第105話 晋陽放棄
司馬師はやる事なす事が全て裏目になっているので苛立ちを隠そうとせず、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。
しかし参謀役の賈逵だけは司馬師も拒絶しなかったので将兵の声も必然的に集まっていた。
「賈逵様、我々はどうなるのですか?糧秣を切り詰めるにも限度があります。」
「度重なる食料徴収で城内の民も殺気立っております。これ以上抑える事は困難です。」
「蜀軍と戦う以前に晋陽の民と戦う事になってしまいます。」
「将軍には貴公らの声は必ず伝える。将軍も現状打開の策を練っているので少しだけ待って貰いたい。」
賈逵は将兵を落ち着かせて持ち場に帰らせたが、その会話で将兵の間に厭戦気分が広がりつつある事を察知したので急いで司馬師の元に向かった。
「賈逵が参りました。入らせて頂きます。」
「何かあったのか?」
賈逵の目に入ったのは憔悴しきった司馬師の姿だった。
司馬師は旧魏軍の攻撃を抑える事に手を取られて苛ついていたところに蜀軍が現れた。
将兵を鼓舞して迎撃に向かったものの完全に抑え込まれた上に旧魏軍から背後を襲われそうになり慌てて退却した。
それが原因となり将兵だけでなく城内の民にも動揺が拡がり、司馬師の能力を疑問視する者も現れるようになった。
「晋陽の放棄を提案致します。」
「それは認められん。ここを抜かれると冀州が動揺する事ぐらい分からないのか?」
「分かっているからこそ申し上げているのです。」
晋陽が落ちれば冀州西部が蜀軍の脅威にさらされる事になる。
蜀軍の猛攻に晒されている上党はいつ陥落してもおかしく、蜀軍の動向次第で司馬師自身も包囲網の内部に取り残される危険性が極めて高くなっていた。
賈逵は旧魏軍さえ突破出来れば冀州に逃げ込む事が出来る今が最後の好機だと考えていた。
「将軍は晋にとって欠く事が許されない存在です。意地を通して無駄死するつもりですか?」
「無駄死だと?」
「将軍が冀州を守り切れば晋陽はいつでも取り返す事が出来ます。将軍が居なくなれば誰が冀州を守るのですか?」
「幽州の公孫淵が居る…。」
「面従腹背を地で行くような奴を信用するなど自滅行為になりますぞ。」
賈逵の説得を受けて司馬師も折れざるを得なくなった。
司馬師は想定外の事が起きているので動揺して冷静な判断が出来なくなっていただけだと賈逵は見ていた。
説得に応じた事から徐々に冷静さを取り戻しているので賈逵の見立ては当たっていた。
「脱出するなら早いに越した事はありません。」
「それなら明日の夜に決行する。」
司馬師は賈逵の進言を聞き入れて、脱出する事を決めて準備に取り掛かった。
◇◇◇◇◇
「門を開け。」
「賈逵、鉅鹿を任せる。」
「承知致しました。」
司馬師と賈逵は軍を二手に分けて、それぞれ中山と鉅鹿に向かう事にした。
それぞれの守将が心許ない事からそうせざるを得なかったのが理由である。
東側には旧魏軍が居るので蜀軍も申し訳程度の兵力しか置いていなかった。
そのお陰で晋軍は蜀軍の包囲網を破り東に向かって逃走した。
「敵の数が少ないように思えるが、詮索している暇は無い。とにかく冀州に入らなければ。」
司馬師は頭に浮かんでいた疑問を振り払うように馬を東に走らせた。
◇◇◇◇◇
晋陽が遥か後方となり、冀州との境が目前に迫っていた。
もう一つ峠を越えれば晋の勢力圏に入り一息つけると思った瞬間、司馬師の肩に何かが刺さり激痛が走った。
「ぐっ!」
肩には矢が刺さっていた。
速度を緩めて後ろを振り返ると自軍の兵士が次々と馬から落ちたり、倒れたりする様が目に入った。
「ち、張郃!」
司馬師が視線を上に上げると凄まじい形相で弓を引き絞る張郃の顔が見えた。
「死ね!」
張郃は司馬師と目が合った瞬間、構えていた矢を放った。
「ひいっ!」
司馬師は情けない声と共に身を屈めた。
矢はその上を通り過ぎて林の中に消えていった。
張郃は司馬師の首を狙っていたので身を屈めなければ即死であった。
司馬師は身体を起こすと馬の腹に蹴りを入れて全速力でその場から逃げて行った。
◇◇◇◇◇
「張郃、追えば我々が手痛い目に遭うぞ。」
「ちっ、運の良い奴め。」
「窮鼠臍を噛むと申します。徐晃将軍の言葉に従うべきです。」
張郃は司馬師を追おうとしたが徐晃に肩を掴まれ、陳羣に諌められた。
「分かっている。司馬師の姿を見て怒りが…。」
「誰だってそうだ。司馬一族に対する恨みは一朝一夕に晴らせるものではない。」
徐晃の言葉を聞いて張郃は冷静になり、大きく息を吐くと構えていた弓を下ろした。
「確かにその通りだな。」
「ここは冷静になって司馬師が逃げた先を突き止めましょう。」
二人は陳羣の助言に従い、周囲に物見を放って晋軍の動きを探りつつ、西部に陣取る蜀軍へ晋軍逃亡の報せを送った。
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