし、俯いた。何をしたわけでもないのに気恥ずかしさを覚える。

「『誠心の刃』がございません。明らかに偽物です。姫様を攫った時と同様に、今度は星騎士を──姫様?」

 怪訝そうな声を掛けられてもミアはひたすら自分の足元を見続けた。イオを直視することができなかった。

「ベル」エヴァが軽くたしなめた「服を戻しなさい」

「あ、失礼致しました」

 気遣われると余計に頬は熱くなる。極星の姫が住まう極星宮は男子禁制だ。免疫がないのも仕方なかった。

「偽物だとすれば、本物の星騎士は一体どこへ行かれたのでしょう」

「確証はございませんが、思い当たるのはたった一つ」

「マレ」

 二人の考えもまた同じだったのだろう。ミアの言葉に重苦しい沈黙が降りた。極星の姫の次は星騎士。立て続けに起こる前代未聞の大事件に、関係者は途方に暮れた。

「しかし何故マレが王宮に入ることができるのです? 姫様が拐かされた時も含め、二度も結界を越えて誰にも気付かれずに事を成しています。その手段すら、いまだにわかっていないのでしょう?」

 質問するエヴァはやや責め口調だった。ベルの師であるオギが極星の守護を担う導師なので気持ちはわかるが、仲間内で責め合ってもわからないものはわからないままだ。

「とりあえず、天星宮へご報告を」

「「それば駄目」」

 異口同音にミアとエヴァが反対する。何もわかっていないベルは首を傾げた。

「星騎士がマレの手に堕ちたのなら、一刻も早く姫様の『誠心の刃』を取り外しませんと……姫様のお命を握られたままにせよとおっしゃるのですか?」

 だから、報告できないのだ。ミアはエヴァを見上げた。彼女も何と説明したものか困っている。

 ベルとて知らないはずがない。星騎士を失った極星の姫の運命は、たいていが長い眠りだ。星読師複数名が編み出す強固な結界内に閉じ込められ、新たな星騎士がたてられるまで、あるいは極星が新たな姫を選んで離れるまで、ひたすら眠り続ける。それゆえ〈眠りの茨〉と名付けられた占星術は、極星を守る最終手段の一つとして用いられてきた。

ハッピーエンドが約束されたおとぎ話なら受け入れもするだろうが、現実、しかも本人ならば受け入れがたいことだった。

 おまけにミアは幼い時に一度、星騎士を失っている。正確には、星騎士に選ばれていた星読師トレミー=ドミニオンを、だ。すぐさまオルフィが次の星騎士として選ばれたから眠りから覚めることができたが、器ーー星騎士の身体そのものが奪われることなど聞いたことがない。

「星騎士が攫われたことを黙っているわけにはまいりません。それに、いずれは露呈してしまうでしょう」

 ベルは星読師らしく冷静に状況を分析した。

「あるいは……その前に、星騎士を奪回する、か」

「王国最強と誉れ高い星騎士を拐かした者から、ですか? どこにいるかもわからないというのに、一体誰がそのようなことをできましょう」

 考えれば考えるほど袋小路に入り込んでいる。途方に暮れるエヴァとベルの傍らで、ミアはイオの偽物を見下ろした。

 場所も犯人も知るすべはあった。あとは奪還方法を考えるだけーーいや、手段よりも重要なのは、覚悟を決めることだ。

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