4 ニンジン、嫌い
疲れた体をベッドへと放り投げる。分厚いマットレス越しに、四本の木の足がギギっ、と一瞬悲鳴をあげた。
半開きのドアから廊下の灯りが漏れる。電気の消えた薄暗い部屋で、由香は明るいスマホの画面が見つめていた。
『やっぱり楽譜は、本条くんが持っているみたいなので、明日持ってきてくれるそうです。』
画面を見ながら、思わず笑みがこぼれる。溢れ出る感情を抑えきれず、バタバタと足を振り回した。さっきまで予備校の授業で疲れていたはずなのに、不思議と疲れが吹き飛んでしまった。
急いで宮本へのお礼メールを打ち込んでいく。
「なんで、電気消してるの?」
部屋の電気が、パッとついた。由香は、その明るさに顔をしかめる。
ボヤッと明るんでいく視界の中に、人影が映る。部屋の入口で、明るく染まった髪を指で巻きながら、姉が由香の姿を不思議そうに見つめていた。
「急に、電気つけないでよ」
「はい、はい」
姉である
肩に羽織られた薄いレースのカーディガンは、バイト先のアパレルショップで置いてあるものらしい。悔しいが、部屋着だというのに随分と洒落ている。
「もうご飯出来てるよ。制服は着替えなよ」
はーい、と由香は適当に相槌をうつ。制服のスカートをベッドに放り投げ、ジャージに着替える。姉のことを特別に好いているわけでも、嫌っているわけでもない。ただ上手く接することが出来ない、そういう時期なのだ。
人が喜んでいたのに台無しだ、と腹を果てながら、由香は送信ボタンを押した。
リビングに行くと、母と美香が料理を配膳していた。
「お父さんは?」
父の席にだけ配膳が行われていない。その代わりに、大皿に盛られたラダが置かれていた。
「出張、ほら由香も手伝って」
美香から皿をふたつ受け取る。青い花がらの模様を、ホワイトシチューが隠す。テーブルには、丁寧にランチョンマットが敷かれていた。目に見えて人参が多い方を、姉の席へと押し付けた。
「あら、由香おかえり」
呑気な声が、キッチンの方から聞こえてくる。母は、ミトンを手にはめ大きな鍋を抱えていた。
ただいまー、と間の抜けた声を出して由香は席につく。ふと、眺めたテレビでは、この食卓の雰囲気には似つかわない、シリアスな世界情勢についてニュースが伝えていた。
――――――――
「お母さん、明日、梅田に買い物に行こうよ」
「そうねー。最近全然、行けてないからいいかもね。美香、何かほしいものあるの?」
目の前で並んだ二人が楽しそうに談話している。由香は、スプーンに乗った温かなシチューに息を吹きかけ口に運んだ。濃厚なバターの香りが広がる。母の料理は、とても美味しい。
こんな母を妻にして、父はさぞ幸せだろう。伊丹に引っ越して来てから転勤は無くなったらしいが、代わりに出張が増えた。友達と離れてしまうことが無くなり、由香にとってはうれしかったが、母の手料理を食べる機会が減ったことを父は密かに悲しんでいた。
「由香は一緒にいく?」
「普通に学校だから」
「あら、平日だったわね」
母は、自らお手製のシチューを口にして、満足そうに頬を抑える。
「お土産、買ってきてあげるからね。なにがいいかしら」
なんでもいいよー、とごちりながら、由香はスプーンをシチューへと潜らせる。白いスープの中に憎たらしいものが潜んでいた。由香は、赤色の固形物のそいつを、スプーンの縁で皿の端へと追いやる。
「由香、人参残してるでしょ」
「別に残してないよ」
美香にそう指摘され、息を止めながら、一欠片の人参を口に放り込む。
由香は、嫌いなものは最後に食べる。始めにまずいものを食べてしまうとその後の食事が嫌な気持ちになるからだ。
「昔から、由香は好き嫌い多かったからね」
「もう人参だけだもん」
「嫌なことは、始めに終わらせといた方がいいの」
そう言った美香は、トマトが苦手だった。大皿のサラダを小皿へと自分で盛り付けた彼女は、始めに苦手なトマトを頬張る。
ふふ、とやり取りを見ていた母が笑みをこぼした。
「美香は、由香の世話が好きね」
「世話なんてされてないし、」
口の中に、人参の生臭い匂いが広がる。苦い顔をしながら、由香は無理やり水でそれを飲み込んだ。
「お母さん助かったわ。由香が小さい頃、面倒見てくれてたからね」
「もっと褒めてくれていいよ」
母の隣に座っていた美香が、母の腕にしがみついた。グッ、と母の腕を引き寄て、とろけたような表情を浮かべる。
「お姉ちゃん、いくつになって甘えてるの」
「甘えれる時に、甘えとかないとダメだよ? いつか、甘えれなくなる前にね」
知らない、と由香はもう一欠片の人参を口に放り込む。ごろっ、としたそいつが舌の上を転がっていく。
美香の言うことがどういうことなのか、由香にはその真意が分からない。まるで毛布のように、柔らかいものでくるまれた彼女の表情が、その言葉の重要性を包み隠している気がした。
彼女の言ったその時は、一体いつを指しているのだろうか。
自分が大人になってしまった時なのか、甘えられる側になった時なのか、永遠の別れが訪れる時など由香には想像さえ出来なかった。
ようやく最後の人参を飲み込んだところで、由香の皿にすっと美香の手が伸びた。
「もうひと欠片くらい食べましょうね」
「やだ」
由香は、手の平で皿を覆い隠した。温かい湯気が手のひらに吸い付く。ただそれ以上に、食卓に温もりが満ちていることを由香ははっきりと自覚した。
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