ホシノミタユメ -まだ何者にもなれない僕たちは、夜空に新星の夢を見る―

矢立 まほろ

第1話『ゆめのはじまり』 Side宗也

1-1

 プロローグ   不協和音



 それは、気持ちが悪いほどに鼓膜を揺らした。


 ガラスが砕けるような音。

 たった一度の鋭い響きは幾度となく脳内を反響し、なかなか離れてくれなかった。


 やっと静寂が訪れると、窓越しに弓張月の浮かんだ夜空を見上げた。


 遠く向こうの空は栄えた町並みの夜光に満たされ白く浸食されている。正反対の方向に光る金星やそのまわりの星たちが、人の生み出した光害に負けじと、これでもかというほどに輝きを放っていた。


 今日も夜空はいつもどおりだ。

 夏から秋、そして冬へと空気はゆっくり移り変わっていく。


 明日も。その次の日も。

 何気なくふと見上げれば変わらない空が見れることだろう。


 北の空には北極星が輝いていて、そこから少し東を向いたところには、ぎょしゃ座の一等星・カペラがある。どこか見慣れたアルファベットの形をしているのはカシオペヤ座だ。


 星空はとても綺麗で思わず目を奪われてしまう。あと数刻もすれば、もっとはっきりとした形で空に浮かぶ事だろう。


 何もかもを忘れ去ることができるのならば、こうしてゆっくりと、いつまでも空を見上げているのも良いかもしれない。


 不敵に冷めた微笑をこぼす。

 しかしその表情が笑顔に崩れることは無かった。


 瞳はずっと、空へと向いている。


「……最低だ」


 ぼそりと呟きその部屋を後にした。

 残ったのは、ただ静まり返った夜の冷たい空気と、床に転がる黒い塊だけだった。



   1  夢のはじまり



「転校生を紹介する。おい、入っていいぞ」


 そんな珍しくもどこかで聞き慣れた言葉と共に、教室の扉は静かに開かれた。


 教室にいた生徒全員の視線が、その扉へと集められる。

 窓際の席でぼんやりと外の景色を眺めていた俺――野原宗也(のはらそうや)も、周りの空気に流されて扉を注視していた。


 途端、おお、と一部の男子生徒から声が上がる。その理由は単純だった。


 扉を開けて入ってきた生徒は、我が校の夏服を身に纏い、水色のスカートをひらりと躍らせた女の子だったからだ。


 少女は随分と細い足を前後し、教壇の前へと進んでいく。


 窓の外に降り注ぐ残暑の光すらも、その照りつけをためらってしまいそうな程に白い肌。やせ細っているわけでもなく、しかし余分な脂肪というものが欠片もうかがえない四肢。少女が壇上で立ち止まると、腰ほどにまで伸びたストレートの前髪が、弧を描くようにして揺れた。


 髭を生やした中年の担任教師に促され、その少女はチョークで黒板に名前を書き始めた。


「天乃菜摘です。よろしくお願いします」


 書き終えてチョークを置くと、転校生――天乃菜摘(あまのなつみ)は振り返り、微笑を浮かべて言った。


 綺麗な顔をした大人しそうな子だな。

 俺が彼女に抱いた第一印象は、それだけだった。


 他には、なにやら鼻息を荒げている気味の悪い男子たちも居たが、俺はすぐに菜摘から視線をそらしていた。


 転校生。

 自分には関係ない。ただ、クラスメイトが一人増えるだけだ。女子ともなれば、余計に縁は無いだろう。


 呆けたように、窓の外に流れていく白い雲を追いかける。耳に入ってくる転校生の自己紹介も、もう一方の耳から流れるように出ていった。


 ――早く終わってくれないかな。


 などと思いながらちょうど目線を教室に戻した瞬間、教壇の前に立つ菜摘と目が合った。彼女のまっすぐに垂らした前髪の隙間からつぶらな瞳が覗く。心なしか、菜摘の口許が微かににやついた気がした。


 気のせいだろう、と俺は視線を外に戻す。

 さっきまで見つめていた雲は、もうどこかに流れてしまっていた。




 リノリウムの廊下を歩くと、こつんと響くような足音が鳴る。

 人気のない校舎は殊更よく響き、一抹の気持ちよさがあるものだ。


 しかし今日は俺の足音に少し遅れて、また別の足音が背後から聞こえていた。足を止めると、やはりタイミングがずれてもう一つの音も止まる。


 二重に被さるようで気味が悪い。


 また歩く。

 すぐに止まる。


 余分な足音は、毎度のごとく僅かな誤差を持って俺に続いていた。


「何の用だよ」


 短く逆立つような髪を掻きむしりながら、俺は後ろに振り返った。


 そこには、笑むわけでもなく、まるで感情の色すら窺えないような顔をした天乃菜摘の姿があった。


 彼女の胸元についた青いリボンが揺れる。


「先生に聞いたんだけど。きみ、天文部に入ってるんだってね?」

「そうだけど、なに」

「なんでも」


「なんだよ、気になるな」

「きみに実害を及ぼすつもりはないんだ。だから、別に気にしなくていいよ」

「イヤでも気になるんだよ」


 まるで達観した老人のような、どこかの金で肥えたお偉いさんのような口調で――それはあくまで俺の偏見だが――坦々と言う菜摘に、俺は口を尖らして言葉を返す。


 何が楽しくて二学期の初日から転校生にストーキングされなければならないのか。


 菜摘は、顔写真まで載った名簿を事前に見せられていたらしい。「野原宗也というキミの名前までしっかり把握しているよ」、と付け足すように彼女は言っていた。


 こわい、怖すぎる。ストーカーかよ。


 始業式も終わってすっかり人のはけた校舎は、ひどくがらんどうとしている。廊下の奥をたまに数人の生徒が横切ったりはするが、いつものような、休み時間などに見られる喧騒に満ちた活気はすっかり消え失せていた。


 みんな、とっくに下校してしまったのだろう。学期の初日と言えば、それほど居残って何かをするような事もない。むしろ、久しぶりにあった友達と遊びに出掛けるぐらいだ。


 いまだ見つめてくるだけの少女を無視し、俺は閑散とした廊下を再び歩きはじめた。


 柔らかいゴムの靴底の、床を叩く音だけが空間に響く。


 菜摘はやはり、等間隔を保って俺の後を付いていた。


 俺の通う高校には、生徒たちが勉学に励む本館の他に部室棟が設けられている。わりと簡素なつくりだが、小部屋がいくつも備えられており、文化部の部室として重宝されているのだ。


 さらに一階には図書室があり、そこだけは空調設備が整っているという微妙な至れり尽くせり具合である。全室に設置する工事を来年あたりから行い始めるらしいが、まともに使えるのは俺が卒業した後くらいかららしい。


 空調設備なんてものも、私立高校だからこその贅沢なのだろう。学費が無駄に高い分、これぐらいの贅沢は許されるに違いない。


 部室棟の最上階である三階にたどり着いた俺は、そこの廊下の最奥にある扉を開けて部屋へと入った。


「ここが天文部の部室かな?」


 菜摘も、当たり前のように部屋へと入ってきている。きょろきょろと周囲を見渡してそう言うと、小首をかしげて俺に目をやっていた。


「そうだけど……なにか用?」


 壁に掛けられていたパイプ椅子を持ちより、俺は窓際に置いて座り込む。中庭が一望できる窓の桟に置かれていた文庫本を手に取ると、菜摘には一瞥もくれず、おもむろにそれを読み進め始めた。


 気にするでもなく、菜摘は一人、なにやら部室の中を見回している。


 一般教室の半分ほどしかない、狭い部室だ。

 体格のいい男が五人も入ればたちまち狭苦しく感じる。そんな場所をうろうろされては目ざわりこの上ない。


「ねえ、ここって本当に天文部の部室なのかい? 見たところ、それらしいものは見当たらないようだけど」


 またしても小首を傾げ、菜摘は言う。


 彼女の言う通り、部室はまったくのもぬけの殻だった。部屋の隅に置かれている棚には、俺が持ってきた十数冊の文庫本が置かれているだけ。あとはがらりと空いてしまっている。


 部屋の中央に置かれた長机には、使い古された鉛筆と、これまた数冊の文庫本があるだけだった。天文に関する本の一冊すら置かれていない。


「きみって、本当に天文部なんだよね」

「そうだけど」


 目をやる事もなく、俺は端的に答える。


「活動は?」

「やってない」

「じゃあ、部員は?」

「俺一人」

「ふーん、そうなんだ」


 俺が言うと、菜摘は気味悪く頷いた。


 気になって思わず彼女のほうを見やってしまう。目が合い、ぞっとするような悪寒を覚えた。


 菜摘の口許がそっとにやつく。


「うん、決めた。わたし、天文部に入部するよ」

「…………は?」

「よろしくね、部長くん」


 言って、おどけるように少女は笑った。


 綺麗な黒髪が、窓から吹き込む風にそっと揺れる。差し込んだ夏の暑さが残る日差しに照らされた夏見の顔はとても可愛らしく、美しく――ひどく儚いように見えた。

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