　逃避行がはじまった。

　四（し）面（めん）楚（そ）歌（か）の遯（とん）竄（ざん）だった。

　豪邸の地下室に母親の屍（し）骸（がい）を湮（いん）滅（めつ）したのち父親と息子は風呂場で鮮血を洗（せん）滌（じよう）し血痕や血（ち）腥（なまぐさ）さを熄（そく）滅（めつ）せしめた。ふたりで着替えている間隙に父親はiPhone7Sで専務に聯（れん）絡（らく）をする。〈ああ専務かいきなりだが息子のために会社を閉鎖することになったこれが最後の仕事だとおもってきいてほしい〉と。つづけて〈六本木ビル防（ぼう）禦（ぎよ）のために従業員をあつめられるだけあつめて武装させてくれあと六本木ビル屋上のヘリポートに会社のヘリコプターを準備してもらえないか〉と。つづけて何（なに）某（がし）かに電話をかけ〈三十代男性の戸籍謄本と印鑑をたのむ〉という。電話をきると着替えおえた息子とともに施錠した豪邸から高（こ）句（く）麗（り）蒙（も）古（くり）遁（に）げてセダン250GT Type Sに搭乗した。セダンを発進させると父親は獅（し）子（し）吼（く）する。〈これから神蔭組の事務所にゆく戸籍謄本と印鑑をもらうんだそれをもっておまえは新潟ににげろ行方不明になった人間のかわりに生きるんだ〉と。つづけて〈おれはかあさんを一番愛していたでももうかあさんは死軆にすぎないいまはおまえが一番なんだおまえを絶対にわたさないおまえは自分のゆめのために生きろ〉と。

　ふたりは驀（ばく）進（しん）した。

　父親も不彀本（ぽこぺん）ではない。宵闇に高級車が爆走していたら警（けい）邏（ら）に蛇（だ）蠍（かつ）視される。セダン250GT Type Sで法定速度を遵守しながら六本木の最涯てへと邁（まい）進（しん）してゆく。六本木の一部を見（み）ヶ（か）乄（じめ）にしている神蔭組の事務所に逢（ほう）着（ちやく）した。神蔭組は老舗の指定暴力団から乖（かい）離（り）したばかりの羸（るい）弱（じやく）なる組織である。此（こ）処（こ）しかあてはない。事務所ビル一階の玄関からふたりが這（は）入（い）ると先輩格が蹲（そん）踞（きよ）して挨拶し不慣れな舎弟たちがつづける。年配の組員が嚮（きよう）導（どう）して二階の一室に闖（ちん）入（にゆう）する。耄（もう）碌（ろく）した老（ろう）爺（や）が父親に頭（とう）顱（ろ）をたれた。いわく〈うちの孫息子が御世話になっております社長それにしても戸籍謄本と印鑑とは物（ぶつ）忩（そう）ですね〉と。父親が事件の一（いち）伍（ご）一（いち）什（じゆう）を伝（でん）播（ぱ）すると老（ろう）爺（や）はこたえた。〈障（しよう）碍（がい）もった孫息子の恩人ですことわるわけありません〉と。〈ですが相手は警察ですよ皮肉だが我我暴力団より暴力のプロだおい中島あれ用意できてんだろうな〉と尋問すると中島という八九三が一挺（ちよう）の拳銃をもってきて一（いち）揖（ゆう）しながら老（ろう）爺（や）に譲渡した。老（ろう）爺（や）いわく〈最近の八九三をなめてもらっちゃこまるベレッタ92だわるいことはいいません護身用にもってってください〉と。

　父親は拳銃をもらった。

　玉（たま）響（ゆら）踟（ち）蹰（ちゆう）したが銃撃戦にならなければ問題ないしなったらなったで必要になるかもしれない。〈組長もうしわけない〉と蹲（そん）踞（きよ）して一（いち）揖（ゆう）すると父親は息子を嚮（きよう）導（どう）して事務所からきびすをかえした。亦（また）セダンに搭乗して逃避行をつづける。つぎの目標は六本木ビルだ。矢（や）張（は）り法定速度を遵守して驀（ばく）進（しん）すると路傍に350GTセダンが停車していた。〈350GTは覆面パトカーだ〉と父親はいう。実際に350GTを無視して邁（まい）進（しん）せんとしたところ背後から追（つい）蹤（しよう）されて停車せしめられた。瘦（そう）軀（く）の男性が肉薄し警察手帳をひろげていう。〈速度違反です〉と。父親が〈そんなわけはない〉というと〈ところで界（かい）隈（わい）の高級住宅街で女性の刺殺体が発見されたのですがあやしい人物はみかけませんでしたか〉という。父親が〈そうなんですか識（し）りませんね〉というと巨（きよ）軀（く）の男性が反対側に逍（しよう）遥（よう）闊（かつ）歩（ぽ）してきて〈車（しや）輌（りよう）に青年がのっておりますが犯人も親子で逃走したという情報がありまして鳥（ちよつ）渡（と）おはなしうかがえませんかつづきは署で〉といった。父親は拳銃をかまえる。片手でグリップを掌握し瘦（そう）軀（く）にむける。廼（ない）時（じ）に射撃すると轟（ごう）音（おん）とともに瘦（そう）軀（く）はくずおれ銃身の反動でマズルジャンプがおこった。巨（きよ）軀（く）はホルスターから拳銃を鷲（わし）摑（づか）みにせんとしている。父親は両手でグリップを握締めて息子越しに銃殺する。

　息子は喫（きつ）驚（きよう）した。

　二発の銃声が車（しや）輌（りよう）に神（しん）韻（いん）縹（ひよう）渺（びよう）となり父親の掌握するベレッタ92の銃口から煙霧が捲（ま）興（きお）っている。250GT Type Sの両側にはふたつの屍（し）骸（がい）が顛（てん）躓（ち）していた。父親は廼（ない）時（じ）に拳銃をジャケットのポケットに湮（いん）滅（めつ）して運転を再開する。法定速度遵守抔（など）いっていられない。車（しや）輌（りよう）の壁面には瘦（そう）軀（く）と巨（きよ）軀（く）の鮮血がのこっているだろう。父親はセダンを爆走させながらAMラジオをながした。キャスターいわく〈先程六本木某所にて警（けい）邏（ら）中の警察ふたりが射殺されました犯人は拳銃をもって逃走している模様です逃走車（しや）輌（りよう）は白いセダン息子とおもわれる青年も搭乗しております事件の十分前ほどに高級住宅街にて女性の刺殺体が発見されており関（かん）聯（れん）性もうたがわれておりますつづいて科学界の話題がとどいておりますIBMを筆頭とするゴッドライクマシン開発団体によると今世紀中葉には技術的特異点に到達したノイマン型コンピューターによる人類の歴史の改変が可能になると――〉バックミラーを瞥（べつ）見（けん）した父親は〈わかるか背後の二台は屹（きつ）度（と）警察だ捜査一課がうごきだしたのかもしれないがもうすぐだ〉といった。