空間X脱出

諸星モヨヨ

空間X脱出

❘『四月二十二日 午前一時十四分頃 謎ノ怪光海上ニ発生リテ 熱海近郊山中ニ落下セリ』  一九三八年四月二十四日 日刊新報より一部抜粋❘


「んんッ! いいっ! いいっ!」

女は男の上で跳ねていた。

下になった男は遊ばせたままの腕で女の乳房を上から揉みしだいている。男が激しく体を弄ったせいか、肌蹴た着物の間から白い肉感の良い肌が覗き、二粒ほどの汗が滲み、ツーっと流れて行く。


女の方はまさに肉感溢れんばかりと言ったような恵体であるが、一方男の方はげっそりとやせ細り、目の周りを深い溝が囲むようにして隈が出来ている。それほどまでに弱々しい体をしているにも関わらず、胸を揉む腕は納まらない。


二人の激しい動きによって畳に敷き置かれた布団がSの字を書いている。

どれくらいの時間この男女は行為に及んでいたのであろうか、男女ともに額から汗が滴っていることから長い時間体を混じり合わせていたのであろう。


「ううっ……」

男が声を上げて腰を突き上げた。女もそれに応じるかのように天を仰いで嬌声を上げた。

事が終わった。が、同時に男の命も尽きたようであった。

少し上を向き、白目を剥いた男はそのままの姿勢で動かなくなった。先ほどまで激しく上下していた腹部の動きも止まっている。

「孝蔵さん……とぉっっても気持ちよかったですよ……」

女はモノを挿れたまま男に覆いかぶさるように体を起こして赤い舌で男の痩せこけた頬を舐めた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 ねっとりと頬に張り付く畳の感触で三杉みすぎ 克彦かつひこは目を覚ました。部屋に置かれた時計を見ると午前二時を指している。まただ、克彦はそう思って体をゆっくりと起こす。顔を上げ、部屋に設置されたエアコンに目をやった。彼の思った通り、エアコンは蓋が開いたまま冷気を流さずに運転を停止していた。


 エアコンが運転を停止したのは、これで三日連続である。いくら年代物のエアコンと言えど、ここはホテルである。それに今は真夏なのだ。エアコンが付かない部屋にして欲しいと誰が言うだろうか。

 克彦は座ったまま頭をぼりぼりと掻く。彼が泊まっているのはこの熱海で最も宿泊費が安い、個人経営の小さなホテルである。この時間ではホテルの人間も既に寝静まっているだろう、克彦は冷たいビールを飲んでそのまま寝てしまおうと考えた。机の上には寝る前に開けたビールの缶が四本、買っておいた分はすべて飲んでしまっている。


ホテルのロビーに確か酒の自販機があったはずだ、と思い出した克彦は腰を上げて浴衣の帯を締めなおすと部屋を出て一階へ降りる為にエレベーターに乗り込む。

一階のボタンを押し、ゆっくりとエレベーターが下降し始めると克彦はこんな場所へ来たことをつくづく後悔した。

事の始まりは友人から聞いた他愛もない与汰話だった。同じ隕石マニアである、町田 四朗の話した『熱海火球』の話に惹かれたのだ。


ご存知であろうか? 日本一の温泉街として名高い熱海に落下した謎の火球のことを。一九三八年の夜、海上に出現した謎の赤い球が熱海の近郊、その山中に落下したのだ。当時の人々は『不知火』と呼ばれる船幽霊の一種だと言って恐怖したが、それはまさしく隕石であった。翌日、調査団が落下地点を特定し調査を行ったが、調査三日目の朝、サッカーボール大の隕石が忽然と姿を消したのである。珍妙不可思議なこの事態は当時に人々を賑わせたが、時と共に忘れ去られ、隕石ではなく巨大な氷の塊だったのではないか、と言う説が唱えられ、次第に人々の記憶からも消えて行った。無論、克彦もこの話は知っていた。


町田はこの隕石を探しに行こうと言い出したのである。最初は馬鹿にしていた克彦も町田の熱意に負け、連休を利用してわざわざ熱海に訪れたのだ。


彼らが宿泊しているホテルもこの『熱海火球』と因縁深い場所にある。

このホテルが建っている場所は当時、『姑獲鳥楼うぶめろう』と呼ばれる遊郭であった。この遊郭の支配人 朝永孝蔵は落下した火球の調査にも参加していたことを町田は調べ上げ、克彦が折角熱海に行くのであれば、と旅館を探し出した時には既にこのホテルが予約されていた。町田が言うにはこの朝永孝蔵、件の熱海火球に関する書庫一棟を軽く満たしてしまうほどの膨大な資料を収集していたらしいのだが、そのすべてが忽然とどこかへ消えてしまったというのだ。


掃除が行き届いていないのか、それとも長年蓄積された物なのか、タバコのヤニの臭いが鼻を突く。改めてこんな場所へ来るのではなかったと克彦は後悔した。久々の連休だ。それも夏季の連休である。行きたい場所があったわけではない。だが、一泊四千五百円の格安ホテルに泊まりたいとは思わない。せめて二人部屋を予約し、で夜半遅くまで語らえるのであれば、と思ったが、生憎このホテルの二人部屋は空いていなかった。


エレベーターの下降が停止したのを体で感じると克彦はドアが開くのを待ち、外へ出た。

 ギシリ…


 三歩、三歩歩いた時、ハッと異変に気が付いた。ぎしぎしと軋む板張りの床、奥へ長く続く廊下、その両脇に無数に並んだ襖戸。そこはホテルのロビーではない。長く続く廊下は明りが灯っておらず、真っ暗だった。エレベーターの蛍光灯が廊下を数メートル先まで照らしている。


 階数を間違えたのだと克彦はエレベーターに戻り確認する。だが階数表示盤は一階を指していた。

 先ほどとは違う檜の香りが鼻を突く。この状況に克彦は不思議と恐怖感は無く、もう一度エレベーターから外へ出た。


 再び数歩歩き、目を凝らして見るが先は見えない。


闇の中に続く廊下を見た時にやっと彼の中に恐怖が生まれた。自分はどこか分からない場所に来ている。戻らなくては。我々がバクテリアとして海中を漂っていた頃に染みついた本能的な何かがそう思わせた。


 闇の中を再び見やり、直ぐに引き返そうとする克彦の腕を何かが掴んだ。


「……ぬっ!」

 驚きから声ともならない声を上げた。見ると彼の腕を細く、白い腕が掴んでいる。

 闇の中から浮かびあがっているかのようなその腕はシッカリとそして優しく彼の腕を掴んでいる。目を凝らすとそれが闇の中に浮かんでいるわけではなく、数センチ開けられた襖の隙間から伸びているのが分かった。


 腕はゆっくりと克彦を襖の中へと引き込もうとしている。克彦はゴクリと生唾を飲み込むと襖に手を掛け、ゆっくりと開いた。


 女。


 そこには女が居た。派手な柄の着物を着た女である。艶やかな黒髪は複雑に編み上げられ、その隙間を埋めるようにして長い簪が刺さっている。彼女の姿を見止めた時には既に克彦の中から恐怖心すっかり消えていた。それよりもこれから何が行われるのか簡単に察しがつき、どこか高揚感すら覚えていた。


「いらっしゃいませ」

 湿気のある様な声で女が喋った。

「ど、どうも……」

 我ながらなんて返し方だろうか、克彦は思った。


 部屋の中に明りは灯っていなかったが、月光が外から降り注いでいるのか薄明るかった。

部屋の奥には机が一つ置かれ、中央に布団が敷いてある。菊の柄の布団。二人はさほどの会話も交わさずその布団の上に倒れ込んだ。


 敷布団のひんやりとした感触が克彦に伝わって来る。

「お名前は?」

 克彦の上に跨るようにして座った女が言った。

「三杉 克彦…あ、あなたは?」

「紫蘭でございます」

「し、紫蘭……」

 紫蘭と名乗った女は克彦の下腹部を弄りはじめ、そしてゆっくりと衣服を剥ぎ始めた。克彦もそれに応じるように紫蘭の着物に手を掛ける。


 紫蘭がゆっくりと克彦のモノに手を掛けるとそれに反応するかのように、それは熱を帯び始める。

 「んじゃぁぁ…っ……」

 固くなったそれに紫蘭は自身の涎を垂らし、扱き始める。ぬめぬめと輝いた“それ”を紫蘭は自身の中へ導いた。

「ぬふぅぅっ……」

 女と交わったことがなかった訳ではない。だが、克彦が感じていた快感は今までのどの快感ともかけ離れている物であった。ずずっ、ずずっ、と奥へ奥へと進む克彦のモノ。棒を肉の壁が圧迫するその快楽(けらく)は名状しがたいものであった。紫蘭は蕩けた表情で克彦を見て厭らしく笑う。肌蹴た着物から覗いた乳首が固く立っているのが分かった。

 紫蘭は克彦の肩に手を回すと動き始めた。


 どのくらいの時間が経ったであろうか、障子からは薄明るい月光が依然として降り注いでいる。さほど時間は経っていないのかもしれない。だが、二人は疲れ果てていた。ぐっしょりと濡れた布団と彼らの体。


 覆いかぶさるように寝ている紫蘭の髪を撫でながら克彦は、不意に壁に掛けられたカレンダーに目をやった。


一九三八年十月、そこにはそう書かれていた。

どういうことだ、ここは一九三八年だというのだろうか……、

 俄然興味が湧いてきた。克彦は紫蘭の髪の匂いを嗅ぎながらある考えを巡らせていた。ここはもしかしたら一九三八年十月の『姑獲鳥楼』ではないのか? だとすると自身の上で寝ている紫蘭と言う女にも納得が行く。


 ゆっくりと紫蘭の体を降ろす。ここが『姑獲鳥楼』だとすればどこかに朝永孝蔵の部屋があるはずである。それを探すのだ。


 再び廊下に出てみると恐怖が蘇ってきた。暗く長い廊下、これほど怖いものがあるだろうか。肺へ大量の空気を送り込む。なぜかは分からない、行かなければならない気がしたのだ。

 ギシリと床が軋む。その音が闇の中へ消えてどこまでも反射していくのを想像すると肝が冷えた。


 廊下を突き進み、階段を上がりそのまま突き当たった部屋がそうであった。明らかにほかの部屋とは一線を画す重厚な洋風の扉。支配人の部屋とはこういう物だろうと現代人の克彦でも察しがついた。


 金属製の重く固いドアノブに手を掛ける。しゅぅ、と空気が圧縮されるような音を立ててドアが開いた。気密性が高いのだ。いいドアである。


 書斎らしきその部屋はやはり朝永孝蔵の部屋であった。机の上に積み上げられた数十冊の本と手帳。克彦はその数冊を手に取りパラパラとめくった。その殆どが当時はまだまだ未開拓の分野であった天文学や地質学の物であった。その中に克彦が探していた朝永孝蔵の日記があった。


 火球について書かれてある場所を探す。そこに書かれてあった物を見た克彦は思わず声を漏らした。


「な、なんだこれは……」


❘四月二十三日❘

『熱海に隕石らしきものが落ちたとの知らせがあった。心高ぶるのを押さえて現場へ向かう。これはどうだろう。今まで本や写真でしか見ることの出来なかった物質が目の前にあるではないか。直径は約三〇cm、色は今まで見てきたどんな色とも表現しがたい。強いて言うなればこの世のあらゆる色を反射しそして吸収する色だ。見ていると自分までもが引き込まれそうになる。日中は調査が行われ近づくことは出来ても手に触れることは困難であった。 日が暮れるのを待って私は身支度を整え現場へ向かった。勿論アレを見るためだ。規制線が張られていたが構わず中へ入った。ああ、これから書くことが私自身、現実に起こったことなのか分からない。私の犯したこの過ちに対するただの言い訳になるかもしれないだが、事実私はこれらのことを体験したのだ。隕石が落下した際に出来た穴の上から私は下を除いた。月明りに照らされてうっすらとであったがそれは確かにそこにあった。昼間と変わらずに極彩色の色を持って輝いている。これが自分の物に出来たらなんと心地よいだろうか…… そんな事を思って見ていると隕石は蒸気のような物を吐き出した。その蒸気は月明りの中混ざり合うようにして人の形を作り出した。その美しい姿。誰に伝えることが出来るであろう。遊郭の支配人であるこの私が今まで見たこともないような美人であった。その女が囁くのだ。「連れて行って」と。そうこの隕石が私にどこかへ連れて行ってほしいと囁くのだ。ああ、書いていても私は自分で狂ってしまったのではないかと考える。だが更に狂ったことに私の書斎、机の上に今それがあるのだ。なんてことをしたのであろう……私は女の囁きに呑まれ隕石を自宅まで持ち帰ってしまった。この字が震えているのもそのためだ。誰かに見られていないか…不安だ。どうすればいいのだろうか』


❘四月二十六日❘

『隕石消失騒ぎは少しずつではあるが納まってきている。だが不安は尽きない。しかしもっと不安なことがある。私は毎夜隕石と交わっている。文字通りだ。どうやらこの隕石は幻惑なる何かを発生させる力を持っているのだと私は考える。いや、そう考えたい。そうでなければ私は……××××××××   私が隕石を持ち出したあの夜現れたあの女、あれが私の体を毎夜のように求めて来る。気分はよくないが、まんざらでもない自分もいる』


❘四月二十日❘

『××××××……力を入れ、気合を入れなければ文字を書くことが出来なくなっていることを今朝知った。店の者が言うに私はげっそりやせ細ってしまっているらしい。自覚がない』


❘四月二十五日❘

『この隕石の危険性について後世に残さねばならないと私は×××考えた。完璧なる発見。恐怖の発見である。この隕石、いや、この禍々しい鉱物の結晶体は隕石などではなかった。それは何か? 未知の生命体の卵であると私は推測する。ここ数日隕石を詳しく調べてみた。するとある部分に亀裂のようなものがあることが分かった。少し覗いただけでも中が空洞になっていることが分かったのだ。拡大鏡を持ち出し、隙間を覗いてみるとそこには目があった。ぎょろっと光る大きな眼であった。魚と鳥の眼を合わせたようなものだった。思わず私はその場で腰を抜かしてしまった。そしてある仮説を立てたのだ。 あの日以降私は毎夜のようにあの女と交わっている。あの女は隕石の作り出した幻惑、言うなればあの生物の捕食器官なのではないかと。あの生物は人間の生気を食べているのだ。間違いない。だから私と交わっているのだ。証拠に見てみろ私のこの体を。××××××××毎食腹いっぱい食べているにも関わらず頬は痩せこけ、白髪が目立つ。そして本人は言われるまで気が付かない。そして何より、危険と分かった今でさえ……今夜も彼女と交わるのかと想像するだけで熱り立(いきりた)って来る。誘惑に勝てない。いや、最早そんな次元ではないのかも知れない』


❘四月二十六日❘

『一日考えてみた。やはりあのようなものがこの世界にあってはならないという結論に至った。あの隕石を遊郭の敷地の中に埋めることにする。だが…不安もある。あの生物の作り出した幻惑が果たして土の中に埋めただけで納まるだろうか…… もしあの生物が私以外に標的を変え、捕食器官を放ち、人々の生気を捕食し続け成長してしまったら………私は今まで自分は誘惑に強い人間だと自負していた。実際そうだと思うが…ほかの人々が巨大な誘惑の術に勝つことが果たして…果たしてできるだろうか……だからこそこの資料を後世に残すと決めたのではないか。いや、不安はある。あの生物は恐らくかなり高度な知能を有している。私が死んだあと、死ぬ前にこれらの資料を何らかの形で始末してしまうかもしれない…それだけは…それだけは何とかして避けなければ…』


❘五月二日❘

『××××××出た。無駄であった。すべては無駄になった。あああ、どうすることも出来なかった。あの女に私は……勝てない』


 あの紫蘭と言う女はこの謎の生物の捕食器官だったのである。そして生物はこの異空間を作り出すことが出来るまでに成長している。曖昧であった恐怖や不安が一気に色を帯び始めた。


 克彦の手が震えている。


「克彦さぁーーーーーーーーんッ!」


 絶叫とはまた違った叫び声が館内に響き渡った。びくりと身を竦めると日記を抱え、扉の影に身を潜めた。あまりにも澄み切ったその大声はどこから聞こえてくるのか分からなかったのだ。


 重い扉を肩で押し、ゆっくりと廊下を見る。闇の中に人影は無かった。逃げなければ。

 あたりを確認するようにして暗闇の中を進む。粘度を持った闇と言う物質が克彦の周りに纏わりついているかのように彼の歩みを妨げる。


 ぎしり、ぎしり……

 板張りの床が軋む。


「克彦さぁーーーーーーーんッ!」


 声は先ほどよりも大きく聞こえた。近くにいるのだ。咄嗟に克彦は障子戸を開けて部屋の中に身を潜めた。


 ぎしり、ぎしり……

 板張りの床が軋む音。自分が踏んだ音ではない。紫蘭が廊下を進んでくる音だ。ゆっくりと部屋の前に足音が近づいてくる。克彦は障子戸をぎりぎりまで開き、廊下を確認する。


 闇の中にぼんやりと浮かぶようにして紫蘭の姿が現れた。


「克彦さぁーーーーーーーーーんッ!」

 あまりの恐怖に叫び声を上げそうになるのを克彦は必死に抑えた。

「どこにいらっしゃるのですかーーーーーーーッ!」


 恐らく数十秒の出来事だったのであろうが克彦には何十分にも何時間にも感じられた。紫蘭が部屋の前を通り過ぎた頃にはびっしょりと汗をかいていた。しかしこれで危機は去った。

障子戸を開け、廊下を走った。闇の中に浮かぶ明るい箱。エレベーターだ。助かった。


甘かった。助かったと思うにはあまりにも早計であった。


エレベーターに駆け込んで階数表示のボタンを押して振り返る。闇の中に浮かんだ紫蘭の姿。今まで真っ暗で見えなかったがハッキリとその姿を捉えることが出来た。肌蹴たままの着物でこちらをじっと見つめている。


「うあぁぁぁぁぁぁッ!」


 初めて叫び声を上げた。我慢できないほどの恐怖が彼を襲ったのだ。だが最早彼はエレベーターの中、先ほど連打した三階のボタンが点灯している。


「勝手にお帰りになられては困ります……特に知られてしまったお客様は……」

「お、お前は一体……」

 紫蘭は何も答えず全速力でエレベーターめがけて突っ込んでくる。

「お前は一体何者なんだぁぁぁぁッ!」

 克彦が閉のボタンを連打するのに合わせてゆっくりとドアが閉まり始める。しかし紫蘭はすぐそこまで迫ってきている。

「は、早く、早く閉まってくれえぇぇぇぇッ!」

 

 間一髪、ドアと紫蘭があと数メートルで接触しようかと言う所で鉄の凹凸を噛みあわせて一枚の壁に変わった。

「はぁっ…はぁっ……はぁっ…た、助かった……」

 古びたエレベーターの中で克彦はへたり込んだ。何処を見つめるでもなくジッと空を眺めている。放心状態だった。ハッと彼は手の中にあの日記が握られているかどうか確認した。日記は確かに腕の中に握られていた。


 これがあれば熱海火球に絡む諸々のすべてが解決するかもしれない。

 日記の存在を確かめた彼は同時にあることに気が付いた。

エレベーターが動いていないのだ。


「な、なに……」


 ドンっと鉄を叩く音が室内に反響する。ぎりぎりとゆっくり鉄の扉がこじ開けられようとしていた。機械の駆動に反して開かれようとする扉の間から紫蘭の顔が覗いている。先ほどまでの顔とは違う、鬼のように歪んだ形相であった。


 頭をやっと通せるほどの隙間を開いた彼女は間髪を入れずに頭を突っ込んだ。

「克彦さんッ! まだ帰られてはごまりまずぅぅぅぅぅぅッ!」

「うがぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

持っていた日記で思い切り頭を殴打する。奇妙なことが起こった。彼女の顔にまるで陶器のようなヒビが入ったのだ。そのヒビはぱりぱりとめくれ落ち、彼女の中にあった物が出現した。 芋虫、まぎれもなくそれは芋虫の頭部であった。段々と肉を積んだようなその体に付いた二つの黒い点。眼であろう。


「こ、これが……隕石の中にいた生物……いや…違う、これは…」

 これは恐らく“それ“が使役する捕食器官に過ぎない、克彦は直感した。

「きぃぃぃぃぃぃい」

と芋虫が鳴いた。

「うあぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 足で顔をがしがしと蹴りつける。身が裂け、むじゅりと黄色い体液が流れ出す。

 芋虫は克彦を諦めたのか日記をむしり取ると闇の中へ姿を消した。

 

 ぶぅぅぅぅぅぅぅん…… エレベーターの駆動音。

 

 次にドアが開いた時、彼の目の前には洋風のマットの敷かれた廊下が広がっていた。戻ってきたのだ。

 這うようにしてエレベータを出た。

 気が付くと彼は泣いていた。振り返るとエレベーターの扉が閉まるところだった。

 閉まった扉を見た克彦は絶句した。扉は人がぶつかったかのように凹んでいたのである。



 あとから克彦が聞いた話では年に数人、男性客がこのホテルに宿泊し、行方不明になっているという。 あの生物は未だに成長し続けている。あのホテルのどこかで……




終劇


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