第10話:ママのいない六月

 マミの母親は六月に亡くなった。


 交通事故だった。

 雨の日の夕方のお買い物の帰り道、ちょっと近道をしようと思って大通りを渡ろうとした時に自動車に跳ねられたのだ。

 跳ねた自動車は逃走、三年経つ今も手がかりはない。マミのママが跳ねられた道には今でも『死亡事件発生。目撃者を探しています……』という立て札が風雨に負けて色あせている。


(もう、三年になるのか……)

 僕は宿題の手を休めるとカレンダーを見つめた。

 半狂乱になるかと思ったマミが妙に静かだったのを今でも覚えている。

 お葬式の時マミは最前列で、顔をしっかり起こして座っていた。泣いているのは周囲の親戚や近所の人ばかり。

 マミも、マミの父親も泣かなかった。

 マミの父親は新聞記者だ。だから臨終には間に合わなかったと後でマミが話してくれた。

 マミの母親は病院に運ばれた後もしばらくは生きていたらしい。マミとも話して、そしてまるでバラが散るように静かに旅立って行った。


 その、命日が今年も巡ってくる。

 僕はクローゼットを開けると、明日の命日に着ていく制服とネクタイを確かめた。


+ + +


 その日は雨だった。


 ポク、ポク、ポク、ポク……


 三年目の法要は寂しかった。

 亡くなった年がお葬式、翌年が一周忌。なんでその翌年が三周忌なのかは僕にも判らなかったが、今年は三周忌の翌年、特に大きな法要ではない。

 今時の法要は椅子席だ。昔はお寺で正座したようだが、今では斎場で静かに行う。

 僕は一番後ろに座ると、坊さんの背中をぼんやりと眺めた。

 マミは黙って正面を見つめている。その隣にはお父さん。

 二人とも痩せ型だ。撫で肩の体型がよく似ている。

 ふと、マミの父親が背後を振り返る。

 マミの父親は末席に座る僕の姿を認めると、ふっと笑った。

 黙って僕に手招きし、マミの隣の席を指差す。

『隣に座れって事かな?』

 少し迷ったが、無視するのはもっと悪い。

 僕は数珠を制服のポケットにしまうと、周りの人に頭を下げながら外側から回ってマミの隣に座った。


 法要の席はまばらだった。

 親戚の人は来ているようだったが、近所の人の姿は少ない。

 ふと、首を巡らせてマミのお父さんの様子を盗み見る。

 マミは、多分お父さん似だ。細い面立ち、尖った鼻がよく似ている。

 そして、大きな瞳と性格は母親譲りだ。

 マミのお母さんは目の大きな綺麗な人だった。遊びにくる子供達にいつでもお菓子を用意してくれている優しい人だった。

 マミは泣かない。

 無表情に座っている。

 でも、泣いていないからなおさらマミの悲しみが胸に堪えた。


 やがて法要が終わった。

 参列者が三々五々散っていく。

 僕はマミと一緒に参列者がいなくなるまで黙って座っていた。

「雄介くん、」

 ふいにマミの向こうからマミのパパが話しかけてきた。

「うちはこれからお墓に行くんだがね、どうだね? 一緒に」

「いいんですか?」

「うん、来て」

 マミがすっと僕の手を握る。

「一緒にお墓、行こう?」

「わかった」


+ + +


 マミのお母さんのお墓は河原の側のお寺の裏にあった。

 小さなお寺の小さなお墓。

 途中お花を買った。お墓参りだから白いお花だろうと思ったが、マミはバラにこだわった。マミのお母さんが好きだった花。マミのお母さんが好きだった色。

 ピンクと黄色のバラの花束を二つ、短めに作ってもらう。

 きっと母なら花束を一つ作ってもらって、その場で二つにわけるだろう。だけど、マミの家にはお母さんがいない。主婦の知恵がない、父親だけの家庭。だからかマミはそういうところが不器用だ。

 お寺でお線香を買って、ついでにライターを借りてお墓に向かう。お寺で貸してくれたライターはお墓参り用の特別製だ。大きな風除けがついていてお線香に着火しやすい様になっている。

「雄介くんはマミのボーイフレンドになったんだってね」

 ふと、マミのお父さんが僕に話しかけた。

 梅雨の小雨が降っている。雨が傘に当たる音で、マミのお父さんの声は少し聞き取りにくい。

 どう答えたらいいのか判らない。

「え、ええ、まあ……」

 曖昧に答える。

「良かったよ」

 黒い傘の下でマミのお父さんが静かに微笑む。

 何が良かったんだろう?


 何が良かったのかわからないまま、僕たちはお墓の前に整列した。

 前にマミとお父さん。

 どうしたらいいのかわからなかったので僕はしゃがんだ二人の後ろに立つ。

 お線香を手向けてお花を飾って、しばらく両手を合わせてから二人は立ち上がった。

「じゃあマミ、行こうか」

 マミのお父さんがマミの肩に手をかける。

 だが、マミは動かなかった。

「…………」

 小さいつぶやき声。

「そうか」

 お父さんは小さく頷いた。

「雄介くん、マミはちょっとママと話がしたいらしい。男同士で待っていよう」

 

 二人でお寺の軒の下に並んで腰掛ける。

 お寺の建物は古く、木材は風雨に枯れて灰色になっていた。

「私はね、新聞記者なんだ。社会部、事件を書くのが私の仕事だ」

 まっすぐ前を向いたまま、マミのお父さんは僕に話しかけた。

「……って、君はもう知っていたか」

 少し照れ臭そうに鼻を掻く。

 柔らかそうな長めの髪の毛、少し痩けた頰。だが顎の線が力強い。メタルフレームの眼鏡をかけたその目はどこか虚空を見つめている。

「……いえ」

「マミの母親が亡くなった時もね、私は新聞社で記事を書いていたよ。その頃起きた凶悪事件の記事。今はWeb入稿があるから、できる限り早く仕上げないといけないんだ。だから、私は交通事故に遭ったと聞いた時もすぐには会社を出なかったんだ」

「…………」

「最初は大丈夫だって話だったんだ。マミとも話をしているし、病院からも大丈夫って言われていた。だから、私は記事を仕上げてから会いに行こうと思っていた」

 ふと、僕はマミのお父さんの肩が落ちている様な気がした。

「だが、容態が急変したんだ。何があったのかは今でも私には判らない。だが、急に意識が混濁して、そのままマミのママは亡くなった」

 無表情なまま、マミの父親は空を見上げた。

「うっかりしたよね、マミのママも、そして私も。マミのママはうっかり亡くなって、私はうっかり最後のチャンスをフイにした」

「…………」

「仕事を終わらせて、スッキリして、それからその日は病院に泊まろう、そう思っていたんだ」

 風が吹いて、小粒の雨が降りかかる。

 雨粒が霧の様に眼鏡を曇らせる。

 その雨は少しずつ集まり、やがて頰を静かに伝った。

 伝った雨粒が顎先に集まり、そして下に滴り落ちる。


 マミのお父さんの目は赤かった。


「マミはそりゃ怒ったよ。怒って怒って、しばらくは口をきいてもくれなくなった。いつの間にかに街の不良と付き合って、家に帰ってくることもなくなった。でも、私にはどうしようもない。私に女の子の気持ちは判らない。だからずっとそのままにしておいたんだ」

 ふと、マミのお父さんが笑顔を見せた。

「それが今年になってからはマミが家に帰ってくる様になったんだ。たまには晩ごはんの支度もしてくれる様になった。……君の、お母さんに教わったと言ってね」

 その時、霧の様な雨の向こうから赤い傘を差したマミがゆっくりと歩いてくるのが見えた。

「きっと、君のおかげだ」


 マミがこちらに歩いてくる。

 俯くでも、泣くでもなく。

 ただ、雨の中を歩いている。


「マミ、話はできたかい?」

 マミのお父さんは優しく訊ねた。

「ん」

 マミが頷く。

 マミの目は父親と同じ様に赤かった。

「そうか……それは良かった。じゃあ、行こうか」

「ん」

「じゃあ雄介くん、マミのことをよろしく頼むよ。ご近所だしね」

 予想に反して、マミのお父さんの声は明るかった。

 マミがそっと父親の手を握る。

「帰りに何か食べていくかい?」

 マミの隣を歩きながらマミのお父さんが僕たちに訊ねる。

「んーん」

 マミは首を横に振った。

「今日は、わたしが晩ごはん作る。カレーの材料買ってあるの。挽肉のカレー。雄介くんも食べていくでしょ?」

 当然の様にマミが言う。

「そうだ雄介くん、そうしたらいい。三人で食べよう」

「じゃあご馳走になろうかな」

 僕は頷いた。

「わたしね、カレーだけは自信があるんだ」

 マミが傘の下でニッコリと笑う。

「カレーはね、ママに小学校の頃に教わったの」

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