アンダーグラン
時雨逅太郎
アンダーグランの三姉妹
「おい、クロレ」
「なんですか、ミュルお姉様」
大量の蒸気が天まで伸びる煉瓦街。その口に趣味のいい煙を燻らせながら、ミュルは鬱陶しそうに言った。
「雨が降るぞ」
私は空を見た。夕焼け時の太陽を覆うように、渦巻くような黒雲が緩慢に流れている。
「ええ、降るでしょうね。それがどうかされましたか」
「違う、降るんだ」
私が傾げた首の筋、点の冷たさが走る。
雨粒だ。雨が降り始めたのだ。
「……降りましたね」
「ああ」
ミュルは苛ついたのか転がっていた石を蹴り飛ばし、舌打ちをした。左手はしきりに腰のベルトをなぞっている。
「……雨はクソだ。ナイフがおかしくなる。そもそもこんなところにも来たくなかった」
それは仕事だから仕方ないでしょう、と言うと、ミュルが食いぎみに分かってる、と応答した。
「だがな、聞いてくれクロレ。私らはこんな身体に生まれたくなかったと嘆くだろ? もう仕方ないと言われたって嘆くだろ? そういうもんなんだクロレ。……だいたいこの煙はなんだ」
「蒸気はエネルギーですよ、お姉様」
「違う違う! なんでここはこんな煙たいんだって聞いてるんだ! うちの屋敷でもこんなイカれた量の煙は出ちゃいない!」
「ここは工場が乱立していると聞きます。そのせいではないでしょうか」
ミュルは私の方に顔も向けず、なにかを考えているようだった。細められた目線は明らかに見えもしない太陽に向けられている。ミュルの視線につられて、私も天を仰いだ。
雲を造り出しているのではないかとも思える蒸気。昼間の仕事の間、太陽の光ですら塞いでいたこの煙をミュルがイカれた、と評するのも分かる。
「今どき蒸気を使うってのも中々なもんさ。今じゃ幾らでもエネルギー源はあるはずだぜ?」
「お忘れですか? ここは貧困街ですよ。あのクソッタレ王族が見放した忌々しい蒸気街」
「分かってるよ。……そのクソッタレ王族から仕事を受けてる殺し屋がここに二人も……おっと」
と、彼女はおもむろに頭を垂れた。
「畜生め。気配はあったんだ」
ミュルは口に咥えていた煙草を忌々しそうに投げ捨てる。宙を舞う煙草の火はすでに消えていた。
「銃弾は避けられる。だが雨はいつまで経っても避けられねえ。小指ほどの的を守りゃいい。だが避けられねえ」
どうやら雨の弾丸に大事な煙草を撃ち抜かれたらしく、ミュルは雨に濡れながらさらに不機嫌な顔をした。そろそろ雨が強くなってきたので、私は持ってきた傘を差す。
「あ、入れてくれクロレ。傘は知っての通りひ酷く撃ち抜かれてさ」
そう言いながら、穴だらけの傘を広げる。奇跡的に骨部分は無事な傘だが、肝心要の布部分が硝煙反応にまみれていた。正真正銘、弾丸に撃ち抜かれた跡だ。血液反応も幾らか確認できる。
「アイリスがせっかく用意してくれた傘をこんなにして……」
「普通にやっても面白くないじゃんか。その場にあるものと相棒のこいつとで暴れまわるのが楽しいんだろ。それに、クロレだってその傘撃ち抜いただろ」
楽しそうにナイフを叩くミュルを見て呆れた。
「いいですかお姉様。私は戦略的に有意義な立ち回りを、お姉様は娯楽の立ち回りを。つまり必要か不必要かです。あの場面で傘を用いた撹乱は悪手と判断します」
気配は感じていたんでしょう、と聞くと、穴だらけの傘を肩に預けて、にぃっと笑った。
「ああ。……外から掃射も乙なもんだが味気ないだろ? ドラマを演出してやったんだよ」
「悲劇作家にでもなりますか、お姉様」
ミュルはその言葉を聞くと大笑いした。
「おいおい、ありゃ喜劇だろ。王宮専任の舞台作家も裸足で逃げ出す最高傑作さ」
興奮気味に語るミュル。いつも仕事の後はこうだ。殺しが好きなのか、戦いが好きなのか、その気持ちは全く理解できない。
「そうですか」
私の反応が薄かったからだろう、ミュルがわざとらしく肩を竦めた。
「お前は殺しに感情が無さすぎる。ああ、暗殺となるとお前、普段のアイリスより無表情だぞ。いや、少し肩肘に力が入りすぎてるな。もっとリラックスしようぜ。どうせ私らは殺ししかやってられねえんだ」
私は顔をしかめた。長い時間を彼女と共にしてきたが、殺しに感情など湧くものだろうか、理解ができなかった。私はああ、と声を漏らした。
「ミュルお姉様と一緒にしないでくださいませ。私には紅茶を、朝焼けの街を、楽しむ心を持っておりますので」
軽口を叩いたつもりだった。しかし、私は肌で明らかな空気の変化を感じた。はっとしてミュルを見て、固まる。ミュルの表情からは軽薄さが既に失せ、その鋭い目が私を貫いていた。人間の核心とも言える心を封じられ、私は凍りついたように動けなくなった。力が入らない。
しかしミュルはやがて目を伏せると、ふと微笑んだ。その時ばかりは女神像の造形にも似た優しさを感じたが、同時に物悲しさというやつも連想させた。そして、その表情はみるみるといつもの獰猛さを取り戻し始め、ふっといつもの笑いを溢した。
「なんだよ、冷たいな。……あ、でもいい感じだこの傘。なかなか情緒深いじゃないか」
ミュルが軽口を吐いたことに私は安心した。
「……今度は芸術家気取りですか? なら傘入れなくていいですね」
「じょ……冗談だよ、クロレ。入れてくれよ、な? いいだろ? このままだと風邪を引いちまう」
ナイフで複数人の兵士を相手にする化物が何を言っているのか。私は反射的にそう思ったが、ひどく弱った過去の長女の姿が私の眼裏で静かにフラッシュバックした。窓から少しの冷気が漏れれば咳き込み、白日が差す灼熱に昏倒してしまうような、白髪紅眼の可憐な少女。
ナイフを己が牙だとでも言わんように獰猛な笑みを浮かべる彼女にも風邪を引く余地はありそうだ。私は黙って、傘をミュルに傾けた。
「お、話が分かるね」
「お姉様も風邪には勝てないようでしたから」
この蒸気街を抜けた先、アイリスが車を用意してくれている。アイリスには十八時に迎えに来るように言ったが、懐中時計を確認すると、まだ十六時だった。ミュルが私の手元を覗き込んで笑う。
「掃射してたらアフタヌーンティーに間に合ったかもしれないな?」
「ご冗談を。今日もアイリスは一人で仕事をしてきたはずですから」
我が家でアフタヌーンティーを用意してくれるのはいつもアイリスだ。ミュルは例外として私に用意が出来ないわけではない。ただ、一仕事終えてからわざわざ自分で茶を淹れるのも面倒であり、比較的仕事の少ないアイリスに全てを投げているのだ。たまに、彼女がメイドのように感じるときがあるのはこのせいだろう。
「狙撃か?」
「ええ、一人で」
「またか」
呆れた奴だ、とミュルはにやつきながら言う。そして、蒸気街の外へと躍り出ながら言った。
「私もクロレも、さすがにアイリスに狙われたらやばいかもな?」
「お戯れを」
ミュルの声を、可憐な声が制した。我が家の三女、一仕事終えたあと故の硝煙反応が見られるアイリスは傘を差してそこに立っていた。
「クロレお姉様のように常人であれば話は違いますが、ミュルお姉様に関しては気配を感じるでしょう。そこに”ある”、というのに避けてしまうというのは厄介で御座います。……さ、お車へどうぞ」
「気張ってなきゃ死ぬぜ、アイリスの弾は。現に“ある”場所に撃ち込んでくるんだからよ。……サンキュー」
アイリスは狙撃の名手だ。それは例え森羅万象の気配を感じることの出来るミュルでも気を抜けば死神に連れられる程正確な弾丸だ。結果的にアイリスが狙撃を外したことはないし、外したとしてそれは全て陽動だ。
しかし、それら自体は正直妙なことでもなんでもない。
問題なのは、狙撃をするまでの動きだ。アイリスは単独だというのに観測もせず、現場に到着して即座に銃を構えるとそこでじっと動かなくなる。その銃口の直線上に標的は吸い寄せられるようにやってくるのだ。
アイリスに手品のような狙撃をどうやってやっているのかと聞いたとき、彼女はこう言った。
「いいえ、クロレお姉様。私がやっているのは手品では御座いません。自然の道理、とでも申しましょうか、人はそこに“ある”ようにしかないのです。私はそれに従っているだけなのです」
彼女の言うことを総評すれば、未来予知のように人の動きを完全に把握しているのだった。しかし、未来予知だと言うと、アイリスは決まってそれを否定する。
未来予知、と言えば、ミュルもそれを否定する。
ミュルは銃などが溢れ変える時代にナイフとそこら辺にあるもの――それがどんなガラクタであろうとも利用するのだが――で標的を制圧する。その動きもまるで相手がどう動くか分かった上でのものに見えて仕方がない。彼女曰く万物には“気配”が存在していて、何がどう動くのか分かるらしい。ただ、彼女が雨から煙草を守れなかった事を考えれば、分かるのは一秒前にも満たない直前であると推測が出来る。
これを未来予知というとミュルは馬鹿にしたように笑うし、アイリスと似たものだと言うと「違う違う!」と叫ばれるのだ。
ミュルは車内に入って、中をキョロキョロと見渡した。
「おいおいアイリス、新しい傘はないのか? 愛しのお姉様が濡れちまうぞ?」
アイリスは淡々と返答しながらキーを回す。
「それに、必要ありません。ミュルお姉様、雨は止みます」
「そりゃいつかは止むさ」
にやつきながらからかうミュルだったが、アイリスはバックミラーをちらりと見ただけで、澄ました顔で答えた。
「いえ、止むのです」
きっと、屋敷に着くまでには止むのだろう。
今朝、私たちに傘を持たせてくれたのはアイリスだった。天気など神のみぞ知るものだと思われているが、アイリスもまたその天気になることを知っている。曰く、そうならざるを得ない、という事らしい。また“ある”とか“ない”とかの話だ。
そういえば、アイリスがミュルとの違いを説明するときにこう言っていたのだ。
「ミュルお姉様は”気配”を感じられるのです。一方で私はそうなることを知っているだけなのです。ミクロとマクロとでも言えば理解の程は容易いかと思われます」
……いや、分からないが。しかし、実際にミュルとアイリスの差は本能か知識かであることは二人の立ち振舞いを比べてよく分かる。ミュルが敵の喉を噛み千切る狼だとすれば、アイリスは座して獲物の死を待つ蛇だ。
このような姉妹と比べると私などは凡人に等しいのだが、この点に関しても性格が真反対の彼女らは揃って否定をする。私の目は硝煙反応と血液反応をどんな形であれ捉える。それがいつ付いたものか分かるだけでなく、硝煙も血液も拭って処理したところで其処にあったことははっきり分かるのだ。言ってしまえばただそれだけのことだが、これを姉妹は超能力と呼ぶ。私にとってはこの姉妹の方が超能力なのだが、どうやらこれも質が違うらしい。
なんにせよ接敵した時、あまり役立たないこの力は弱者を刈るに過ぎない。それも私たちと同じ穴の弱者を。共食いという言葉が過ったが、その程度のムジナと自らを同一視するほど私は卑屈ではない。
アイリスが口を開く。
「御二人とも、帰りましたらお仕事の確認をお願いします。一件、厄介な仕事が入りました」
「厄介?」
「国からです」
「お得意様じゃねえか。何が厄介だと言うんだ?」
アイリスは少しの間を置いて、
「嫌な予感がいたします」
憂鬱を着込んだ声で言った。ミュルが眉間に皺を寄せる。
「……嫌な予感?」
「ええ。これは飽くまでも予感。ですのでなんとも言えませんが……」
「予感ねえ……」
ミュルが珍しく、緩い唇を閉じて、真剣な表情を浮かべていた。
「予感ってのは……大事だ。事にアイリス、お前のものともなればな。この世界のあるがままが見えているお前の予感は馬鹿にできないよ」
そして、私はミュルの口から滅多に聞いたことのない台詞を聞いた。
「手を引くか?」
私は彼女の言葉に驚いた。彼女は殺しの依頼に関しては分別なく突っ込んでいくような人間であるが、この時は、明らかに自分の意思で立ち止まっていた。
しかし、彼女に浮かんだのは怯えなどではない。ただ眼の奥に鈍重な、それでいて錆びようもない決意が宿っているのを感じた。
アイリスは彼女の反応に驚かなかった。ただその代わりに軽くかぶりを振った。
「いえ、それはできません。私たちが手を引く時は、殺しから手を引く時になります。私たちは殺すために生まれて参りました。今さら斯様な生き方は出来ませんし……」
バックミラー越しにアイリスと目が合った。
「殺すことから逃げることもできません」
彼女は、私に向けて言ったのだろうか。
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