(6)困惑と秘密
玲に不意打ちで指輪を渡してからも、春日は自身では何事も無かったかのように日々を過ごしていたつもりだったが、見る者によってはそれなりに、彼の態度に違和感を感じていた。
「それでは春日君、この案件を宜しく頼む」
「分かりました。早速、取りかかります」
その日、弁護士事務所の代表である桐生利介に呼ばれた春日が、一通りの説明を聞いてから差し出された書類をいつも通り受け取ると、桐生が何やら人が悪い笑みを浮かべながら尋ねてくる。
「時に春日君、最近何かあったかな?」
「何か、と言うのは?」
「はっきりどうとは説明できないが……。この数日、妙に達観したような表情をしているかと思えば、微妙に不機嫌そうにしている時もあるし。要は、君の機嫌が良いのか悪いのか、今一つはっきりしない」
最初当惑した春日だったが、すぐに相手が指摘した内容に対する理由に思い至り、それに言及する気は無かった彼は素っ気なく応じた。
「明確に他人に表情を読まれるようでは、弁護士としての資質に欠けると思いますが」
「勿論、接客中や調停中の話では無いから、そこは心配しなくて良い。それで?」
更に笑みを深めながら問いを重ねてきた桐生に、春日は舌打ちをしたいのを何とか堪えつつ、平然と言い返す。
「大した事ではありませんし、職務に支障をきたすつもりはありません」
そんな、ある意味生意気な返答を聞いても、彼とは比較にならない位人生経験を積んでいる桐生は、特に気分を害した様子を見せず、寧ろ面白がるように肩を竦めながら話を終わらせた。
「相変わらずの頑固者だな……。それなら良い。引き留めて悪かった」
「いえ、失礼します」
春日は上司にしつこく問い質されずに済んで安堵したものの、自席に戻って仕事を再開しながら溜め息を吐いた。
(自分では普通にしていたつもりだったが、桐生先生にはお見通しだったか。まだまだ修行が足りないらしい)
半ば勢いで指輪を渡した後、それまで何だかんだと週に一度はやり取りをしていた玲からの連絡は途絶えており、自分からも下手にアプローチする気になれなかった春日は、今後の行動について密かに悩んでいた。
(それにしても、あれから十日過ぎたか。確かに、対応に困る事例ではあるだろうが、一切の連絡が無いとはな……。さて、これからどうしたものか)
内容が内容だけに迂闊に他人に相談する気にもなれず、頭の片隅で時折考えを巡らせながらも、滞りなく仕事を進めていた春日だったが、少ししてスマホにメッセージが届いた。
「うん? 今から? それに、この下にって……」
ポケットから取り出したそれの、ディスプレイに映し出された予想外の内容に、春日は本気で驚いた。そして軽く目を見開いて固まっていた彼に、横から訝しげな声がかけられる。
「春日先生、どうかしましたか?」
それに春日は慌てて顔を上げ、怪訝な顔で書類を手にしているパラリーガルの堤に言葉を返した。
「いや、堤、大丈夫だ。何でもない」
「そうですか? それではこちらが先週調査を依頼された判例集で、こちらが昨日作成を指示された訴状です。確認をお願いします」
「分かった。ありがとう」
そこで差し出された書類をいつも通り受け取った春日は、何事も無かったように仕事を再開したが、僅かに首を傾げながら自分の席に戻った堤は、隣席の先輩である高城に小声で詰問される事になった。
「堤君。春日先生、やっぱり先週辺りから変よね? それにさっき、どうして固まってたの?」
「さあ……、誰かからメッセージが届いていたみたいでしたけど、良く分かりません」
「あんな至近距離で、どうして分からないの! 何とか上手くやりなさい!」
「無茶言わないでください! 何をどうすれば良いんですか!?」
二人でそんな事を囁いていると、春日が無言で立ち上がった。そのまま自分達の机に向かって来た為、話が聞こえたかと堤と高城は肝を冷やしたが、彼はそのまま彼らの机の横を通り過ぎながら、短く断りを入れてくる。
「ちょっと十分程抜ける。俺宛に電話があったら、用件を聞いておいてくれ」
「分かりました」
そのまま事務所を出て行く彼を二人は安堵の溜め息を吐きながら見送り、春日は腕時計で時間を確認しつつ、そのままエレベーターで一階へと下りて行った。
エレベーターを降りた春日はまっすぐエントランスホールを進み、正面入り口から外に出た。そこで立ち止まり、腕時計と周囲を交互に確認していると、二分程でビジネスバッグを提げたスーツ姿の玲が、交差点の方から近付いて来た。
「どうした。仕事中に連絡をしてきたのは初めてだよな?」
急に「直に話したい事があるから、短時間で良いから時間を取って欲しい」などと連絡してきた為、何か至急の用件か厄介事が勃発したのかと春日は内心で心配しながら声をかけたが、玲はバッグの持ち手を肘に掛け、苦笑いで両手を合わせながら謝ってくる。
「本当にごめん、急に押しかけて。実はこっちも、ある意味仕事中なの。三十分後に始まる主任研修を、あそこのビルで受ける予定だから」
告白してから初めて顔を合わせる事になったが、予想外に気まずい空気は皆無であり、更に玲の手には今まで通り指輪の類いが全く無いのを見て取った春日は、安堵と落胆が入り交じった微妙な心境に陥った。しかしいつも通りの表情で、玲が指し示した1ブロック先の高層ビルを眺めながら相槌を打ってみせる。
「ああ、なるほど……。だからここまで来たのか。大変だな。だが次の予定があるなら、寄り道をして大丈夫なのか?」
「時間は大丈夫よ。さっさと用事を済ませるから」
「用事って何だ?」
「ええと……、これよ」
すると玲は苦笑を深めながら、首筋から細いチェーンを引っ張り出し、更にそれに見覚えのある指輪が通されているのを認めた春日は、僅かに動揺した。
「……それがどうした」
辛うじて平静を装いながら問い返した春日に、玲が肩を竦めながら言い返す。
「本当に、色々段取りをすっ飛ばしていきなりこういう物を押し付けてくるから、何かと思ったわよ」
「悪かった。反省してる」
「別に、謝って欲しいわけじゃないし……。ただ、いつもの春日君らしくないと思っただけ。それで二つだけ、質問があるんだけど」
「何だ?」
「いつから私の事が好きだったのかと、どうして指輪のサイズがぴったりなのかの二点だけど」
「悪いが、どちらも黙秘権を行使させて貰う。これからの事には、全く関係がないしな」
その真顔での即答に、玲は笑ってしまった。
「それじゃあ春日君は、これからどうしたいの? 改めて、ちゃんと聞かせて欲しいんだけど」
「それを渡した事だし、この際、結婚を前提とした付き合いを始めたいと思っているが。どうだ?」
真顔で淡々と告げられた内容に、玲は少々照れ臭そうに首を傾げながら、指輪を目の前で軽く持ち上げる。
「そうね……、考えてはみたけど、取り敢えず保留かな? ただこの指輪はね……。あのままユニパックに入れて持ち歩くのはあんまりだし、これで持ち歩かせて貰おうと思って。その報告に寄ったのよ。それじゃあね」
「ああ、またな」
そして元通り指輪をチェーンごとブラウスの内側にしまった玲は、軽く手を振ってから本来の目的地に向かって歩き出し、春日も無理に引き留めたりはせず、笑顔で彼女を見送った。そして踵を返した春日はビルの中に入りながら、誰に言うともなく呟く。
「そうだな……、初対面の時からで、真吾が死ぬ前に教えてくれた」
今までもこれからも、誰にも教えるつもりが無いその事を口にしながら、春日は妙にスッキリした表情で職場へと戻って行った。
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