雲は流れてやってくる

翌日、太陽が高く上がった昼。街の人たちの仕事もひと段落したあたりで、トルツァはようやっと目を覚ました。

目を覚ましたのは、小高い丘の頂上。眼下では、街の人たちが活動を行っている。身体を包み込む太陽の日差しが心地よく、トルツァは大きく伸びをした。


「ずっと、ここにいらしたんですね」


座ったまま、何をするわけでもなくぼうっとしていたトルツァに、何者かが声をかけた。


「ザスルさん、おはようございます」


もう昼ですよと、トルツァに声をかけた青年は苦笑いした。かく言う青年も、目元に少し寝不足の様子が見える。青年はトルツァの隣に腰を下ろすと、トルツァと同じように街の人々の喧騒を眺めた。春の心地よい風が、二人の間を穏やかに駆け抜けていく。


「今朝、引き留めてくれてありがとうございます」


ぽつりと、青年が言った。なにがですかと、トルツァは聞き返す。互いに相手の表情は見ずに、まっすぐ、街の人たちがそれぞれ動いているのを見ながら、何事もないように話は続く。

「明け方、俺が森に入ろうとしてたの、止めてくれたじゃないですか」


はぐらかさないでくださいよといった声色で、青年は言う。


「ぼくは引き留めてなんかいませんよ。たまたまこの丘に来ただけで。でも、森に入らなかったのは正解です」


青年にトルツァの表情はわからない。でも、やっぱり、この旅人は自分を止めに来たのだなと感じた。

 

『森に入って無事なら、研究者ですから』


昨晩旅人と話してからその言葉がずっと青年の耳から離れなかった。森に入って無事な存在。そんな存在を知りたくなかった。一晩中そのことについて考えを巡らせて、明け方、ついには森の手前まで足が向かっていた。あと少しで森に入ってしまう。そのすんでのところで、丘に向かう途中の旅人に声を掛けられ、青年は逃げるように家に帰った。


「どうして森に入ろうと思ったのか、まだわかりません。別にこの街で暮らしているのが嫌とかいうわけではないんです。ただ、心のどこかで、自分は入っても大丈夫なんじゃないかって思いました。たぶん、まだそう思っています。」


青年はまるで懺悔のように言葉を吐き出すが、旅人は何も言わない。


「とにかく、感謝しています。旅人さんが言う通り、親父を悲しませるところでした」


そういうと青年は立ち上がり、街の方へ戻ってゆく。そのうしろ姿を見送る旅人の表情からは、なんの感情も読み取れない。青年の姿が街にすっかり消えたころ、ようやっとトルツァは重い腰を上げ、同じく、街の方に足を向かって歩いて行った。



「この街は一年中温暖で土は少し固めになってしまっていますので、まずはこれを改善するのが一番です。キノコ、貝、後はフンなんかを混ぜ込みますと、もう少し柔らかい土になるはずですが…」


昼下がり、トルツァが街を歩いていると、畑のそばで休憩していた女性がトルツァに声をかけた。ここのところ雨が少なく土の状態が良くないことを憂いた女性は、森を出入りする研究者であるトルツァならば土壌環境にも詳しいだろうと、畑になにか助言を求めたのだった。

もちろん、土や植物はトルツァの専門分野ではないが、森に属する研究者として、土について全くもって知らないということもない。専門的な知識はないがそれでも良ければということで、トルツァは女性の相談に乗っていた。




「すまん、ちょっといいか?」


トルツァと女性が話していると、彼女の夫らしき人が、少し慌てた様子で現れた。

彼の眉間にできた皺が、ただ事でないことを知らせている。


「あらどうしたの、あんた」


「とりあえず、広場に来てくれ。旅人さん、あんたも」


やはり尋常じゃない様子で急かす夫に連れられて、二人は街の中央広場へと向かう。



広場には、街のほとんどの人が集まっていた。

トルツァは街の人々の中に酒屋の店主を見つけると、その大きな背中に話しかけた。


「ジダイさん、いったい何があったのですか」


「ああ旅人のニーチャン、いやな、長がどこにもいねえんだ」

酒屋の店主は深刻な顔で言う。ほかの村よりも広いとはいえ、一日あればすべてを回り尽くすことができるこの街で、半日以上もの間姿が見えないのは不可解である。

街の人たちの心配はだんだんと良くない妄想へと変わり、ついには口論にまで発展してしまっている。全員が混乱状態にある中で、あることないことを言い立てている。


「みんな落ち着きやがれ!!!」


人々の喧騒を跳ね返し、鼓膜を突き破るほどの大きな声が響き渡る。全員がピタリと喋るのを止め、声の主、酒場の店主の方を見る。


「まだ長がいないと決まったわけじゃない。全員でくまなく探そう」


酒場の店主の言葉で、全員が動き出す。男も、女も、子供も、大人も、全員が長を探した。どこもかしこも、街中のありとあらゆる場所を探したが、長は見つからなかった。

日はもうほとんど落ち、町全体が薄暗い空気に覆われる。街の人たちは、広場でどうするわけもなくめいめいに座り込んでいた。


「森に行ったのでしょう」


トルツァが、口を開いた。そのとき張り詰めるほどの緊張が、その場を駆け抜けていった。


「十中八九、原因はぼくでしょう。このタイミングですから」


それはみながどこかで考えていたことだった。考えていたことだったが、誰もが口に出さなかったことでもあった。重く、薄暗い空気の中で、誰も、何も言わない。


「ザスルさん、僕の荷物、持っていてください」


トルツァは、少し遠い所でうなだれている青年に声を掛け、腰の所に付けていた荷物を渡した。


「ぼくは森の中を探してきます。まだ森にいらっしゃるかも知れませんから。ザスルさんが持っている荷物は、とても大事な物ですので、ぼくは必ず戻ってきます」


誰の返事はしない。旅人は森へと消えていった。


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