第三十九話 体も心も傷だけなのに

「心当たりはあるのですか?」

「──あるといえば、あるわ」





 深夜、二時。


 船員達の怪我の治療も無事に終わり、レスカの部屋で傷の手当てを済ませたアンナは、皆で死者を手厚く葬った後、与えられた自室に戻ろうとしているところをエディンに呼び止められた。


「会ってからずっと気になっていたんだが、アンナ、お前顔色が悪い」


 抜けた所が多いくせに、エディンは昔からこういう時だけ妙に勘がいい。


「大丈夫じゃないだろ。ハクラにちゃんと診てもらえよ」

「面倒だわ」


 エディンの言葉から逃げるように、アンナは足下に視線を落とした。


「自分の体のことだろう。面倒とか言うな」

「……はあ」

「溜め息をつくなよ……」


 出会った時には、まだ自分より背も低く、子供らしさが抜けていなかったエディン。今のネスと同じくらいだったかな──とアンナは思う。

 流石に十年を越え、三十歳も目前になってくると、あの頃の可愛らしさは……ない。微塵もない。いい年をした立派な男だ。


「お互い年を取ったわね」

「……? なんだよ、急に」


 急に話が方向転換したので、エディンは首をかしげた。


「まさかあんたに説教をされる日がこようとはね」

「俺ももう子供じゃないからな。とっくにお前の『仮年齢』は越えている」


 五年で一歳年を取るティリスの年齢を指して、「仮年齢」という言葉がある。生まれて五十年のティリスならば、仮年齢は十歳。五十年生きてはいるが、見た目には十歳、ということになる。精神年齢は人それぞれだが、大抵の場合は仮年齢に比例する。


「って、そんなことはいいんだ。いいから、絶対だぞ。絶対にハクラの所へ行けよ」

「……わかったわよ」


 仕方なく、アンナはその足で医務室に向かった。





「……伺っても?」

「一週間くらい前と、二ヶ月くらい前かしらね」

「なるほど……二ヶ月前、の方でしょうね」

「そう……」


 明かりを落とした医務室で、アンナと向かい合って座っているのは、この船の船医であるハクラだ。

 白髪の目立つこの船医は、十年近く前までアンナの父が治めるファイアランス王国の王家専属の医師長であった。

 エディンが海賊としてファイアランスから海に出る際、彼はあろうことか医師長という地位を捨て、海賊船に乗り込むことを選んだ。




『昔から航海に憧れがありましてね』


 そう言ってハクラは国王に掛け合った。きっと大反対されるだろう──とアンナは思っていたのだが、意外なことに国王はあっさりと「いいぞ」と言った。


『お前は長年よく勤めてくれたし、若い医師達も十分に育っている。好きにするといい』


 情など無いに等しい、あの父がそんなことを言うなんて、と開いた口が塞がらなかったことも、鮮明に覚えている。







「全く……どうしたらいいのよ……なんでこんな時に……」


 アンナは椅子に座ったまま、肘を膝について頭を抱えた。


 時機が悪すぎる。これから世界の終わりを止めに行かなければならないというのに。儀式が行われる前に、「無名」が再び襲ってくる可能性だって十分にある。


 それなのに、どうして──。


「今までは……なんともなかったのに」

「こういうのはタイミングなんですよ、アンナ様」


 ハクラは落ち着いた様子で言う。


「タイミング?」

「ええ、今までは大丈夫だったから、これからも大丈夫、なんてことはないんですよ、こればっかりは」

「そう……よね。あたしの考え方が甘かったっていうわけか」

「そこまでは言いませんが」


 顔を上げたアンナは大きな溜め息をつくと、だらしなく椅子の背もたれに体を預けた。彼女はらしくもなく、受け入れられない現実に戸惑っている。


「他言無用よ」

「分かっていますよ」


 漏らしたら殺されてしまいますよね、とハクラは場を和ませようと笑って見せたが、アンナの表情は固いままだ。


「アンナ様、そう悲観なさらないで下さい。悲観するようなことではないのですよ、これは」

「そうかも、しれないけれど……」


 時機が悪すぎるのよ、と、アンナはまたしても頭を抱えた。


「儀式が無事に済んだら、一度ファイアランスに戻って、専門の医師に診てもらって下さい。ここでは機材が少なすぎますので」


 と、ハクラは医務室の中を見渡した。狭い、というわけでもないが、広い、ともいえない。一通りの治療器具は揃っているが、流石に機材はない。


「アリシアはまだおりますかね?」


 アリシア、というのはハクラの下で働いていた医師の一人だ。背が高く短髪の、格好のいい女性だ。


「多分。国にまともに帰っていないのよ、あたし」


 アンナは毎年墓参りには帰っているが、国内に滞在することはこの五年間で全くなかった。


「嫌なことを思い出すから、ですか?」


 ハクラは、アンナがノルでマリーに言われたことと同じことを口にした。直後、すいません、と頭を下げた。


「私としたことが、出すぎたことを言いましたね」

「いいのよ、事実だもの……」


 どうしても思い出してしまう。忘れられるはずもない──いや、忘れるつもりもない。


「ところでアンナ様、エリック様は息災ですか?」

「変わりないわ。元気でやってる」


 元気すぎた結果がこれ、と言ってアンナは一段と大きな溜め息をついた。


「いやはや、懐かしいです。お二人の怪我を毎日のように治療していたあの頃が」

「何度も死にかけたものね」


 そう言って二人は笑った。




 今だからこそ、冗談を交えて笑える過去になった。当時は笑えるはずもなかった。毎日のように、殺し合い、殺し合い、殺し合ったアンナとエリック。


 何度も腕が吹っ飛んだ。腹を裂かれた。胸を貫かれた。


 憎まれて、憎まれて、分かり合えた時、いつしか愛し合うようになった。愛するようになっていた。愛とは何かを教えてくれた、愛おしい人。


「そろそろ行くわ」


 椅子から立ち上がり、アンナは大きく伸びをした。天井に向かって長い腕を思いきり伸ばす。


「ああ、アンナ様」ハクラが焦って立ち上がる。「あまり伸びをなさらないで下さい。高いところに手を伸ばすのも駄目です」

「そうなの?」

「駄目です」

「わかったわ……他にも何かある?」

「そうですね……」ハクラは顎を掻きながら考える。「お酒と煙草は勿論駄目ですよ。あとは……生物なまものもあまり召し上がらないで下さい」

「お酒……」


 アンナは思い出す。ノルの町で、ネスに過去を語りながら、大量に飲酒したことを。

 アンナの顔が徐々に青くなっていくのを見て、ハクラは察した。


(ひょっとして………………)


──口に出すと何をされるかわからない。


「お体を大切になさって下さいね」


 と、ハクラは言葉をかけた。


 青い顔のままアンナはハクラに礼を言い、アンナは医務室を出た。





「盗み聞きとは、いい度胸してるわね」


 医務室のドアを閉めて廊下に出ると同時に、アンナは向かいの壁にもたれ掛かっていたエディンを睨んだ。


「謝る」

「それが謝罪する人間の態度?」


 エディンは腕を組んで、威圧するようにアンナを睨んでいる。目を細めて眉間に皺を寄せ、歯を食いしばり、アンナを睨む。


「なんであんたが怒っているのよ」

「怒ってなどいない……眠いだけだ……」


 そう言ってエディンは大きなあくびをした。それなら盗み聞きなどせずに、さっさと寝ろよ、とアンナは彼を睨む。


「年のせいか、最近夜更かしがきつい」

「そ。じゃあおやすみ」


 アンナがその場を立ち去ろうとした瞬間、エディンは彼女の腕を掴んで引き止めた。


「何。怒るわよ」

「俺が盗み聞きをしていた時点で、かなり怒っているだろ」

「あたしが怒るとわかっていて、何故盗み聞きなんてしたのよ」

「それは、お前が心配だからに決まっているだろ」

「……」


 本当に、こいつは。恥ずかしくて人が口ごもってしまうような台詞を、淡々と述べやがる。こっちが赤面してしまうではないか──とアンナは舌打ちをした。


「余計なお世話よ、なんて言ったら、もっと怒るんでしょうね」

「当たり前だろ」


 周りに誰もいないことを確認して、エディンは口を開く。


「お前はいつもそうやって、一人でなんでも抱え込む。もう少し周りを頼るってことを、いい加減覚えたらどうなんだ」

「またそうやって説教をする」

「お前なあ……」


 やれやれと、エディンは呆れて首を振った。


「エリックには、言うんだろうな」

「……話せるわけないでしょ」

「何でだよ」


(ネスにあんなことを言っておいて、結局、あたしは──)


「おい」


(そんな資格なんてない、なんて言っておいて、あたしは──)


「……あんたには関係ないでしょ!」


 声を張り上げてアンナは怒鳴った。静かな船内にアンナの声が響く。幸い、起きてくるものは誰もいなかった。皆疲れているのだ。


「……ごめん……あたしも……どうしていいのか、分からないのよ」


 アンナは両手で顔を覆ってその場に座りこんだ。


「いいんだ、怒鳴られる覚悟はできていた」


 それでも、とエディンもアンナに揃って屈み、彼女の両肩にそっと手を添える。


「体を大事にしろ。そしてエリックにはちゃんと話せ」

「うん……」

「何かあったら俺に言え。出来ることはなんでもする」

「昔も、そんなことを言ってくれたわよね、あんたは」

「俺は一度諦めているからな……。それ以外のことは、何でもしてやりたいんだ」


 エディンは昔、諦めたのだ。アンナを苦しみから救うことを。彼にはどうしようもなかった。自分の非力さを恥じて────呪った。


「もう休め。俺も眠い」


 あくびを噛み殺しながら、エディンはアンナとの肩を支えて彼女を立ち上がらせた。女性にしては筋肉質な肩──腕────それは抱き締めると、柔らかくしなることをエディンは知っている。知っているが、抱き締めることは、もうしない。諦めた時、そう決めたのだから。


「一人で部屋に戻れるか」

「流石に戻れるわよ」

「そうか、じゃあおやすみ」

「おやすみ……」


 ありがとう、と小声で呟いたアンナの背中。


 それはやはり何度見ても、寂しそうな後ろ姿だった。


 俺もこいつも、過去から抜け出せない。


 いつまで経っても──





 そして運命の五月二十日がやってくる。

 

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