真っ黒くて大きい女

島倉大大主

「それで――どうして僕の所に来たのかな?」

 俺の前に座る眼鏡をかけた男性は、そう言って微笑んだ。

 柔和な表情ではあるが、目つきは鋭く、撫でつけられた髪は、殆どが白くなっている。


 俺達が向かい合っているのは、殺風景な部屋だった。簡素な椅子と机であり、コーヒーどころかお茶も出さないところを考えるに、彼は俺を歓迎していないのだろう。


「実は、教授に聞いてほしい物があるのです」

 俺は、はっきりとそう言った。声は震えていないし、上ずってもいないと思う。


 大丈夫だ。まだ落ち着いている。

 大丈夫だ……。


「聞いてほしい物、か。僕はこれから授業があるのだけどね?」

「教授の授業まで、四十分はあるでしょう? 僕のこれは――」

 そう言って、俺はボイスレコーダーを机に置いた。

「大体三十分くらいです」


 教授は息を短く吐くと、椅子に深く腰掛けた。

「しかし、私が聞かなければならない理由はないと思うのだが。そうだろう?」

「教授は趣味で、都市伝説を蒐集しゅうしゅうしていると聞きました」

 む、と教授が唸った。カーテンが無い部屋なので、雲がよぎり始めたのか、部屋が徐々に暗くなっていく。

「何かを録音したわけだ。それを私に聞いてほしい、と」

「そうです」

「単刀直入に聞こう。何を録音したのかね? 君みたいな輩は結構くるんだよ。湖面に拡がる風紋をUMAと言ってみたり、風の唸りを幽霊の声とか言ってみたりね」

 教授は首を傾げて天井を見た。


「でも、それは別にいいんだ。そういうものだからね。ロマンって奴さ。

 だから君が何を録音していようとも、僕は文句は言わない。むしろウェルカムさ。

 だけど、今は――正直に言うと、授業まで仮眠をとろうと思っていたんだ。昨日、夜が遅かったからね。だから聞くんだが、それは緊急性を要するものなのかね? 違うだろう?

 なら、出直してきてくれないか? そうだな、明日の朝一番とか……」


 俺は、きっぱりと首を振って否定した。


「それはダメです。一刻を争うのです」

 教授は、ほうと口を丸くした。

「どういうことかな?」

「これに入っているのは、友人の告白です。昨日の夜、録音したものです。彼は俺がトイレに行っている間に、いなくなりました。今も連絡が取れません。ですから――」

「待った、待った。その――」


 教授は五本の指を突き合わせ、片眉を上げた。

「君が言う所の失踪から、まだ時間が経ってない。ただ単に携帯が故障している可能性もある。それに、失踪なら警察に話すのが筋だろう?」

 俺は五本の指を突き合わせ、片眉を上げた。

「だからです。これから先、本当にあいつが失踪してしまった場合、警察に言っても信用されないどころか相手にされない失踪理由がここにあるんです。

 それに、今ならあいつを掴まえられるかもしれないんです。その……手遅れになる前に」


 教授は再び天井を見上げ、成程ねえ、と呟いた。

「それが都市伝説絡み、というわけか。そして、君は友人を探す為に僕の助言を聞きに来た、と?」

「そうです」


 それだけじゃない。


 教授はにっこりと微笑んだ。

「興味が湧いてきた。聞こうじゃないか。君の言ってる事が、一から百まで嘘だとしても、興味を持ってしまったから仕様が無いな」

「ありがとうございます」

 教授は、ふっと僕の後ろ――粗末な作りのドアの方を眺めながら、溜息をついた。


「やれやれ……眠いのに僕も物好きなもんだ。

 駄目だと判っている物ほど、魅かれてしまう……好奇心って奴はドラッグに似ているんだろうね。僕はドラッグは一切やったことが無いけれど、そっちに踏み出してしまう連中の最初の一歩を、馬鹿にはできないんだよねえ……」


 俺は教授の独白を無視し、再生ボタンに指をかけた。

「君がそれを押すのを、僕は黙って見ている。

 君、こういう妄想はしたことが無いかね? ハエジゴクに挟まれていく蠅は、全てわかっていて挟まれに行く奴もいるんじゃないかって。その先に破滅が待っているのを、うっすらと判っているのに、好奇心には抗えない」

「蠅は好奇心を持たないと思います」

「そうかね? しかし、人間も時として、本能から来る警告よりも好奇心を優先すると思うのだが。いや、むしろ、思考で好奇心を擁護し、本能を無視――」

 俺は再生ボタンを押した。

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