2 ご機嫌
「焼き鳥ください」
奈緒美が、レジ脇のショウケースを指差しながら由香に告げた。
「奈緒美さーん、もうとっくにシフトの時間ですよ」
由香は、店内の時計を指差し侮蔑を込めて目を細める。
「ほら、あの時計5分進んでるやん」
「進んでないし」
そうでしたか? とわざとらしく奈緒美は口端を上げた。由香の冷たい視線などお構いなし、と言うように彼女の真っ黒なポニーテールが揺れる。
「温める?」
「熱めで」
「熱めとかないから」
お代を受け取って、レンジの中に焼き鳥を放り込む。ボタンを押せば、うぉーん、とうねりを上げながらレンジはその図体を震わせた。
「早く準備してくれないと、店長帰っちゃうじゃん」
「アノ人、仕事嫌いやからなー」
奈緒美は、温もった焼き鳥を受け取ると、満足そうに頬張った。美味しそうな肉汁がタレとともに串を伝う。由香は、自分の腹の虫が鳴った気がした。
「それじゃ、豚まんも……」
「早く着替えなさい」
「おぉ怖い怖い」
肩をすくめながら、奈緒美はバックルームへと逃げていった。由香は、イタズラに揺れるポニーテールを見ながら、ため息をつく。どうも、いつもよりテンションが高い気がする。
奈緒美、汐織と三人で一緒に帰るようになったのは、奈緒美が部活を引退したこの夏頃からだ。ただ、度々、奈緒美は一人で帰ってしまうことがある。
今日もまた、昨日に続き、奈緒美は一人で先に帰って行った。なのにここのシフトは由香の方が一時間早く入っている。ここに来るまでの間に何かあったのだろうか。
そんなことを考えつつ、ほのかに焼き鳥の香りが広がる店内の空気を、空いた腹に吸い込んだ。
雨のせいか、客足は少なかった。女心と秋の空とは良く言ったものだ、昨日までの秋晴れが嘘のように、空はどんよりとして強い雨が降っていた。
「おまたせ」
待ち合わせ場所に遅れてやって来た彼女のような口ぶりで、制服に着替えた奈緒美がようやく現れた。スーツ姿の店長も一緒だ。
「お疲れ様です」
店長は、そう由香たちに声を掛けるとそそくさと店をあとにした。
「本当に仕事嫌いだよねアノ人」
自分の声が、嫌味たっぷりになっていることに、由香は気づく。奈緒美は、それを分かってか。あは、と短く笑い声を上げた。
「まぁ、仕事が好きな人なんておらんのちゃう? それに、この店もそこまで忙しくないし、高校生二人に任せても平気なんやろ」
「平気なのかもしれないけど。もう少しやる気を見せてほしいよ」
遅刻してきた奈緒美への怒りは、気がつけば店長へと向けられていた。
「ほら、良く来るOLっぽい人。あんな人が店長だったらいいのに」
「あの人は、特別やろー。仕事バリバリ出来ます、って感じやもんな」
「だよね! 奈緒美もそう思うよね」
興奮気味に同意を求めた由香に、由香にはなれへんよ、と軽くあしらいながら奈緒美が揚げ物のフライヤーに凍ったチキンを落とす。
「そりゃ…… 私にはなれないだろうけどさ、」
なれない、だがそれを人に言われると少し腹が立つ。脳内で小さく弾ける怒りのように、パチパチと油の中でチキンがハネねた。
「随分、ご立腹やね。店長になんか言われたん?」
「立花さん、大学生になってもバイト続けるやろ? だって」
由香は、声を少し低く喉を絞るように声を出した。なんとも間抜けなその声に、悪意のあるものまねやな、と奈緒美は失笑した。
「立花さん、このバイト好きやろ? うちの店としては続けてほしいからぁ、だって」
ものまねは、継続される。やはり随分ご立腹だ、と言いたげに奈緒美は腹を抱えた。由香がこういった具合になるのは珍しく、奈緒美のツボにハマったらしい。
「あの店長に言われると腹が立つよ、だって私に残ってほしいのは、自分が新しいバイト探すのが面倒くさいだけでしょ?」
「そりゃそうかもなぁ」
由香のため息に、奈緒美は肩をすくめる。妙に、ふたりともだんまりしてしまった。店内アナウンスだけが、少し間だけその場を支配する。その間を嫌うように、奈緒美が口を開いた。
「でも続ける気なんやろ」
「そりゃ、他のバイト探すの面倒くさいし」
「一緒やん」
「一緒にしないでよ」
由香は目を細め、怒りを顕にした。奈緒美は臆することはなく、とても柔い表情で返す。
また沈黙が訪れた。新商品の広告が店内に響く。フライヤーのチキンを揚げ終えたことを告げるベルが鳴った。チリチリと音をたて、チキンの芳ばしさが香る。奈緒美が、はーい。と返事をしながらトングを手に、フライヤーに向かった。
やはり今日は、妙にご機嫌だ。バイト前に買い食いをした上に、鼻歌を奏でるポニーテールがゆらゆらと、いつもより軽い弾みで揺れている。
そんなことを思いながら、奈緒美の方をぼーっ、と見つめていると、由香の肩ほどまで伸びたくせっ毛がなびいた。
来店を告げるメロディが鳴り、強い風が入り口から入り込む。横殴りになった雨が、店内の床を濡らした。入り口からすぐのところに立てた『足元注意』の看板がバタリと風に倒される。
開きっぱなしになった自動扉の前で、ワインレッドのレインコートを着た女性が、丁寧にコートに着いた雨粒を払っていた。
「いらっしゃいませ」
奈緒美が、ホットケースにチキンを並べながら声を出した。由香もそれにつられ声を出す。
女性は、レジに立つ由香を見つけると、深く被っていたフードを取り笑顔を浮かべた。いつも煙草を買って行く女性だ。由香も笑顔を浮かべ頭を軽く下げる。
「今日の雨はひどい」
「すごいですもんね」
本当に参った、と言いたげに彼女は肩をすくめる。濡れて少し寒いせいか、体が少し震えていた。ガサガサと動きづらそうにレインコートの中で、カバンに入ったICカードを取り出す。由香は、振り返りいつもの煙草を手に取ってバーコードをスキャンした。
「こんな雨でもお仕事ですか?」
ピピっ、と電子マネーの決済を告げる高い音が鳴る。湿った空気が、妙にその音を重たくした。
「そりゃ、仕事は休めないもの。今から出勤だね」
「ひぇ、今からですか? 帰りかと思ってました」
「あなただって、この時間から働いてるじゃない? 大人は、もっと大変なのよ」
大変なんだ、と口では言いながらも、彼女は平気そうに笑みを浮かべた。全く疲れを感じない。五時丁度に帰ってしまうどこかの店長とは大違いだ。由香が手渡した煙草は、彼女のレインコートのポケットへとしまわれた。
「それより、なんだがこの間より元気ね? もしかしていいことあった?」
イタズラに由香に向けられた表情は、誰かに似ていた。この間の帰り道の奈緒美を思い出す。彼女から目を反らすと、シンクでトレイを洗っているその本人と目が合った。奈緒美にも聞こえていたのか、ニタリと口角が上がる。
同じような表情に挟まれて、あはは、と由香は笑い誤魔化した。それが面白かったのか、奈緒美の方から笑い声が漏れているのが分かった。
「若いっていいね、それじゃありがとう」
振られた手に、つい反応して手を振り返してしまった。しまったと気づき「ありがとうございました」と頭を下げようとした時には、すでに彼女は雨の中へといなくなっていた。
随分と含みのある言い方だった。赤くなってはいなかっただろうか、と由香は自分の頬を手で抑える。
「若いっていいねぇ」
あからさまにからかう口調で、奈緒美が由香の耳元で囁いた。
もう、と声を漏らしながら近づいてきた奈緒美を肘で小突く。ムスッとした表情になったのは、ほんの一瞬だった。
由香は、すぐに肩を落とし、深いため息をついた。
「そんなに私ってわかりやすいかな」
「顔にはすぐでるタイプやな」
奈緒美は何食わぬ顔をする。
「だよね。よく話す人とはいえ、お客さんにすらバレちゃうんだもんね」
「まぁでも、あの人はなんというか、大人やし、」
奈緒美の言いたいことはなんとなくわかった。彼女は、なんというか特別感がある。仕事も出来るだろうし、お洒落で容姿も端麗だ。恋愛についても、妙々たる経験がありそうだ。だから由香の内情を見抜いたんだ、とそう言いたいみたいだ。
「そうなのかな、でも汐織にもバレてたよね……」
「まぁ、汐織は勘が鋭いからな」
奈緒美の言いたいことも分かるが、自分がわかりやすいのも事実な気がした。
「じゃ、奈緒美はどうして分かったの?」
由香の問いかけに、ニタリと奈緒美は口端を上げた。
「私は、由香と付き合い長いからなぁ。もっと色々なこと分かるでぇ」
「なにそれ?」
「由香へのただならぬ愛ゆえやん」
「気持ち悪い」
由香は、顔を引きつらせた。それを見て、奈緒美は愛らしく頬を膨らませる。可愛らしいその表情に、由香は思わず笑みがこぼれた。
「てか、やっぱり奈緒美、今日ご機嫌だね」
「え? なんで?」
「だってそんな可愛い顔するなんて、らしくないじゃん」
「まぁ、そうかもな」
奈緒美は自分が可愛い顔というところに否定することもなく、かすれた声で誤魔化すように目を少し反らした。その虚ろな視線が店先へと向けられる。
緑と青のロゴが刻まれたそのガラス越しに見える街並みは、うっすらと白色の街頭が灯り始めていた。横殴りの雨が街を濡らし、その輪郭をぼやけさしている。奈緒美の表情は、そんなガラスの外の景色のように曖昧なものだった。
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