第92話 クイはクイ

 狙いを定め俺は手と足を同時に塀から離した。一瞬の浮遊感の後俺は重力より重い奈落に引かれストンと落下を始める。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 真っ直ぐ伸ばした足の靴裏に空気を砕く感触が伝わってくる。ここで足を曲げたら失速ひっくり返ってしまう。

俺は空気圧に負けないように踏ん張り、速度を上げてクイ男に迫っていく。

這い上がってくるクイ男に落下する俺、倍々で距離を縮めて迫る俺にクイ男は回避する間が無かった。

付き伸ばした俺の靴底がクイ男の顔面を踏み潰す衝撃に二人共々の落下が始まる。

「俺共々無間地獄の底まで付き合って貰うぜ」

 留まること無く速度を上げて落下していく二人。ここまでは計算通りだが、誤算もあった。

踏み潰したと思っていたクイ男の顔だったが、踏み込んだのはこともあろうに口から飛び出たクイだった。潰れること無くクイが靴底を破って俺に突き刺さる。

「ぐっ」

ドンッとクイが俺の足裏に打ち込まれ、鈍い痛みが体に広がると共に心も犯される。


あそこでああしていれば。

大学受験に失敗しなければ。

告白しておけば良かった。

転職していれば。


なっなんだ、俺の頭の中に後悔の念が入り込んでくる。


ドン、更に打ち込まれるクイ。


子供なんて産ませなければ。

あの時俺がエラーしなければ。

結婚なんかしなければ良かった。

何処で選択を間違ったんだ。


杭が打ち込まれる度に後悔の念が浸食してくる。

クイ男の杭は悔、悔いの結晶。

怒りも悲しみも爆発的に感情を膨らますが、それは洪水のようなもの流れきれば収まる。

だが悔いは違う。洪水が流れた後も深く突き刺さりいつまでも残り心を蝕んでいく。

なるほど、このクイこそが本体。本体に見えた人間体の方は杭を悔を打ち込まれた哀れな犠牲者の抜け殻。

深く悔いが打ち込まれ絶望に染まった時、犠牲者はクイの養分と成り代わる。

このまま心を蝕まわれて次のクイ男になるのか。

「相手が悪かったな」

 俺の心はクイだらけ。

 既に無限に錬成されたクイが俺の心の丘を覆っている。

 悔いを残さないから強い心なんじゃ無い。

 悔いで覆われ悔いで補強され悔いを悔いとも思わなくなった死んだ心。

 悔いを感情で無く選択の誤りとして、ロジカルに判断する心。

「人生の戦術相談なら乗ってやるぜ」

 狂気の笑いにクイの侵入が止まり、ただ絶望の底に落下していく。

「はっは、悔いの深さはお前の力。積み重なったお前自身の悔いの重さで砕け散れ」

 クイ男は必死に塀に手を伸ばし減速しようとするが、加わった俺の悔いの重さがそれを許さない。伸ばした手の皮が剥け、摩擦熱で燃え出そうとも止まらない。

「このまま二人共々流星となって悔の闇に輝くというのも乙なものよ」

 クイ男は体を振って、俺を振り落とそうとするもクイががっつり食い込んでいて離れない。

「くっく、クイってのはな~抜けないもんだぜ」

 俺の嘲笑に怒り気が狂ったのか、突然燃える手を塀から離し自分の首を絞めた。

「何!?」

 ポキッ、クイ男は自分の首ごとクイをへし折りねじ切った。

 流星が割れるように、クイ男の首を足裏にくっつけたままに俺はクイ男の体から離れていく。

「やってくれるぜ。

 恨むなよ、南無三」

 俺は足裏に張り付く頭をもう片方の足で押し抜くように蹴り飛ばした。

 すぽんと杭から抜けてサッカーボールのように飛んでいく見知らぬ男の首を見つつ、俺は杭の刺さった足を塀に叩きつけブレーキとする。

「止まれっーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 クイがガリガリと塀を砕いて減速していく代わりに、クイが傷口を広げ痛みがズキズキと増幅していく。下手すれば俺の足首は使い物にならなくなる。

 後悔するか?

「死ぬよりマシさ、この選択は間違ってない」

 そう判断した時、俺の視界は暗転し気付けば俺は事件現場の道路に大の字に寝転がっていた。

見上げる夜空。

 月は変わらず楚々と輝いていた。

「綺麗だな」

 生きて帰ってこれた。時雨さんにだってまた会える。

 今は帰ってこれたことを素直に感謝しよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る