緑の手
くろかわ
緑の手
「珍しい症状だよ」
白衣の男は言う。
「とても、珍しい」
男は主治医で、無精髭をさすりながら左腕をじっと眺めている。
確かに、珍しい花だ。綺麗な濃い黄色の花。支えるのは蔦のような枝。それらが肘と手首の中間から指先にかけて巻き付き、葉は楚々と緑を添えている。美しいけれど、見たことのない花だった。確かに、珍しい。
「通常ね、この病気は口腔や鼻腔、眼底をはじめとした粘膜部分に植物に酷似した腫瘍が発生するんだけど」
「……怪我はしてなかったと思います」
「そう。だから珍しい」
こうして、白一色の真新しい部屋の中で、美しい花との余生が始まった。
「何か欲しいものはある?」
昨日と同じ時間に同じ男性が主治医という同じ役割を被って入ってきた。
ここは病院というよりも研究施設らしく、僕の先生もあまり医者らしくない。着崩したシャツに前留めを閉めずに羽織った白衣。無精髭は生やしたままだ。
「荷物の中にタブレットありませんでした?」
「やけに殺風景だと思ったら……今、手続きさせるからちょっと待ってくれ」
先生は慌てて端末を操作し始める。僕は他に見るものもやることも無いので、左手を伸ばし、掌を開いて手の甲を眺める。正確には、そこに咲く花を見つめる。電灯に、天井に、更にその先にある空間に手を伸ばす。光りに翳す。薄く緑と濃く黄色が、どこか懐かしさを感じさせる煌めきを奏でた。
「午後には届けてもらえるってさ」
「ありがとうございます」
「あ、でも、SNSに治験の内容書いちゃだめだからね」
「はい、勿論」
規約にあったものだ。企業間競争の道具。世にも珍しい、人体実験を許諾した被験者。見返りは入院と治療そのもの。結果の保証無し。
「その、写真は上げても大丈夫ですか?」
「……腫瘍の?」
「花の」
うーん、と天井を見上げる先生。
「ま、大丈夫でしょう。もしストップしてって言ったらすぐやめてもらうことになるけど、それでもいい?」
「はい」
良かった。
残念ながら、届けられたタブレットに触れたのは翌日になってからだった。午後からは目まぐるしい検査の嵐で、このまま風に吹かれて花も落ちてしまうのではないかと不安になったくらいだ。
左腕の発症ということもあって、心臓に到達するまでに約半年。脊椎や神経、左脳の機能を一部奪う可能性も示唆された。それ以上は悪化よりも前に死ぬだろう、とのことだった。
利き手は右だ。動かなくなるまで、時間はある。
「具合はどう?」
ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら先生が部屋に入って来た。もうこんな時間か。
「綺麗ですよ。とても」
「……なんの話?」
目の高さで伸ばしていた花を下ろし、タブレットに写った描きかけの花を保存する。
「花って、切り取れないんですか?」
耳からイヤホンを外しながら、こちらの出方を伺う先生に尋ねる。
「切除ねぇ。あんまりおすすめしないよ?」
椅子に座り、何かを思い出すように視線を外す先生。
「そうなんですか」
「切っても治らないんだよねぇ。右脚に花が咲いた人がさ、転移の前に脳以外を
「みっしりですか」
花が。
「そう。腫瘍がみっしり。すごい匂いでさ……って、ごめんごめん、こんな話するもんじゃないね」
いやいやと笑いながら手を横に振る先生。
「いえ。興味あります」
「えぇ……本当に?」
「どんな形だったんですか?」
「どんな……えーっと。ちっちゃい花弁状腫瘍がたくさん密集してたね。きのこの傘みたいな形に」
「色は?」
「赤? 桃色? そういう感じ」
真上に視線を向け、思索思案。
「それ、資料って残ってますか?」
「あるけど……」
小さく首を傾げる無精髭の四十路男性。
「結構グロいよ?」
「見てみたいです」
先生は、うーんと唸り声をあげて天井を呷り、
「ま、いいか。明日持ってくるよ」
「ありがとうございます」
立ち上がった先生は人差し指を立て、
「ドビュッシー?」
「はい」
「先生はベートーベン派」
「だと思いました」
納得のいく左腕の花を描くのに一ヶ月ほど要した。ゴッホの気持ちが解る気がする。同じ花の違う絵。ならこの花はひまわりだろうか。ひまわりになるかどうかはまだ判らない。できたらいいな、と考えながら、何度目になるか数えてすらいない花の絵を完成させた。
「そういえばさ」
いつも通りの時間。切り出すのはいつも先生。病状に変化無し。体調は至って平常。ただ左腕に綺麗な花が咲いている。
窓の外を眺めていた僕は反応がやや遅れた。そろそろクリスマスの時期だろうか。灰色の街並みに明るいイルミネーションが灯って、どことなく歌舞伎の濃い化粧を思い出す。
「はい」
「クルオリン化は考えてみた?」
「首を縦に振ったら、先生は貴重な献体を失う羽目になりませんか」
なるけどさ、と鼻頭を指で掻いている。
「君、若いんだしさ。治験で結構良いお金出るし、やれないこともないんじゃない? なんなら百年くらいローン組んでさ」
「僕は僕のままでしょう。クルオリンは僕と同じ脳の別人ですよ。先生は何故?」
「あー。俺ね、弾かれたの。社会不適合」
「薬物依存?」
「よくわかったね」
「父親と同じ匂いがします。煙草ですよね」
「健康万歳」
先生は肩をすくめて溜息をついた。
「匂いで判るなら、聞いた理由は何?」
「クルオリンになりたいのかどうか、確認したかったんです」
「どうして」
「スワンプマンと自我についての見解は?」
「痛いところを突く」
再び、嘆息。
「でもさ、自我って自己保存を望んで活動しないか?」
「利益ではありませんか?」
「その大前提に保存がある、と思うんだけど」
「今年、何回晴れました?」
一瞬、沈黙。少なくとも僕は生まれてから晴天を見た記憶がない。
「目前の利益を最大化しようとしうた時、将来的な利益が減少する可能性に目を瞑れてしまう。俺たちは人間である前にホモサピエンスだからね」
「クルオリンの僕は、左腕の花をもう描かないと思うんです」
唐突に以前の話題を始めた僕を、先生はじっと見つめる。
僕の左腕は傍目には以前と変わりなく見える。しかし、年が明けてから左の掌はきちんと開かなくなった。曖昧な指先の爪と、虚空以外の何かを掴んでいるかのような五指と目を合わせる。そこに咲くのは色濃い黄色の艶やかな花。
「どうして。資料があれば描けるんじゃないかな」
「クルオリンとホモサピエンスの一番の違いは、生と死を宿しているかどうか、だと思うんです」
「一番の違いなのに二つあるよ」
「同じものですよ」
ふむ、と先生。足を組み替え、腕を組む。
「その花の絵を描く、描けるって、そんなに大きな利益なのか?」
「えぇ」
頷く。
「とても。むしろ、描けなくなる、描かなくなるのが不利益と言ってもいいかもしれません」
「解らないな」
「春の前に死ぬ僕にしか描けないんです。でも」
「……でも?」
「でも、花の無い僕にはきっと、この絵以外のなにかが描ける」
「それを、目指しちゃいけない理由は?」
「ありませんよ。けど僕はこの花を描きたい。だからクルオリンにはなりません」
先生は、大きく息を一つ吐いた。
「体調はどうだい?」
先生の声に反応して、僕は体を起こす。右側だけの視界でタブレットを探し、起動する。
『いつも通りです』
「そう。そりゃよかった」
右腕一本で体を起こし、背伸び。曲がらなくなった左肘に咲き誇る美しい花に、思わず笑みがこぼれる。
「……治験、来週いっぱいで終わりって話は聞いた?」
『死ぬまで経過観察せずに終わるんですか?』
「死にかけは数年前からたくさん見られたから。それに、芸術家は今時優遇されるからね」
『ここからは自由時間ですね』
好きな絵を好きだけ描ける。今までと大差は無いが、一日中自分のために時間を使えるようになったわけだ。
「つまり、君はもう匙を投げられたんだけど。あんまり悲しそうには見えないね」
『はい』
今日は何の花を描こうか。資料はたくさんある。この悩みを抱える時間は、人生で二番目に幸福な時間だ。
「……ネットワークにたくさん君の絵が出回ってる。そして、芸術家はクルオリン化の免除額が大きい。大したローンも組まずに君は好きな絵を無限に描き続けられるようになる。脳に根が張り始めたら許可は降りないよ。今が最後の機会だ。どうする?」
どうする?
どうする、と問われても。
こんな美しいものがあるのに、それを棄てるだなんて。
『僕には、そんなことはできません』
大きく、息を吐く先生。
「判った。君の考えは全く解らないけど、君の判断は尊重する」
『ありがとうございます』
「色々忙しくなるから今日で最後だ。だから、その」
『先生』
「君の……なんだい? 君から話し出すなんて。珍しい」
『ドビュッシーは、好きになれそうですか?』
「多分、永遠に無理だよ」
僕らの会話はそれでお終いになった。
今日は、あの紫陽花を描こう。
片目になってから遠近感が失われたが、もともと趣味で始めた絵だ。技術的に特筆すべき点は何もない。そんなことは些細な問題だった。一番困るのは首が回らなくなったこと。金銭面ではなく、物理的に。
右肩が凝る。それもそうだ。薬指と親指で絵筆を握って、タブレットに描いているのだから。
画面を凝視。左腕を視界に収める。再び画面と睨めっこを始め、拙い筆を走らせる。
時計のアラームが鳴る。正午だ。少し前なら先生が来ていたが、今はもう誰もこない。自動配給の食事が運ばれてくるだけだ。
丁度いい。一休みしよう。
背伸びをする。左腕を掲げ、手のひらを、青いはずの空に黄色い花を透かし、
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