その7 出産直前

 通された病室で、妻はすでに出産用の服に着替え、ベッドで横になっていた。彼女の隣には、もう赤ん坊用のベッドが準備してあった。


「久しぶり、だね」


 私が部屋に入ると、彼女は子供を守ろうと無意識に両手でお腹を隠し、私に背を向けた。もう、彼女は母親になっている。あの時、車の中にいた時からそうだった。


 私がずっと目を背けていただけだ。


「出産の書類に署名してきたよ、今。赤ん坊を渡すのは拒否した」

「えっ」


 そういうと妻はやっと手をほどき、私に体を向けてくれた。最後に言い争いをした日よりも、お腹が膨らんでいる。


 彼女の警戒が解けた瞬間、部屋の空気が緩んだ。警私はやっとベッドのそばの椅子に腰掛ることができた。


「いいの?」

「……どうせ、僕が何と言ったって、君は産むんだろ? だったら、育てるしかないじゃないか。赤ん坊を路頭に迷わせるわけにいかないだろ」


 私がそう言って微笑むと、妻もフッ笑みを見せてくれた。


「あなたって、本当、理屈っぽい」

「それは、生まれつきだ。それぐらいは大目に見てくれよ」

「五年しか生きられないのよ?」

「ああ」

「死んだら、きっと、悲しいわよ」

「……だろうね。考えただけで、涙が堪えられなくなる」


 妻もそれ以上は言葉にしなかった。


 沈黙がしばらく、部屋に流れた。


「でも、しょうがないじゃないか」


 私は喉を雑巾絞りするように、言葉をひねり出した。

 妻がその声に顔を上げた。


「しょうがないんだよ。死ぬとわかってるなら、尚更。一人ぼっちになんてさせられないだろ?」


 私はいつの間にか、妻のお腹の上で彼女の手を握っていた。


「愛してるんだから、君とお腹の子供を……どうしようもないよ」


 私も妻もお腹の子供の上で涙を流していた。


 初めて


「え?」


 妻が囁くように言った言葉。


「初めて言われた。あなたに『愛してる』なんて」


 そう言うと妻は微笑みを私に返してくれた。


「ただ、子供を産む前に、条件がある」

「条件?」

「条件というよりは、提案だ」

「何?」

「運命を楽しむための提案だ」


 僕の出した条件に妻は頷いてくれた。


 しばらくすると看護師さんが妻の様子を見にやってきた。


 私は部屋を出て、医者にその事をお願いに向かった。


 それからの時間はあっという間に流れ、分娩室から産声が聞こえた頃には夜が明けて、朝になっていた。

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