第3話『秋を駆ける星』 Side美晴

3-1

 休み時間のことだった。


「随分とご機嫌そうだね、美晴ちゃん」

「ひ、ひゃあっ!」


 黒板に書かれた文字をノートに書き写していると、あたしのところに菜摘ちゃんがやってきた。急に声をかけるものだから、素っ頓狂な声を上げて肩をビクリと震わせてしまった。恥ずかしい。


 菜摘ちゃんはクラスも同じだからたまに声をかけてくる。

 もちろんイヤでも無かったし、むしろ仲良くしてくれるのは嬉しいことだ。


 けれど今日のあたしは少し上機嫌で、口許がついつい緩んでしまってばかりだった。そんな時に話しかけられたから、悲鳴の一つも出るというものだ。


 昨日、初めての天体観測をした。


 普段何の気なしに眺めている星空なのに、その夜は不思議と幻想的で、ちょっと特別に思えた。智幸さんが正座の場所を教えてくれたり、コンビニで買ったおにぎりを友達と夜に外で食べるなんて初めてだったから新鮮で、ああ、青春してるななんて恥ずかしくも思ったりした。


 その楽しい思い出がまだ瞼の裏にこびりついているのだ。表情が緩んでしまうのも致し方ない。


「な、なに、天乃さん」


 菜摘ちゃんへの返事はどもってしまった。

 これがあたし――秋川美晴という人間の精一杯だ。もしかすると、つくった笑顔もぎこちなく歪んでしまっているかもしれない。


 どうにもいきなりとなると挙動不審になってしまう。


 だけど菜摘ちゃんは、まるで気にしないといった風な柔らかい表情をしていた。顔を近づけ、あたしの手元を覗きこんでくる。彼女の綺麗な肌が耳元に近づいた。


「綺麗な字をしているね」


 あたしがノートに写した文字を見て、菜摘ちゃんはくすりと笑んで言った。


「そ、そうかな」

「そうだよ。羨ましい限りだね」


 菜摘ちゃんは、どこか同級生とは思えない独特な話し方だ。智幸さんと話す時は普通に敬語を使ったりしているが、それもどこかやはり変だったりする。雰囲気も、あたしが普段から親しくしているクラスメイトたちとは微妙に違った。


 そのためだろうか。

 彼女と話をするときは、特別にイヤだとか苦手だとかいう意識があるわけでもないのに、どこか緊張してしまう。


 いや、単純にあたしが慣れていないだけなのかもしれない。


 あたしはもともと、あまり人と会話するのが得意ではないのだ。今は割とマシになったが、それでもたまに、慣れない相手には異常な緊張を抱いたりしてしまう。


 つい先日の、智幸さんの時もそうだった。


 あたしの悪い癖だ。


「ほんと。真面目だよねえ、秋川さん」


 目の前の空いていた席に女の子が座り、あたしを見て言った。いや、見ていたのはたぶんあたしの手元だろう。ノートを見てその子は言っていた。


 休み時間によく話す子だ。席があたしの目の前なので気軽に話しかけて来てくれる。授業が終わって早くに居なくなっていたが、すぐ戻ってきたようだ。


「そう、かな」

「そうでしょ」

「うん、そうだね」


 前の席に腰掛けた子の言葉に、菜摘ちゃんまでもが続いて頷いた。それで調子がついたのか、女の子は気前よく口許を緩めてからまた口を開く。


「秋川さん、先生からの評価も高いよね。前なんか生徒会に推薦されてたでしょ」


 あたしは思わずむせかえしそうになった。肺から飛び出そうになった息を、どうにか喉もとで止める。


「い、いきなり何言って……」

「だって本当のことでしょ」


 否定はできなかった。

 実際、声をかけられたことはある。それも一学期、ずっと前のことだ。


 けれどそれは、別に嬉しいことでもなんでもない。


「へえ、そうなんだ。生徒会に勧められるだなんて、凄いね。さすが美晴ちゃん」


 朗らかな笑顔を浮かべ、菜摘ちゃんはあたしの顔を見やる。


 ――余計な事を言わなくていいのに。


 恥ずかしくて死にそうになった。


 薄らと目尻に涙をためながら、あたしは正面の女の子を睨んだ。と言っても、まったく目つきの悪くないあたしが睨んだところで、凄味など微塵もでないのだろうが。


 耳たぶが熱い。全身をくすぐられているような気分を、もじもじと足の先を擦り合わせることで紛らわせる。


「ねえねえ、どうして生徒会に行かなかったの?」


 平然とした顔で女の子は訊いてきた。


「あたしには無理だよ。だって生徒会に入ったらみんなの前に立つんでしょ。あたしにはそういうのは似合わないと思うし。そんなあたしが何かを言っても、きっとみんな聞いてくれないだろうから」


 それに、無償で何かの、誰かのために働けるほど偽善的でもない。


 もちろん、生徒会に入ることで得られるものもあるのかもしれないが、あたしにとってそれは無意味に思えた。あたしが欲しいのは、そういう肩書きや経験ではない。


「せっかく可愛い顔をしてるのに。もったいないな」


 悪戯に笑みを浮かべ、菜摘ちゃんはあたしの頬を優しく突っついてくる。


「ちゃ、茶化さないでください」

「茶化してないさ」


 あたしの頬から菜摘ちゃんの指が離れる。あたしが菜摘ちゃんへ顔を向けると、彼女のふっくらとした唇がそっと揺れた。


「憧れの存在になれるんだよ。すごいじゃないか」

「そんなに憧れかなあ……」

「違うのかい?」

「みんな、ただの雑用係っていうイメージが多いと思うよ」


 ふむ、と菜摘ちゃんが曖昧に頷く。


「けれど優等生であることには変わりないね。学校行事にも協力的で、先生にも感謝されるかもしれないよ。なにより内申点」

「べ、別に優等生になりたいわけでもないですし。いいですよ」


 まったく。

 菜摘ちゃんはどうにも調子が狂う。

 ただでさえ人付き合いが苦手なのに。


「でも」と菜摘ちゃんが続ける。


「誰かに憧れられる優等生はそんなにイヤかい? 美晴ちゃんだって、憧れられるような人になりたいって思うこともあるんじゃないのかな?」

「わ、わたしは……」


 どくり、と胸が締められた気がした。


 ちょうど話を締めくくるように、始業のチャイムが鳴った。


 周りの生徒たちが一斉に席へと着きはじめる。菜摘ちゃんも、あたしの肩をそっと叩いてから自分の席へと戻っていった。

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