第一章 八角形の蜘蛛の巣
1 砂嵐と共に
蜃気楼は
だから決してたどり着けないのだと、聞いた気がする。
見渡す限り延々と続く赤茶けた砂の丘陵。一つ一つ微妙に色が異なり、同じ荒涼とした世界でも平原のあてのない侘しさとは全く違い、畏怖にも似た威圧感がある。なるほど、この地方の伝承で砂漠には神が棲むというのもわかる気がする。
大陸を南北に分断するザム砂漠だ。
眩しさと砂煙に揺らめく視界の中、確実に近づいてくる一団をフィストの異常な視力が捉えていた。
「敵襲! 賊だろうね、五十はいる」
言われてすぐに単眼鏡で視認すると、ヴェンツェルは後方の本隊へ馬を駆る。熱と乾燥に強く砂の中でも走れるよう、強靭な脚力に品種改良された馬だ。
「五十騎の賊が現れた。王妃と殿下はとっつぁんに任せていいかい」
「とっつぁんはやめろと何度言わせるのだ! しかし多勢に無勢だが?」
王室近衛団長に栄転した、とっつぁんことチョビ髭のエグモント伯が唾を飛ばす。
「追い払うだけさ。深追いはしないよ」
一言ですぐさまヴェンツェルは仲間たちの元へ戻った。
「うーっ! 久っさびさの実戦っスねー
「腕が鳴るでやんす」
「
「最初はボクがやらせてもらうよ」
「やれやれ、二年ぶりの実戦だってのに、身を引き締めようって奴は誰一人いないのかい」
ヴェンツェルの言葉に全員の視線が集中する。
「
「一番楽しそうな顔してるのキミだよ?」
砂漠の旅である。全員頭と顔を頭巾で覆っており、例外なくヴェンツェルの顔も茶色の布で半分以上隠れている。にもかかわらずバレバレだ。自分の顔を触ってみると、確かに頬が盛り上がっている。
「いっ、いいかいおまえたち! 敵はたかだか五十騎だ。王妃と殿下に近づけるんじゃないよ!」
「了解! 秒で追い返すっス!」
新調した剣で、突っ込むのを今か今かと待ちわびているユリアン。
「最初から全力でやんすね」
もう四十代に突入したのだろうか、最年長のセバスチャンだが、ユリアンとともに最前列で剣を構える。
「心配ないトーゴ、私のそばから離れるんじゃないよ」
ヴェンツェルの隣で一人、さっきから黙っているトーゴはこれが初戦だ。ちょうど少年から青年へ変わる年頃だが、この二年で手足が驚くほど伸び、姿形はまるで彫刻のようで、ヴェンツェルですらハッとさせられる時がある。
「おまえの実力なら何も心配することないさ。まあ最初から何の恐怖も不安もなくバサバサやられても、そっちの方が怖いけどね」
「うん、俺ちょっとは怖いけどさ、でもなんか平気な気がするんだよ」
落ち着いた顔でそう言った。意外と大器かもしれない。
「じゃ、そろそろ始めるよ」
フィストが弓を構える。異常な視力と細身の体からは想像もつかぬ強弓。あれでありえない距離から一射で二人は撃ち飛ばすのだ。
「砂漠の風と初逢瀬だな。あんたが外したら次俺な」
構えるフィストの横から茶々を入れるベルント。
フィストは元々自分の傭兵団を持つ
結弦を引き絞り、フィストの薄い唇が不敵に歪められる。
「どこぞの団長みたいな熱い
灼熱の砂漠では、空の青さから違う。
その瞬間、フィストの周りで空気が凍り付いたように静止する。まるで暑さが嘘のようだ。ヒュッと涼しい風が吹いた気がして、フィストの指から矢羽根が離れる。確実に命中すると確信しているその目は矢の行方を追わず、もう次の矢をつがえている。
『死神フィスト』
それがこの男の二つ名だ。
間髪置かず隣でベルントも放つ。二人とも惚れ惚れするような連射だった。片手で秒を数える間に十人は倒れただろう。
するとヴェンツェルが馬の腹を蹴って駆け出す。
「あっ、ずるいっス
「お頭、フライングは反則でやんすよ!」
「そばから離れるなって言ったくせに置いてくなよ!」
仲間に追われながら剣を構える。怒った賊どもが振り上げた幅広の刃が太陽に反射して眩しい。だが正面から目を逸らす事なく、ぶつかり合った時には相手の剣が振り下ろされるよりも速く、ヴェンツェルの剣が鮮血を走らせていた。
初見の相手と剣を交える。命と命のせめぎ合いをする。そんな傭兵の当たり前を全身に浴びながら、斜め後ろのトーゴを見れば手堅く確実に敵を落馬させている。
ユリアンが馬の首ごと騎手を斬り飛ばす。馬上での体の使い方がここまで上手くなっていたとは驚きだ。セバスチャンは急所を的確に突き刺し、返り血すら浴びていない。
それを見た賊が、一人、二人、馬首を反転させて行く。しかし盗賊頭はそれを咎めることも撤退を命じることも出来なかった。ヴェンツェルに襟首を掴まれていたのだ。
「この傭兵風情が!」
帝国の言葉はあまり分からないが、恐らくそんな感じのことを言ったのだろう。同時に唾を吐きかけてきて、ヴェンツェルの頭巾にべチャっと飛んだ。
手の甲でゆっくりと頬の頭巾を拭う。舌先で傷を舐めるような艶かしさも束の間、その拳で盗賊頭の顔面を殴りつける。
「うお、一撃KO。生きてるか?」
「あれ歯と顎と頭蓋までイッたね」
ちょっと離れたところでフィストとベルントがぶるっと肩をすくめる。
「さ、とっとと出すもの出しな」
言葉は通じない。だが充分だろう。鋼鉄の拳を持つ団長にありったけの金をむしり取られると、生き残った賊は瀕死の盗賊頭を抱えて全速で離れていった。
初手で圧倒、こいつらに近づいたらヤバいと思い知らせる。傭兵の基本である。
「全く……、一体どっちが賊なのだ」
とっつぁんは苦い顔だが、馬上で日傘をさす女性は顔を輝かせている。
「ヴェンツェル殿、お見事でした」
ブレア国王妃クリスティーナ。彼女は
「たった六名で五十騎を敗走させるとは、そなた本当に強いのだな!」
ブレア国第一王太子のエルンストだ。クリスティーナと同じ愛嬌のある丸い輪郭と口元ではしゃいでいる。
「どうも。私は改造手術を受けて、鋼鉄のように強化され増加した骨が全身に詰まってるんですよ。エルン殿下こそ、あんまり嬉しそうに身を乗り出さないように。私がとっつぁんに叱られる」
ヴェンツェルは片目をつむった。
すると、土埃と共にドドドドッと地鳴りのような音を響かせ、黒い塊が近づいて来る。帝国玄旗を掲げており、今度は敵ではない。先頭の男は威圧するような覇気を纏っていた。
「ブレア国王妃ならびに王太子の一団とお見受けする。実に見事な戦いであった」
先頭の男が顔に巻いた黒い頭巾を外す。その顔を見て下馬しようとするクリスティーナを手で制止しながら男は続ける。
「余は八帝、
男が向けた先は、クリスティーナでもとっつぁんでもなかった。
「
しかも八帝が後ろに引き連れているのは、装備も格好も好き勝手な傭兵だった。なぜ皇帝の弟ともあろう人物が、自兵ではなく傭兵を?
「我々帝国皇族は戦う帝なのだ。宮殿に寝そべっている者などいない。それよりも砂嵐が来るぞ。帝都へ到着前に鉢合わせる。今から避難した方が良かろう。ついて来たまえ」
とっつぁんが視線を向け、クリスティーナが頷く。「総員続け!」と号令がかかり、黒い一団に続いて、足音と砂埃がもうもうと立つ。
その行軍を見つめていると、一人の男と目が合った。
長い黒髪にくすんだ紫色の服。黒い頭巾の下から、紫水晶のように爛々と輝く好奇の瞳でヴェンツェルを見ている。
「あれ……。本当にあれが風なの?」
フィストが指さした先には、幅数百メートルの壁だ。
砂嵐からは何人たりとも逃れられない。ただ隠れて耐えるだけなのだとガイドに教えられていたが、正直半信半疑だった。だがあれを見ては疑う余地はない。
ヴェンツェル達も急いで乗馬し、後に続く。一見何も無いような砂漠にも、水場や岩場があるものだ。土地勘のある者にしか分からない道をたどり、比較的大きな岩場に馬をかがませ、皆で小さくまとまる。
「殿下、大丈夫ですよ」
エルンストを抱いたクリスティーナの上から覆いかぶさる。しかしヴェンツェルにも経験がないので、こうしてみたものの自信はなかった。
風のものとは思えぬ轟音が近づいてくる。砂粒が顔と目に痛くて目をつぶってしまい、代わりに腕にギュッと力を込めた。
やがて耳も風に奪われ、すべての感覚が閉ざされて吹き飛ばされそうな衝撃が体を襲う。足に力を入れて踏ん張っていると、なにかがチクリと痛んだ。
なんだ? 首筋?
砂が当たったにしては痛い。いや、外套で覆っているから砂じゃない。風でもない。
うっすら瞼を開ける。至近距離にあったのは、刃——
「っ‼」
だがその刃がボロリと砂に落ちる。同時に力なく崩れる黒い影は、刃を向けていた人間だろう。徐々に砂嵐が収まり、ヴェンツェルの足元に倒れている男と、その後ろにあの紫色の瞳の傭兵が剣を抜いて立っていた。
「首は?」
傭兵に問われて、そうか痛みは首に刃物を入れられたからだと気付く。手の平を当てると、布を通してわずかに血がついた。
「私の首を斬ろうとしたが、この骨に阻まれたってわけだね。あんたらのお仲間かい?」
「俺たちの仲間じゃない」
男は剣を鞘に納め、しゃがんで死体の身元を調べ始めた。
「
狙ったのはヴェンツェルではなく、その下のクリスティーナ、あるいはエルンストだろう。
「何者だ? 説明してくれ」
しかし男が答える前に八帝が帝都へ先導すると馬を駆ったので、会話は続けられなかった。再び地響きのような馬の足音と砂煙に、ヴェンツェル達もついて行かねばならない。
「…楽な旅にはならないと思ってたけど、いきなりとはね」
ヴェンツェルは広大な砂漠をもう一度見渡すのだった。
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