風の勇者ハンミョウ

島倉大大主

 薄明かりの中で、ベンチプレスを終えると、私は汗を拭い、次のトレーニングに移った。

 足元にバーベルを置き、両ひざを曲げないようにゆっくりと持ち上げていく。腰と臀部に負荷がかかり、筋肉がびくりびくりと痙攣する。拭ったばかりの汗がまた吹き出す。


「君を選んだのは、間違いじゃなかったか……と、時々思うんだ」


 私の傍らに浮いていたチコは、そう言った。





 私が選ばれた人間――選人えりびとになったのは、半年ほど前だった。


 書斎で読書をしていると、妙な光が上から降り注いできた。見上げれば、青く輝く光を纏って、小さな縫いぐるみのような謎の生物が頭上に浮いている。


「僕はチコ! 光の国から来た妖精さ!」


 読みながら飲んでいた酒がまわったのか、それともポオの毒気に当てられたか、と目を擦ってはみたが、チコと名乗る生物はふわふわと私の前まで降りてきた。

「話を聞いてもらえるかな?」

 私には頷く以外に選択肢が無かったように思われる。



 世界は悪に満ちている。



 チコは簡潔にそう言いきった。



 このままでは世界は地獄になる。



 チコはそうも言った。



 戦争か? と私は質問をした。

 いや、それは結果さ、とチコ。

 彼が言うには、一定量以上の悪は、連鎖し、膨れ上がり、次元を超えて禍々しい存在を呼び出す引き金になってしまうらしい。


 邪神という奴か。そいつが全面戦争の類を起して、人類を滅亡させるわけか、と問う私にチコは首を振った。


「神、というような存在ではないんだ。呼び名も形もない。でも確かにそこにある――巨大な悪の気配とでも言えばいいかな。

 そいつは自分のご飯として、負の感情を増やそうとする。だから人類を戦争で全滅させたりはしない。そんな事をしたら、ご飯が食べれなくなっちゃうからね。だから――」


 生かさず、殺さず、人類は永遠の苦しみの中でのたうちまわる。


「だから君に、悪を減らす手伝いをして欲しい! 僕達の仲間は世界中で、これぞという人を見つけ、選ばれた者、つまり『選人』として変身させ、コツコツと悪を討伐しながら、正義の心を広めているんだ! 勿論僕達も全力でサポートをしているよ!」

 ……何故、私なんだ?

「そ、それはその……」

 私のストレートな質問に、チコは一瞬俯くと、申し訳なさそうな顔をした。


「事前のリサーチで、君が条件に合致したからさ。僕は詳細は知らないんだけど――君は人類に対し、危険な類の欲望をもっていなくて、正義の心を持っている。だから――」

 それは嬉しいのだが、そういう条件に合致する人物は、警察等に行けばゴロゴロとしていると思うのだが?

「……実は、この行為には報酬が無いんだ。だから、金銭的に余裕が無いと厳しい。

 しかも君には素性を隠してもらうつもりなんだ。正義の心は、対象が明確でない方が――つまり、偶像の方が各々の心で育ちやすい。だから……」

 私はチコの言わんとしている事を悟って、手で制した。


 両親が事故死して、財産をそっくり受け継いだのは五年前だったか。叔父に推薦され、父が経営していた会社の社長になり、業務改善に努めた。

 だが、どんなに経営が黒字化しようと、私にはやりがいが全く感じられず、今は叔父に会社を譲り、会長職に就いている。つまり、引退同然なのだ。

 しかも女性とも縁が無く、さりとて見合いをする気も起きず、大きな邸宅に住んではいるが、三十手前で仙人のように籠って、ひたすら読書と自己鍛錬に明け暮れる毎日だ。

 だから、食事は味ではなく栄養を優先し、服は温度対策の一環としてしか興味が無い。鍛錬の際には、汗をかくのでむしろ邪魔である。人に会う事は殆ど無いから、着用していない時の方が多い。


 金があって、健康で、欲が無く、身元がバレる恐れが少なく、いざという時に、巻き込む恐れのある周囲の人物がいない。


 しかし、と私は首を傾げた。こういうものは、例えば、いたいけな少女が悪と戦うような創作物が多いと、何処かで読んだ。確かに、そういう方が世間の支持を集められるのではないのか? 


 チコは、またもぶんぶんと首を振った。

「確かに、そういう創作物は多いよ! でも! いたいけな少女に重荷を負わせるなんて、どう考えたって異常だよ! 少なくとも僕は嫌だ!」


 成程、正論だ。

 男女差別と言われようが、やはり、女性に重荷を背負わせるのは、そう――胸糞が悪いのだ。

 私は、判った、やろう、と短く答えた。

 チコはありがとう、と破顔した。



 こうして私は選人になったのだった。




 チコの提案で、私が扱うのは、近くの大都市に起きる重大な犯罪に限定された。


 私に異存はなかった。

 犯罪は秒単位で起きているが、残念ながら、私の体は一つなのだ。足元に正義の心が満ちた時、始めて外に目を向けるべきなのだ。


 また、裁くのはあくまでも警察の役目であり、私は警察官たちをそこに誘導し、援助するだけということになった。


 私に異存はなかった。

 私自身が裁いては、リンチである。そして、警察という市民の代表が悪を駆逐していくことこそが、いずれは市民一人一人の心を強くしていくのだと思う。


 また、身元を隠す為にマスクとスーツを着用することになった。

 マスクは、チコが私の内面から、最も選人として適切なイメージを拾い上げ、それに見合った物を具現化させるという。

 そして、スーツに関しては、体表面にチコが魔法の障壁を展開するので、基本的には自由とのことだ。

 チコは、まずはマスクを具現化させ、それに合わせてスーツを作るというのはどうかな? と提案した。


 私に異存はなかった。

 私自身、英雄願望の類は一度も持ったことが無い。故に、その手の創作物等にも疎く、具体的なスーツのイメージなど、全く浮かんでなかったからだ。


 チコは私の頭に手を当て、声高らかに、現出せよ! と叫んだ。

 私の体が震え、何かが奥からせり上がってくる。

 マスクが私の頭上に現れた。

 チコは、それを不思議そうに眺め、やがて――




 困惑した。




 ギューンと、耳障りな音をタブレットが発した。

 トレーニングが終わり、ソファーで微睡んでいた私は、飛び起きると服を脱ぐ。

 地図ソフトと、チコの魔法をミックスさせた、特性アプリは数分後の犯罪を予知する。

 確認すると、市役所近くのトンネルで真っ赤な丸が明滅している。

 私はマスクを被り『変身』した。同時に、チコの魔力が体の表面を覆い、ざわざわと力が渦巻くのを感じる。

 何度、経験してもこの瞬間は最高だ。

 気持も体も、いきり立ってくる。

 チコは私にちらりと目をやると、その小さな両手を天にかざした。

「門よ!」

 空間が歪み、裂け、稲妻が閃く暗黒の穴が頭上に現れた。

「用意は良いかい! 勇者ハンミョウ!」

 やけくそといった感じでチコが叫んだ。


 私は頷くと、床を蹴り、穴に飛び込んだ。

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