第44話 逃げるメリヤスを、立ち塞ぐ者がいた

 まぶたにちらつく星の瞬きを払いながら、次々とオーインクたちが正気を取り戻す。踏んづけた仲間たちの反応はすでになく、口から垂れ流される吐瀉物の異臭が鼻を刺す。

 ふいに、一人のオーインクが、正面から頭をむんずと掴まれた。

「失礼」

 次の瞬間には、みぞおちに爪先を埋め込まれるようにして、何者かがその体を駆け上がった。みぞおち、頭、そして後頭部を蹴られて、そのオーインクは前のめりに倒れる。体が仲間の吐瀉物まみれになると、みぞおちの激痛とともにそのオーインクも嘔吐を禁じ得なかった。

 何者かは、駆け上がったオーインクの体に見向きもせず、彼らの頭を飛び石のようにひょいひょいと駆け抜ける。身を屈めて、片方にニコを抱え込んでのその様子は、岩場の急斜面を軽々と飛び回る様であった。

 オーインクの群れを飛び退けて、軽やかに着地するメリヤスは、後方の罵詈雑言に見向きもせず、その場を駆けだした。

「ひゅうっ」

 額に汗がにじむ。

 燕尾服の裾がオーインクたち誰かの指に引っかかれば、あるいは指でなくとも何か持っていた得物に引っかかってしまえば、あっという間にバランスを崩していたことだろう。そうでなくとも、あの場にはメリヤスが仕込んだ毒物が漂っている。呼吸もままならない状態で賭けに出るには危険すぎた。

 もっとも、賭けには勝利した。今はただ逃げるだけだった。

「出口に仲間が控えていませんように……!」

 中折れの階段を跳躍二つで飛び降りて、執事室の前を通り過ぎる。開け放たれた室内に、置きっぱなしにしたはずの巾着型のリュックサックが無くなっているのを、メリヤスは目の端に捉えた。

 唇を引き絞る。

 先ほどのオーインクたちの誰かがリュックサックを調べて持ち去ったのだ、あるいは目の端に捉えた執事室の様子は見間違いだったのだ、などという気休めの思考を振り払う。

 別の仲間が、出口に待っている。

 メリヤスは懐に手をやる。

 三本目の小瓶。

 小瓶はこれで最後だった。モルーギ特製の調剤は、覿面な効果を発揮するが、調合が難しく量が作れない。貴重な物資を使うこともあって、おいそれと使うこともできない。

 それを今回の件で既に二本も使ってしまった。できれば三本目は残しておきたいと願いつつ、出口の前に立つ。

「よお」

 そこには、ニコを追いかけ回っていた、大柄のオーインクがいた。

「ロ=ノキ様」

 ニコを小脇に抱えて、警戒に腰を低くした状態のメリヤスに向かって、ロ=ノキと呼ばれたオーインクは、その屋敷の大扉よりも背の高い得物を投槍のように投げつけた。

 ブオン、と風を切る音がして、メリヤスの顔の横、わずか数センチメートルをかすめた鉄棍が、屋敷の漆喰壁に突き刺さった。

「テメエ!オーインクに拾われた恩をアダで返そうってんのか!!!」

 地団駄一つ。屋敷の合板床が足跡型にひしゃげる。

 足跡から亀裂が走る瞬間、地団駄は地響きとなってメリヤスのバランスを崩した。

 そのわずかな隙を、ロ=ノキが見逃すはずもなく。

「オラァ!」

 ポケットから何かを掴むと、燕尾服の青年に向かって乱雑に投げつけた。

 バケツをひっくり返したような大雨の音が鳴る。オーインクの大男が投げつけたのは、大豆や向日葵などの種子であった。

 ロ=ノキの膂力で投げれば、そんなものでも散弾銃に近い威力が出る。もっとも、弾の大きさを考えれば貫通力は高くない。ただし、貫通しないだけの大きさがあるということでもある。

「ぐっ……!」

 小瓶が割れることを懸念したメリヤスは、体を丸める。頭に当たる種子は、そのもじゃもじゃの髪で多少衝撃も和らいだが、燕尾服に包まれた体は、ほとんど無防備に近い。

 そして、しこたま投げられた種子は、当然小脇に抱えていたニコの尻や太ももにも当たった。

「痛ーッ!?」

 気絶から一転目を覚ましたニコが小脇で暴れる前に、メリヤスはそれを地面に落とした。

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