第十五夜 二番目の個室に逃げ込め

 誰もいない深夜の旧校舎内――。由香利ゆかりはカレシのタクヤと肝試しに来ていた。


「ねえ、タクヤ。この旧校舎にまつわる怖い噂話のことはもちろん知ってるよね?」


 二階の廊下を歩きながら、隣のタクヤに確認の質問を投げ掛けてみた。容姿端麗でスポーツも得意なタクヤは、学校では一ニを争うほどのモテ男だった。


「ああ、知ってるよ。深夜に現れるバケモノ女の話だろう?」


 タクヤはそんな噂話など信じていないのか、怖がる素振りを見せない。むしろ、真夜中に由香利と二人きりでいられることで興奮しているようにも見える。


「うん、そのバケモノの話――」


 深夜、旧校舎内で恋人たちが楽しんでいると、体中に切り傷がある女のバケモノが現れて、殺さてしまうという噂話である。昔、この旧校舎でカノジョの浮気を疑った男子生徒が、包丁でカノジョを滅多刺しにして殺して、その死体を隠すためにバラバラに切断してトイレに流すという事件が起きた。その殺された少女が、バケモノ女と化したというのが噂話の出所である。

 

 もっとも実際のところは、老朽化して危険な旧校舎に子供たちを近付かせないために、大人たちが知恵を絞って作り出したウソだと言われている。タクヤもきっとそう思って怖がっていないのだろう。


「それじゃ、そのバケモノ女から逃げる方法は知っている?」


 由香利はタクヤの顔を見つめた。


「いや、それは聞いたことがないけどなあ」


 タクヤが首を傾げる。


「えーとね、もしもバケモノ女に見付かったら、急いで女子トイレに逃げ込むの」


「女子トイレ?」


「うん、そうだよ。バケモノ女は女子トイレで身体をバラバラに切断されたから、その過去のトラウマから女子トイレでは襲ってこないんだって」


「そういうことか。それじゃ、おれたちも何かあったら急いで女子トイレに逃げ込むか。なんだったら、そのまま個室で楽しんでもいいかもな」


 卑猥なことを想像しているのが丸分かりのタクヤだった。


「でもね、そのときにひとつだけ気を付けないといけないことがあるの」


 由香利はバケモノ女の話に戻した。


「そのバケモノ女は『二番目』の個室でバラバラにされたから、そこだけは絶対に入っちゃダメなの。バケモノ女は『二番目』の個室だけには、深い恨みがあるから入ってくるんだって!」


「ああ、分かったよ。『二番目』の個室だけは入らないように注意するよ。でも、よくそんな細かいことまで知ってるんだな?」


「うん、親友のいずみがこういう心霊系の話に詳しいから、それでいろいろと聞いていてね」


「あっ、そうなんだ……」

 

 タクヤは露骨に視線を明後日の方に向けた。


「まあ、とにかくさ、もしもそのバケモノ女が出てきたら、そのときはおれが由香利を守るから安心しろよ」


 なんだか取って付けたように言葉を続けるタクヤだった。


「うん、あたしもタクヤのことを信じているからね」


 そういって今夜一番のとびきりの笑顔をタクヤに向けた。


「ああ、任せておけって。もっとも、おれはバケモノ自体がいるとは信じちゃいない――」


 そのとき、タクヤが話す言葉に重なるようして――。



 キャヘベベヘヘ……。



 薄気味悪い笑い声が廊下に響き渡っていった。


「今の変な声って……もしかして……?」


 由香利はタクヤの左手をギュっと握り締めた。タクヤも強く握り返してくる。


「おい、ウソだろう……? だって、あのバケモノの話は大人が勝手に作った……」


 タクヤの話の途中で、廊下に白い影が現れた。そのまま廊下を一直線に突き進んでくる。


「タクヤ、逃げよう!」


「お、お、おう……。逃げるぞ!」


 タクヤが痛いくらい強く由香利の右手を引っ張るようにして走り出した。由香利もされるがままに、タクヤについていく。


 二人が向かったのは、もちろん、廊下の先にある女子トイレだった。


「個室に逃げ込むぞ!」


 タクヤが先に入る。個室は全部で四つあった。最初の個室のドアノブに手をやるなり、タクヤが舌打ちをした。


「くそっ! このドア、壊れてやがる! ドアが開かねえよ!」


 タクヤは最初の個室を諦めたのか、すぐに女子トイレの奥に進んでいく。二番目の個室を避けて、三番目の個室のドアノブに飛びつく。今度は簡単にドアノブが回り、ドアが開く。


 そのとき――。


「きゃあああっ!」


 女子トイレの床で滑ってしまった由香利は大きな悲鳴をあげた。


「由香利、あのバケモノが女子トイレの中に入ってきたぞ! 早くこっちに――」


 そこまで言ったところで、タクヤの言葉が不意に途切れた。すぐにバタンッというドアを乱暴に閉める音が続いた。タクヤは由香利を見捨てて、自分だけ安全地帯の個室に隠れてしまったのだ。



 ――――――――――――――――



 タクヤは個室の中で震えていた。大人たちが作り出したウソだと思っていた噂話が、まさか本当だったとは思いもしなかった。

  

 由香利は大丈夫だろうか?  


 一番目の個室は開かなかった。二番目の個室は危険で入れない。そして三番目の個室は自分だけが今入っている。残っているのは四番目の個室だけだが、ドアが開いた音はまだ聞こえてこない。


 もしかして、由香利はあのバケモノに……。いや、ちゃんと四番目の個室に逃げ込んでいるはずさ……。


 そんな風に無理やりにでも思い込もうとしていると、突然、個室のドアが激しく乱打された。


「ひぃっいいいいっ!」

 

 喉の奥から悲鳴が飛び出た。でも、ここは安全地帯のはずである。この個室にいるかぎりは大丈夫なはず――だったのだが。



 ゴギュイン!


 

 個室のドアの鍵がいきなり弾け飛んだ。守るべきドアが開いた。タクヤの目の前に、手に包丁を持った不気味な姿の女が立っていた。


「や、や、やめ……やめて……くれよ……なあ、やめてく――うぎゅびゅごっ!」


 タクヤの声は自らの呻き声にとって代わった。女に包丁で胸を抉られたのである。 


 大量に出血するタクヤの姿を、包丁を手にした女は黙って見つめていた。その女の背後から、別の顔がひょいと覗いた。


 タクヤの顔に驚愕が走る。


 ――――――――――――――――


「あーあ、やっぱりこういう結果になっちゃったか」


 バケモノ女の背後から姿を見せた由香利は、床にだらしなく横たわるタクヤのことを汚いものでも見るような目で見つめた。


「泉、もうその変装を取って、タクヤに顔を見せていいんじゃない?」


 バケモノ女のコスプレの下から現れたのは、由香利の親友である泉だった。


「ねえ、タクヤ。あたしたち、知ってたんだよ、タクヤがウソをついて、あたしと泉に二股掛けていたってことをね。だから今夜、タクヤの気持ちを試すことにしたの。もしもタクヤがあたしのことをしっかり守ってくれたら、三人でしっかり話し合って、あたしはタクヤとやり直してもいいって考えていたんだよ。でも、そうはならなかったけどね」


 由香利は泉からタクヤの血がべったりと付いた包丁を受け取った。


「…………」


 浅い呼吸を繰り返しているタクヤが物問いたげな視線を向けてきた。


「ああ、この包丁のこと? だって、泉だけによごれ役を押し付けるわけにはいかないでしょ。ほら、あたしが話したこと覚えてる? バケモノ女は女子トイレでバラバラにされたんだよ。だから、タクヤのこともちゃんとバラバラにしないと話が繋がらないでしょ?」


 包丁を手にした由香利が個室に入っていくと、タクヤが嫌々をするように力なく首を左右に振った。


「そんなに嫌がらないでよ。さっきまでは恋人同士だったんだからさ。それにあたしはちゃんとタクヤに逃げる方法を教えたでしょ? 二番目の個室だけは危険だよって。それなのにタクヤは危険な二番目の個室に逃げ込んじゃうんだもん」


 タクヤが最後の気力を降り縛るようにして目で何かを訴えてきた。


「えっ? 二番目の個室に逃げたって言いたいの? 残念ね。あたしが言ったのは廊下から二番目の個室じゃなくて、女子トイレの『奥から二番目』の個室のことを言ったんだよ!」


「…………!」


 死期が迫ったタクヤの顔が絶望色に染まる。


「さあ、それじゃ、最後の仕上げをしないとね!」


 由香利はタクヤの身体に迷うことなく包丁をずぶりと突き刺した。

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