あらゆるものが別のものにすり変わってしまう

 早朝に降る雨はいつもより澄んでいるような気がした。

 朝の五時前なので、街の中を歩いている人は見あたらない。

 私はまだ見ぬ自分の足跡を辿るように、雨空の下を一人で歩いた。


 住宅街を抜けて広場に出ると、樹の石像の枝にコウモリがぶら下がっているのが見えた。


「ちゃんと時間通りに来たわね」


 コウモリが翼をパタパタさせる。


「眠いけど、来てあげたよ」


 私はまぶたをゴシゴシする。


「ったく、あんたのためなんだからね」

「私だけじゃなくて、街のためでもあるんだよ」

「はいはい」


 コウモリは枝から飛び立つと、私の赤い傘の下に入って頭の上に着地する。


「それじゃあ、さっさと行くわよ」


 私の頭の上に寝そべって偉そうに言った。

 まさかとは思うが、風の色に着くまでずっと頭の上にいるつもりなのだろうか。


「まずはどこへ向かえばいいの?」


 私は頭上に向かって尋ねた。


「どこってそりゃあ、街の国境に決まってるでしょ。とりあえず街を出ないと何も始まらないし。あんたも国境の行き方くらいは分かるんでしょ?」


 実際に行ったことはないけど、街路をひたすら歩けば国境に辿り着くことくらいは知っている。だけど、この広場からだと一番近いところでも歩いて三十分以上はかかってしまう。


「まあ、ゆっくり行くとしますか」


 私はそう言って歩き出す。


「キビキビ歩きなさいよ」


 コウモリは頭の上から偉そうに言う。


 私たちは北の方角へ向かって歩き出した。



 街の外側へ近づくにつれて、立ち並ぶ民家もまばらになっていく。やはり誰ともすれ違うことはない。

 うっすらと霧がかかってきたら国境はもう目の前だ。私は期待に胸を膨らませた。


「国境が見えてきたわよ」


 コウモリの言う通り、白い霧の奥に人の背丈と同じくらいのたくさんの杭と、その間に張られたロープが左右にどこまでも続いているのが見えてきた。みすぼらしいがあれが街の国境を示しているらしい。

 街路と交差するところには大きな門が建っていて、門の脇には見張りの人がいるちょっとした小屋のようなものがあった。


 見張りと言っても、彼らの仕事は侵入者を捕まえることではなく、風の色からやってくる馬車の入国を記録することだ。

 馬車は風の色の商品を積んで、一日に何台も門を通る。帰るときには何も積まず、馬車の中は空っぽだ。


 ちなみに、雨の街の水は専用の地下水路を使って輸出されている。

 水路は雨の街の巨大浄水場から風の色まで直接繋がっているが、ちょうど地下水路と国境が交差するところに頑丈な柵が幾重にも設置されていて、地下水路から国境を越えることはできないらしい。


 ともあれ、外からこの街に侵入してくる人なんていないし、街から外へ出ていこうとする人もいない。この私を除いては。


 見張り小屋には窓口があり、この時間でも門番の人がいるのが見えた。

 どうやら二十四時間交代で誰かしら窓口に座っているらしい。日中しか人は通らないのにご苦労なことだ。


 私はおそるおそる窓口を覗きこんだ。

 小屋の中では、制服に身を包んだ初老の門番が古めかしい本を読んでいた。

 壁には金属製の槍やら兜やら鎧やらがかけられている。

 使われているようにはとても見えないが、いざ侵入者が現れたら、あの槍で串刺しにしてしまうのだろうか。


「あの、ここ通ってもいいですか?」


 何と言えばいいのか分からなかったけど、とりあえず訊いてみた。

 すると、門番は読んでいた本を閉じてこちらを見た。


「ああ、風の色へ行くっていう」

「はい、そうです」

「じゃあ、この紙に時間と名前を書いて」


 門番が、出入りを記録する用紙とペンをさしだしたので、私は傘を閉じて門番に言われた通りに記入した。

 今気がついたが、雨の量はとても少なくなっていて、傘を閉じても体が濡れることはほとんどなかった。


「あんた、もうその傘あげちゃいなさいよ」

「なんで?」

「もう、ここから先はそんなもの必要ないから」


 そうなのか。

 私は門番の顔に目をやった。


「ああ。この門を抜けてしばらく歩けば、雨は一粒たりとも落ちてこない。どのくらいの期間、風の色に行くんだい?」

「さあ。食べ物の問題を解決したいので、なんとも」

「そうか。まあいい。とりあえず、その傘はここで預かってあげよう」

「いいんですか?」

「かまわないよ。お嬢さんがまた帰ってきたときに返してあげるから」

「ありがとうございます」


 私はペコリと頭を下げて、赤い傘を門番に手渡した。


「良い傘だ」


 門番は私の傘をしげしげと眺めながら言った。


「それにしても」


 優しい皺が刻まれた顔で私を見た。


「風の色に行くというのは、一体どんな気分なんだい?」


 どんな気分。どんな気分?

 今から行くことに対してどんな気分と言われても、適切な答えは生まれてこない。


「不安だらけですけど、でもちょっと楽しみかもしれません」


 私は嘘偽りない気持ちを口に出した。それは、心の中にある小さな灯りのような想いだった。


「そうか、楽しみかい。僕はお嬢さんが羨ましいよ」

「どうしてですか?」


 私の問いに門番は口元を緩ませる。


「それは、風の色に行けば分かるよ」


 きっと今、私は腑に落ちないという表情をしているのだろう。門番は話を切り上げようとした。


「さあ、そろそろ行ってきなさい」

「私の傘、お願いしますね。お気に入りなんです」


 今着ているパーカーやスカートと同じくらいに。


「そうか、お気に入りか。それは大事にしなくちゃなあ」


 門番は笑った。そして、ひと笑いすると「だが……」と言い淀んだ。


「もしかしたら、お嬢さんが帰ってくる頃にはかもしれないよ」


 私はそれを聞いて、頭が真っ白になった。


「え……」


 雨がやむ?

 そんなことはありえるのだろうか。

 もしそうなったら、私のやることが無駄になるどころではなくなる。

 雨の街と風の色の貿易体制は破綻し、風の色から輸入している様々な生活必需品が手に入らなくなる。


「そんなはずは、ありません」


 私は根拠もなく異議を申し立てた。


「ああ、そうだね」


 門番はあっさり認めた。


「でもね、あらゆるものは時間が経つとまるで全く別のものにすり変わってしまう。そのことを伝えたかったんだよ」

「……分かりました」


 正直に言うと、門番の意図を完全に理解できたわけではないが、私は頷いてみせた。



 私は門を通り過ぎると、白い霧に覆われた荒野を数メートル歩いてみた。


「わけの分からないジジイだったわね」


 コウモリが私の頭の上で、もぞもぞしながら言った。


「そういうこと言わないの」


 私は霧の荒野を見渡した。

 地面には赤茶色の土と石しかないが、所々に大きな岩が転がっていて、大きいものだと私の身長と同じくらいある。

 霧は濃密で、街の方へ振り返っても門の形はおぼろげにしか見えない。このまま歩いて行けば視界が完全に霧に奪われ、自分がどこにいるのかも分からなくなってしまうだろう。


 それに、もう雨も降っていなかった。

 外なのに雨が降っていないという事実は、ここが今まで私がいた世界とは異なるということを告げていた。


「どうやって、風の色へ行くんだろう」


 私はつぶやいた。

 この先は、命の存在しない死の世界のように思えた。霧は私の小さな声すらも吸いこんでいく。


「ここから、私たちの大冒険が始まるんだね」


 私は頭の上のコウモリに言った。


「何言ってんの? そんなの始まらないわよ」

「え?」


 思わず声を上げると、コウモリは私の頭の上から飛び立ち、小さな足で私の腕をつかんだ。


「どうやって風の色へ行くかって? こうやって行くのよ!」


 コウモリがそう言って翼をはためかせると、私の体が宙に浮かび上がった。コウモリが引っ張り上げているわけではなく、水底から浮かぶときみたいに体が不思議な力で持ち上げられているような感覚だった。


「ちょっと、コウモリさん!」


 足をバタつかせながら叫ぶ。

 白い霧の海に溺れているような感じだ。


「風の色は。あんたたちはそれを知ることができないだけなのよ」


 次の瞬間、コウモリは私を引っ張りながら凄まじい速さで霧の中へ突っこんでいった。

 それはコウモリがいつも飛んでいる速さとは比べものにならないほどだ。


「きゃあああっ」


 あまりの怖さに絶叫した。

 視界は真っ白に霧に覆われ何も見えないが、空気の圧力を体全体で受け、息をするのも苦しい。

 私は白色の霧の中で風になっていた。

 

 そして、その恐ろしいほどの速さのために私の意識は失われた。

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