3.私と明日菜の『ミタナイ』関係

 駅のカフェで話をした三日後、明日菜と駅で待ち合わせをした。

 二人で駅の近くのスーパーに行って食材を購入する。

 明日菜に料理のリクエストを尋ねると「カレー」と大きな声で小学生のように返事をされた。

 リクエストにはできるだけ応えたいとは思うけれど、私が普段作るカレーは少し時間をかけて煮込む。今から煮込むのはちょっと厳しい。それに私はお酒を飲みたい。カレーはちょっとお酒のおつまみには合わないと思う。

 カレーを却下すると明日菜は次点で唐揚げをリクエストした。下味をつける時間が少し短くなるけど問題ないだろう。

 明日菜は若いからモモ肉の方が好みかもしれない。だけど私はムネ肉がいい。悩んだ結果両方買って二種類の唐揚げを作ることにした。使わない肉は冷凍しておけばいいし、唐揚げが余ったら明日菜にお土産として持って帰ってもらえばいい。

 普段はほとんど料理をしないので冷蔵庫の中は空っぽだ。だから唐揚げの材料の他に、スープやサラダの材料とデザートも購入した。

 明日菜と並んでマンションに向かう。ただそれだけのことになんだか少しだけウキウキしていた。人のために料理を作るなんてどれくらいぶりだろう。

 それに明日菜は荷物を自分が持つと言い張って私の手から買い物袋を奪い去った。そんなところがちょっとかわいいと思う。

 妹がいたらこんな感じだったのかもしれない。

 マンションに入ると、明日菜は室内探検をはじめた。あまり見られると恥ずかしいのだけれど、その行動があまりに子どもっぽくて面白かったので好きなようにさせておいた。

「きれいなお部屋ですね! こういうマンションって家賃高いですよね? いいなー、きれいなマンション」

「あー、賃貸じゃないから」

「買ったんですか! すごい! いいなー」

 会社の同僚にマンションを購入したことを知られたときは「結婚する気がないのか」とか「結婚できなくなるよ」とかいらない世話を焼かれた。それは両親も同じだった。

 だから明日菜が純粋に驚き、感激する様子が新鮮でうれしい。

「支払い額は賃貸の家賃とそれほど変わらないからね。家賃を払い続けるなら買っちゃった方がいいかなって」

 マンションの購入を決めたのは三十三歳のとき。理由はいくつかあったが結婚をしないのならばこんな選択もいいと思ったのだ。

 明日菜と話をしながら私は料理に取り掛かる。

 明日菜は珍しいものでも見るように私の手元を横からのぞき込んだ。

「鶏肉の皮、取っちゃうんですか?」

「付けておいた方がいい?」

「別にどっちでもいいんですけど、ウチは取らなかったから」

「皮はね、半分をスープのダシに使って、残りはカリッと揚げて私のお酒のおつまみにするの」

「おー、すごい!」

 手を叩いて感嘆を示す明日菜。

 料理を作っている間、明日菜は次々と質問し、答えを聞くと驚いたり喜んだりした。

 何の取り柄もなく、なんとなく生きてきただけの私にも少しはいいところがあるんじゃないかと思えた。ただの錯覚であったとしてもそれはとてもうれしいことだった。



 料理が完成するとそれらをテーブルに並べて明日菜と向かい合って座った。

「いただきます」

 と手を合わせて食事をはじめる。

「おいしい!」

 明日菜が笑う。

 私はコップに注いだビールをグイッとあおった。

 こんなに楽しい夕食は久しぶりだ。

 おしゃべりとビールで程よく酔いがまわった頃、明日菜が言いにくそうに切り出した。

「突然こんなことを聞くのもなんなんですけど……エッチって気持ちいいですか?」

 思わず口に含んでいたビールを吹き出しそうになる。

「いきなり、ビックリしますよね。えっと、あのですね。彼氏がいるんですけど……」

 彼氏いるんだ。年頃だもん、そりゃいるよね。そう思いながら少し寂しさも感じてしまう。

「あんまりエッチしたくないなー、って。慣れてないからかもしれないけど、気持ちいいとかなくて。だから……」

「あのね」

 私が憮然とした表情なのは、明日菜ちゃんにも伝わっているだろう。

「年上だからって何でもかんでも熟知していて、適切なアドバイスをあげられるわけじゃないのよ」

「変なこと聞いてすみません。友だちには言いにくくて」

 確かに友だちじゃないから言えることもある。そう、私たちは友だちではない。ならばこの関係は一体何なのだろう。

「私もあんまり経験が多いわけじゃないから。それに、セックスは好きじゃなかったし」

「そうなんですか?」

「あの頃はこの世から消滅すればいいと思ってたわね」

 まだ異性と恋愛をしなければいけないと思っていた頃、何人かの男性と付き合ったことがある。

 そういうものだと思ったから、なんとなく気の合う人と付き合い、誘われたらセックスもした。

 でも私にとってセックスは苦痛でしかなかった。二人目の彼からは、「お前、不感症じゃねえの?」と言われた。行為に及んでも濡れないのだ。身体がセックスを求めようとしない。

「そのときはどうしていたんですか?」

「手と口の技術を磨いてさっさと終わってもらえるようにしてたわね」

 セックスの間、早く果てて終わってくれることばかりを考えていた。そのための努力もした。今思えばあれはセックスではなく、彼のオナニーを手伝っていたにすぎないのかもしれない。

 男性との付き合いに疲れ果てていた頃、なんとなく借りて見た映画が女性同士の愛を描いたものだった。

 切なく情熱的なストーリーに感銘を受けた。女優たちの迫真の演技に引き込まれていった。だが、何よりも驚いたのは女性同士の行為のシーンに興奮したことだ。その映像から目がそらせなかった。そして、私は濡れていた。

 濡れにくい体質なのだろうか、不感症なのだろうかと疑念を持っていた。それなのに、ただ映画を見ただけで濡れたのだ。

 『セックスがダメ』なのではなく『男性とのセックスがダメ』なのだと気付いたのは三十歳を過ぎた頃だった。

 その年になるまで気付かなかったなんて鈍いにも程がある。

 だが気付いたからといって同性の恋人を探そうという気にはなれなかった。

 いや、正確にはネットで情報を集めたことはある。そこには自分よりもずっと若い女の子たちが集っていた。

 若い時から悩み、自覚して、自分の居場所を見つけようとしている彼女たちがうらやましかった。そして、今更そこに入っていけるわけがないとあきらめたのだ。

 だから女性とのセックス経験はない。本当に女性とのセックスならば気持ちよくなれるのかも分からない。

 けれどこんな説明を明日菜にする必要はない。

 明日菜が尋ねているのは『どうすれば彼と気持ちのいいセックスができるのか』だ。

「セックスは身体だけじゃなくて頭でもするものだから、嫌だと思ってると余計に苦痛になるわよ」

「えー、どうすればいいんですか」

 明日菜は私とは違う。経験不足によるものなのか単に彼が下手なだけなのか。

「そのことを相手にも伝えて、どうしたら気持ちよくできるか、試してみればいいんじゃない?」

「なんか、恥ずかしいですね」

「あとは、オナ……」

「ん?」

「オナニーで、自分が気持ちよくなるところを把握してみるとかね」

「オナニーですか。……涼音さんもするんですか?」

「す、するわよ」

 なんだかやけくそになってきた。なんでこんな赤裸々な話をしているんだろう。

「オナニーって、どうやって……」

「あー、もうおしまい。あとは自分で考えて」

 さすがに恥ずかしくなってきた。

 女性との恋愛経験はない。だが、恋愛の対象が女性であることは自覚している。

 振り返ってみると学生時代も男子より女子と一緒にいたかった。入社してからも、男性社員より仕事を教えてくれた女性の先輩が気になっていた。

 同性に惹かれたことは確かにあるのに、なぜ気付けなかったのだろうか。

 無意識に心にフタをしてしまっていたのかもしれない。

 私は目の前にいる明日菜のことをどう思っているのだろう。

 明日菜はかわいいと思う。

 一緒にいて楽しいと思う。

 それは恋愛対象として見ているのだろうか?

 答えは、否だ。


+++


 明日菜と仲良くなったことで、自ら出禁にしていたコンビニにも行けるようになった。

 バイト中の明日菜と顔を合わせると二、三会話を交わす。

 そして週一回くらいのペースで明日菜が我が家を訪れてご飯を食べる。ときにはそのまま泊まってしまう。

 そんな日々が数カ月続いたある日、普段は必ず都合を確認する明日菜が何の連絡もなく突然ウチに現れた。

「どうしたの?」

 肩口まで伸びた髪が乱れていた。最近ではすっかり慣れた化粧もしていない。何かトラブルがあったことは一目瞭然だった。

「しばらくかくまって」

「だから、どうしたの?」

 明日菜を部屋に入れて落ち着かせる。

「実は、彼氏がキレて」

「喧嘩?」

「喧嘩というか、私が浮気をしているんじゃないかと疑われたというか」

「浮気、してるの?」

「してませんよ。してないと思いますよ?」

「なぜ疑問形なの?」

 きっかけはセックスだったそうだ。

 セックスで気持ちよくなれないことをやんわりと伝え、努力してみたが改善の糸口が見つからなかったらしい。

 セックスをしたくないという気持ちから彼に会う日が減り、いざ誘われても断ることが多くなったという。

「それで、避けられてるのは浮気しているからじゃないかと思われたのね」

「最近キレイになったのは、男ができたからだろうとも言ってたけど」

 責めているのか褒めているのか微妙な感じもするが、確かに出会った頃に比べたら随分あか抜けた。

「師匠がいるって言ったんだけど、信じないし」

 師匠とは私のことだろう。我が家に来るたびに化粧指南を求められた時期があった。

「あと、どうやら彼、うちの周りを見張ってたらしくて」

 それはストーカー行為なのではないだろうか。

「それでいつもアパートに帰らずにどこにいるんだってキレちゃって」

「そのことに心あたりはあるの?」

「うん。涼音さんのウチでご飯を食べてゴロゴロしてる」

 最近は週一どころか、週三のこともある。どうやら彼と会うのを避けるためだったらしい。

「それは説明すればいいんじゃないの?」

「いやぁ、これを機に別れちゃおうかなと思って。でも、今は頭に血が上ってるみたいだから。そんなわけで責任をとって涼音さんがかくまってください」

 頭を抱えるしかない。明日菜がしばらくウチに泊まることは問題ない。しかし、彼氏との問題に巻き込まれるのはごめんだ。

「本当に、それで彼とうまく別れられるの?」

「大丈夫だと思うけど。いざとなったら、涼音さんと付き合ってるってことにするから」

 飄々と言う明日菜の言葉に少しドキリとする。

 だがそれを言えるのは、明日菜は私と付き合うことを現実として考えていないのだろう。

 カマをかけている様子もない。

 現実的な話ではないから軽く言うことができるのだ。

 私自身、そんなことを考えているわけではないが、全く可能性がないと突き付けられるとちょっと悲しく感じてしまう。

「多分、男のプライドってやつ? だと思うんで。エッチがうまくいかなかったのも、浮気も、私がレズビアンだから仕方なかったって思えればあきらめるよ」

「そんなに簡単にいくかな?」

 明日菜は楽観した様子で頷く。

 私が駆り出されることになりそうな気配がする。

「あ、そうだ! いっそのこと、私、ここに住んじゃおうかな?」

「は?」

 何がいっそのことなんだろう。

「ルームシェア。ここ、居心地がいいし、二人で食べた方がご飯もおいしいし」

 明日菜と過ごす時間は嫌いではない。むしろ楽しみにしている。だが、それとこれは話が別だ。

「家賃もちゃんと払うよ。涼音さんにとってもいい話でしょう?」

「確かに、家賃はちょっとありがたい」

「ね、そうしよう!」

 明日菜の中ではルームシェアが決定事項となろうとしているようだ。

「でも、涼音さんと私の関係って、なんなんでしょうね。友だちって感じじゃないし」

「友だちじゃないの?」

「うん。仲良しだと思うけど、友だちって言われるとちょっと違うかな。ほら、学校の先生とどれだけ仲良くしても、友だちにはなれない感じ?」

 なるほど。分からなくもない。

「すごく頼りになるけど、お母さんって感じでもないよね」

 お母さんと言われなくてよかった。

 それでは少しだけからかってみようか。

「それじゃ、恋人は?」

「あー、恋人って感じもないですよね」

 即答だった。

 ちょっとは慌てるかと思ったのだが当てが外れてがっかりする。

「でも、チューくらいならしてもいいかな」

 そう言うと明日菜は私に顔を寄せて、触れるか触れないか程度のキスをした。

 そして「イシシッ」と、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。

 この年になって二十歳も年下の女の子に振り回されることになるなんて思ってもいなかった。

 友だちにも満たない、家族にも満たない、恋人にも満たない、名前も付けられない、つかみどころのない関係。

 私がそれを心地良いと感じてしまっているのだから、もう諦めるしかないのだろう。

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