間宮【給糧艦】

MAMIYA【Food Supply Ship】




起工日 大正11年/1922年10月25日

進水日 大正12年/1923年10月26日

竣工日 大正13年/1924年7月15日

退役日(沈没)昭和19年/1944年12月21日(屋久島沖)


建造 川崎造船所

基準排水量 15,820t

全長 150.93m

全幅 18.59m

最大速度 14.0ノット

馬力 10,000馬力


装備一覧

大正13年/1924年(竣工時)

主砲 50口径14cm単装砲 2基2門

備砲 40口径7.6cm単装高角砲 2基2門

缶・主機 ロ号艦本式缶 石炭8基

直立式3気筒3段式レシプロエンジン 2基2軸

補給物資

重油2,100t

石炭1,500t

真水830t

18,000人3週間分の食料





【洋上のレストラン 本土の味をお届けします 間宮】


大正9年/1920年、日本は「八八艦隊計画」をまとめあげます。

「長門型戦艦」や「天城型巡洋戦艦」などの建造計画案の中には、当然この戦艦を基軸とした艦隊を編成するための艦、また給油艦などの補助艦艇も含まれました。

その給油艦として、「能登呂型給油艦」の建造が計画されており、その予算も無事通過しました。


しかし日本はもはや近海用の艦隊ではなく、遠洋用の艦隊の編成をしなければならず、当初なら考えることのなかった問題に直面していることに気が付きます。

それは「食料」です。

近海の場合は、例えば輸送艦で艦隊に食料を届けたり、単純に日持ちのする食料を積んでおいたりと対応ができますが、遠征となりますと数ヶ月単位で本土から離れることになります。

当然そうなると食料は現地調達になりますが、果たしてそこで胃袋を満たしてくれる食材や料理が手に入るのか、全くの未知数でした。


そこで海軍は「能登呂型給油艦」で申請した予算を、そのまま「給糧艦」という新種別に割り当てることにしました。

本土から遠く離れた戦地に赴いている多くの兵士たちに、懐かしい本土の新鮮な味を届ける艦。

それが【給糧艦 間宮】です。


「給糧艦」として求められたのは、とにかく大量の食料を新鮮に届け、かつ兵士たちを満足させることができる料理が提供できる設備。

その実態は、想像を遥かに上回る壮大なものでした。


まずは積載できる食材。

兵士18,000人の3週間分の食料を積み込むことができました。

巨大冷蔵庫・冷凍庫を完備し、そこには肉・魚・野菜がたっぷり収納されていました。

また肉に関しては、生きた牛や豚をそのまま載せて、艦内で食料に加工できるように屠殺精肉設備まで用意されています。


続いて加工。

料理はもちろんながら、【間宮】で有名なのはやっぱりお菓子でしょう。

まんじゅうや羊羹だけでなく、洋菓子のアイスクリームやラムネを大量に作ることができました。

他にも豆腐やこんにゃくを製造することもでき、当然ながら各料理に合わせた多くのキッチンが完備されていました。

その菓子・料理職人も本土から選りすぐった職人ばかり。

彼らは軍属となっており、軍直轄の料理人でした。

特に【間宮】で作られた「間宮羊羹」は大人気で、【間宮】の姿が見えた時は各艦で「間宮羊羹」の激しい争奪戦が繰り広げられました。


このように食を扱う【間宮】は、衛生面にも特に配慮され、真水をふんだんに使って毎日のお風呂と洗濯も必ず行われたそうです。

他の船ならそうそう風呂に入ることができず、できても海水を使うなどで真水は極力使用しなかったので、ずいぶんな違いがあります。


他にも床屋、クリーニング屋があり、士官室はとても広いためパーティーが開催されたこともあり、酒保も充実、船の中で多くの団欒、憩いを感じることができる存在でした。

海軍の誰もが、【間宮】だけは知っているという、超有名な船でした。


これが、【間宮】の表の顔です。





【洋上の監視艦 艦内の通信を調査します 間宮】


とにかく大きく、各所に細かな区切りがされて役割分担が明確だった【間宮】。

食料倉庫や冷蔵庫など、様々な料理に関する設備がある一方で、【間宮】にはもう一つの重要な任務がありました。


【間宮】は軍艦ではありませんので、そこまでスケジュールがタイトではありません。

しかし軍艦ではない船でここまで大型のものはあまりありません。

加えて同型艦・同じ役割を持つ船もおらず、オンリーワンの存在でした。

この特徴を活かして、【間宮】には大型の通信設備が搭載されていました。


この通信設備は敵艦の通信を傍受するのではなく、帝国海軍での通信のやり取りを監視するためのものでした。

【間宮】の通信質では各艦で行われている通信がどんどん蓄積され、例えば不適切な発言や、通信の無駄遣いの監視、また通信使の技量を調べるために通信速度を測量するなど、通信監視艦としての重要任務を担っていました。

ここで得た情報は、例えば褒章、例えば罰則、また再訓練などの重要な指標となり、いきなり呼び出されて叱られるということもままあったようです。


このため、【間宮】に乗艦する艦長は通信使としての能力が非常に優れた人が選ばれていました。

通常特務艦の艦長は軍艦の艦長を退いた者が任されるのですが、【間宮】だけは表の顔と裏の顔がともに特別だったため、艦長の指名も特別でした。


他にも簡易ながら医療設備を備えていたり、配給船を吊り上げたりする際に使用するデリックを2基搭載、水上機を分解して輸送するなど、特務艦としては異例の多目的艦となっていました。

【間宮】は兵士の士気に多大な影響をもたらす存在となっていたため、海軍も【間宮】が沈没することだけは避けるべく、護衛は殊更厳重にされたそうです。





【連合艦隊のアイドル 海中の獅子の一撃に没す】


大正10年/1921年10月、日本は「八八艦隊計画」に則って【土佐型戦艦 加賀】の進水が行われました。

しかし翌月に「ワシントン海軍軍縮会議」が開催され、これによって各国の保有する戦力艦艇に制限が設けられた「ワシントン海軍軍縮条約」が締結されます。

この結果、「八八艦隊計画」で計画されていた多くの戦艦が廃艦となってしまい、【加賀】もまた完成を待たずに解体されることが決まってしまいました。


時同じくして、新艦の給糧艦に【間宮】という名前が与えられます。

そしてこの【間宮】には、動力の他に料理関係で大変多くの動力を必要としますので、ロ号艦本式ボイラーが8缶も搭載されることになりました。

うち4つが廃艦となる【加賀】より、残り4つは建造予定だった【天城型巡洋戦艦 愛宕】で使われることになっていた缶が融通されることになります。


【間宮】の建造は順調に進んでいました。

ところが肝心の缶が【加賀】から届きません。

結局大正12年/1923年6月の進水予定には、この缶不足が原因で間に合わず、予定は延期されてしまいました。


さらに、9月には関東大震災が突如日本列島を襲います。

建造地は神戸だったとは言え、一切の物流が一時停止してしまいます。

ようやく物流に復旧の兆しが見えたかと思えば、今度は【加賀】が急遽空母へ改造されることになりました。

これは、関東大震災によって当初空母へ改造予定だった【天城】が大破してしまい、とても改造することができなくなったためでした。

【加賀】が延命されることになると、【加賀】次第だった【間宮】の缶は入手することができません。

仕方なくその代わりに、大破の末に解体となってしまった【天城】のものを使うことになり、結局【間宮】には【天城】で搭載されていた缶が流用されることになりました。

この紆余曲折があったため、竣工は予定より1年遅れとなってしまいます。


昭和16年/1941年12月5日、太平洋戦争開戦の直前に2隻目の給糧艦【伊良湖】が竣工。

この時までの15年間、【間宮】はひたすら食料補給のために動き回っていました。

そのため、他の艦では予備役に下げられて総点検などをする期間があるのですが、【間宮】はそのような休息の一時が殆どなかったといいます。


昭和18年/1943年10月には父島沖で【ガトー級潜水艦 セロ】の雷撃を受けて損傷。

【潮】と【五十鈴】に護衛されて日本へ帰投し、修理を行いました。

昭和19年/1944年5月には東シナ海で【サーゴ級潜水艦 スピアフィッシュ】の雷撃を受けて再び損傷しています。


また昭和19年/1944年4月には、マリアナ諸島への松輸送の一員として多くの輸送船とともに東京湾を出港しています。

【間宮】は輸送船計28隻と護衛艦10隻という、松輸送最大の「東松4号船団」に属し、パラオへ向かいました。

この船団は2隻の輸送船が沈没してしまいましたが、多くの成果を上げることができました。


過酷で危険な南方海域への輸送を繰り返していた【間宮】ですが、昭和19年/1944年12月20日、ついに生涯を閉じることになってしまいます。

サイゴンからマニラへと航行中、つい1ヶ月前に【金剛】と【浦風】を屠った【バラオ級潜水艦 シーライオン】が次の標的として狙ったのがこの【間宮】でした。

護衛(海防艦のようです)もいる中、【シーライオン】の発射した6本の魚雷はうち4発が【間宮】に直撃。

船体が大きかったため、被害は甚大だったものの【間宮】はこの被雷では沈没しませんでした。


しかし急遽哨戒活動を行っていた護衛艦の警戒をかいくぐった【シーライオン】は、2時間半息を潜めたあと、未だ浮き続けている【間宮】の息の根を止めようと、再び3本の魚雷を発射。

うち2本が再び【間宮】を襲い、ついに【間宮】は沈没していきました。

いくら南方とは言え、12月の海は寒く、急激に体温が奪われていった乗員たちは多くがそのまま海の中へ沈んでいき、例え救助されたとしても、そこで落ちてしまった体力が回復することなく亡くなってしまいます。

【間宮】乗員で生存者はたった6名。

日本のために日夜戦い続けた多くの兵士の心の拠り所となっていた【間宮】は、日本の敗北が決定的となった「レイテ沖海戦」を見届けたあと、冷たい海の中で眠りにつくことになるのです。

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