サベージ・ブラッド ー因果応報、あるいは逃れられぬ血の行方ー

長谷川昏

1.男とその妹、それに双子、殺人鬼に、あとコインランドリー

1.九条坂 その1ー①

『ねぇ久吾きゅうご、会いたいの。今晩家に来て』


 電話越しの声は甘く扇情的に響くが、そのままに受け取るのは愚かな行為でしかない。

 目に見えるものだけが真実のはずがない。裏を読み、時には騙された振りをし、時には隙を突いて特攻する。たまには愚かな真似をするのもいいが、それは今ではない。今現在のこれに関しては、それにすら当てはまらない範疇外のたわむれ事でしかなかった。


「はぁ? 会いに来い? なぜ俺がお前の欲望の都合に合わせなきゃならない?」

『だって前に来たのは、もう二週間も前になるよ。そろそろ会いに来てもいい頃だと思うけど』

「あのな、いい頃だとか二週間も経つとか、それは単にお前が我慢できないだけだろ? 今夜は仕事だ。これを切ったらもう電話はしてくるな。なんなら今日は井出いでの爺さんにでもお相手をお願いしてみろよ」

『えー、それなんか、ひどくない?』

「それじゃ、じゃあな」

『えっ、ちょっと待ってよ、久吾ー』


 声は続いていたが、一方的に電話を切る。

 狭い車内、隣の運転席には今の会話を聞いていたような聞いてなかったような、澄ました表情がある。碌でもない私的部分を垣間見せたことに特に思うものはないが、胸を張れるものでもない。現在が殺人事件の張り込み中であることを思えば、今の会話全てをなかったことにするのが吉だった。


「あー、今のってなんだかとっても冷たいですよねぇ、九条坂くじょうさかさん」

 しかし隣からはそんな声が届く。

 フロントガラスを見つめたままの声は咎めているようにも聞こえるが、大方が冷やかしの意であるのは分かっているので、彼、九条坂久吾は適当に返事をした。


「そうか? 今のが一番正しいあしらい方だと俺は思うがな」

「そんなことはないと思いますよー。今みたいに無下にするのはどうにももったいないですよ、だってケイラさん、僕より若いのに既に店も持ってて、その上すんごい美人じゃないですかー。おっぱいだってぼいーんとでかくて、ほら、お尻もこう、ばーん、て」


 身振り手振りで告げられる身も蓋もない言葉に、久吾はとりあえず苦笑する。

 確かに電話の相手、蔓橋つるはしケイラは若くして東京新帝都の市街地で『よい』というバーを経営する辣腕の持ち主ではある。容姿に関してもその言葉に間違いはないが、彼女のことをと言い切っていいのか、それに関してはこの先も永遠にためらいが残る事柄でもある。


櫻木さくらぎ、お前にはそう見えてるかもしれないが、どう見えてもこう見えても、ケイラは美女の皮を被ったただの怪物だよ。甘い顔をすると、すぐに頭からばりばりと食われる。骨も残さずにな」

「へーぇ、怖いんですねぇ」

「怖いんだよ」


 久吾は答えると車内を見回した。年代物のセダンは相応の体格を持つ男二人がいるせいで、身動きせずとも暑苦しく感じる。バックシートには半日分のゴミや弁当の空き箱が放置され、多少臭う。初秋でもまだ陽は長く、気温も高い。時に汗ばむ体臭も気にならないこともなく、先の見えないのこの張り込み作業が収穫もない長期戦にならないことを心の端で願うだけだった。


「でもそう言われても、僕の目からはお二人はうまくいってるように見えますよ」

「今の話の後にそう言い退けられるお前の方に、俺はすごさを感じるよ。それと一応言っておくが、ケイラとはお前が思ってるような仲じゃない」

「えー、それホントですかぁ? かなりいい感じに見えてますけどねー。なんだかほら、長年連れ添った夫婦みたくて」

「お前それ……ケイラの前では言わない方がいい」

「えっ? 今のは僕としては褒め言葉のつもりなんですけど」


「そんなことよりお前の方はどうなんだ? 少し前にぼやいてたろ、付き合い始めたばかりの彼女と会う暇がないとか、それで喧嘩ばかりしてるとか」

「ああ、そのことですか……」

「修復は無駄な足掻きだったって感じか?」


「ええ、そんなところですかね……でも今回のが駄目になったのは僕の仕事のせいって言うより、どっちかっていうと僕の家庭環境のせいですかね……この前彼女にようやく言ったんですよ。六人兄弟の一番上で、末弟の扶養義務があと十五年あるんですって。そしたら僕がこれまで見た中でも、最速の勢いで引かれました……」

「そっか、そりゃまぁ残念だったな」

「ま、確かに残念なことではありますが、人生色々ですよ。そんなものです」

「ふーん、相変わらず達観してるんだな、お前」


 久吾は爽やかに笑む隣の相手に言葉を返した。

 半年前に相棒になった櫻木十志じゅうしは、一年半前に警官になったばかりの新人だった。

 身体のあまり丈夫でない両親と六人の子供がいる彼の家は決して裕福ではなかったが、頭の出来が抜きん出ていた。厳正な審査を難なくパスした彼は返済なしの奨学金を得て、昨年国立大を主席で卒業していた。その経歴を持ってすれば育ちがどうだろうと、この国の中枢にも関わる重要な職を得られたはずだった。けれども誰もが想像する輝かしい将来を蹴ってまで彼が選んだのは、戦前からの忌み仕事感が今も抜けない警察官の職だった。


 街の下層内でもあぶれてしまった連中が集まる組織で、彼の立ち位置はやや異質状態にある。署内には実情を伴わない序列や男尊女卑が未だ横行し、表面では無頼を気取っても高学歴劣等感を抱き続けるせこい輩が多い。その辺りの事情は久吾自身もそちら寄りにいたからこそ、自信を持ってそう言える。

 やっかみや排他などが蔓延る中でも飄々と構える新人は、我慢強く粘り強く正義感も申し分なく、しかし場に応じた引き際も知っていた。だからこそ自分の相棒という立場をあてがわれたのだろうと、久吾は理解していた。些か軽すぎる口調や爽やかな笑みの裏に何かを感じないでもないが、とりあえずは十八才で警官になって十年、今までで一番使える相棒であることは間違いなかった。


「ん? どうかしましたか? 九条坂さん」

「いや別に。ただお前が単なる太鼓持ちのクソ学歴野郎じゃないってことを改めて実感しただけだよ」

「なんですかそれ……褒めてるんですか? いや、貶してますよね?」

「いいや、褒めてる上に愛でてるよ」

「なんだか余計に嘘臭くなりました……」

 隣では溜息が漏れたが、それは直後に霧散した。


「九条坂さん、来たようです」

 隣からは硬い声が届き、車内には緊迫が充満する。

 相棒が示した先には、若い男女の姿がある。

 男は派手なシャツを着たチンピラ風、女は白の膝丈ワンピースを纏っている。

 男は歩みの遅い女の手を取り、半ば引き摺るように近づいてくる。

 二人が向かおうとしているのは男の生家だった。

 周囲には戦前の趣を残す家々が連なり、どれも四十年以上は経過しているため一様に古びている。既に男の両親には事情を告げ、退去してもらっている。警官が訪れても何ら驚きのなかった無表情さが印象的だったが、特に珍しいことでもなかった。


 男女までの距離は約十メートル。

 久吾は櫻木と車を降り、二人に歩み寄った。

 目を離さずに迫りながらも、逃走の選択をさせないためにも遠目にバッジを見せ、来訪の意図を顕す。

 しかし男はこちらを見た途端に女を突き飛ばし、一人で逃げ出していた。素性を知った後に逃走すれば発砲も可能なことは承知のはずだが、時に無謀な賭けに出る者は皆無ではなかった。

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