第63話 ニコは、少女をエミと名付けた

 地下へと続く薄暗い道を、露払いのメリヤスがわずかにいらだちながら降りていく。

 いらだちの正体は分かっている。

 彼に続く二人の狼の亜人と人間とが、すっかり満身創痍で走ることもままならないからだ。彼らのペースに合わせてしまえば、いつオーインクに追いつかれるか分かったものではない。それと同時に、先の現場を思えば二人を差し置いて一人外へ逃げた方がまだしも生きられたかもしれないと頭の片隅で考えてしまう、そんな自分自身の浅ましさが、メリヤスをいらだたせているのだった。

「早く」

 自然とそんな言葉が口をつく。

 だからと言って、傷だらけなどという言葉では形容できないほどに傷を負った二人が、急かされるままに動けるはずもない。

「大丈夫だ、メリヤス」

 大きく肩で息をしながら、ムヌーグが言った。アーチ状の天井に響く銀髪の女狼の声は、その弱々しい姿に比べて、しかし力強さがあった。

「モルーギが食い止める。そんな簡単に追手は来られまいよ」

 地下遺跡に向かう薄暗い洞窟道は、互いの表情を見せるにはあまりに暗かった。アーチ状の天井のそこここにぼんやりと光る燈灯は弱々しく、足元をわずかに知らせるほどの役割しかない。

 力強い声色だけが、ムヌーグの表情を想像させる。しかしメリヤスには、その声色こそが彼女の虚勢であるようにしか思えなかった。

 それだけではない。

 これはムヌーグも気づいているものだとメリヤスは確信しているが、彼らを追いかけるように、逃げてきた道程を駆けてくる小さな足音が、遠くから聞こえてくるのだった。

「それじゃあこの足音は?」

 いらだちが慇懃な羊の亜人を饒舌にさせる。

「誰かが追いかけてきているこの足音は何だというのです」

「……あの女の子だよ」

 答えたのはニコだった。

 その体をムヌーグと寄せ合い、互いに互いの支えとするようにひっついて歩く少年は、確信をもって答えた。

「もし足音が聞こえるとしたら、じいさんか、女の子しかあり得ない。……ムヌーグなら、もう匂いで分かるんじゃない?」

「……ああ、その通りだ。これは人間の女の子の匂いだ」

 風向きが、屋敷から地下遺跡へと向かっている関係上、そのことはムヌーグが誰よりも早くに分かっていた。

 モルーギは人間の少女を逃がして、自分一人残ったのである。

「いいか、メリヤス。モルーギは本気だ。だから私たちは、確実に、一歩ずつ前へ進むことだけを考えればいいんだ」

 虚勢というよりも、まるで自分に言い聞かせているようなムヌーグの口ぶりに、メリヤスはそれ以上言い返すこともできなかった。

 ややあって、人間の女の子が滑り落ちるように彼ら三人に合流した。

 初めは彼らの少し後ろをおっかなびっくり歩いてついて来ていたが、ニコが呼んで女の子を合流させた。その方が守りやすくなる、とムヌーグも賛成した。

「ねえ、名前をつけてあげようよ」

 ニコのあまりに暢気な提案に、亜人の二人は口をつぐんだ。「勝手にしな」とムヌーグはぶっきらぼうに言い、メリヤスは沈黙を答えとした。

「じゃあ、君の名前は……エミ」

 ムヌーグをニコと二人で介助する女の子は、エミと命名されて、目をぱちくりさせた。

「エミ……」

「笑顔、っていう意味。……ずっと前の、僕が旅をしていたころに教えてもらった言葉だよ」

「……旅暮らしねえ」

 名付けられたエミは、自分の名前をうわ言のようにつぶやき、その名前の由来を知ったムヌーグは、どこか気もそぞろに、人間二人に支えられながら歩く。

 エミの介助のおかげでムヌーグの歩調はだいぶ速くなり、いらだちも収まったメリヤスは、その洞窟道の突き当りに到着して、振り向き告げた。

「さあ、到着しました。ここが地下遺跡への入口ですよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る