第三十一話 ベル
翌朝、ムーンパゥルホテルを後にしながらネスは悔いていた。
昨夜ホテルのレストランで味わったフルコース────こんなに美味な食事を何故もっと食べておかなかったのか、と。
(分かってはいたけれど、あのレストランに一人で行くのはどうも、足がすくんで駄目だったんだよな……)
そんなネスをアンナは、
「またブエノレスパの帰りにでも寄れば?」
と軽くあしらったのであった。
いつも通り真っ黒な色のボートネックのミドルドレスを身に纏ったアンナは、昨夜大量に飲酒したにも関わらず、いつもと変わらない様子でネスの前を歩く。どうやら彼女は相当酒に強いようだった。
「あ!」
城門が見えてきたところで、唐突にアンナが叫んだ。
「どうしたんだよ」
「ガレットを食べ忘れたわ……」
ひどく落胆した彼女は大きく溜め息をつくと、諦めるように首を左右に振った。
「ひとっ走り買ってこようか?」
見兼ねたネスがそう言うと、暗い顔をしていたアンナの顔が、ぱあっと明るくなった。
「いいの?」
初めて見るその表情は、妙に可愛らしいものだった。暗い顔ばかりせず、こんな風にいつも明るい顔をしていればいいのにとネスは思うが、口に出すと殴られるであろうことは想像できたので止めておく。
「で、どこのガレットだよ?」
そんな考えを隠すようにぶっきらぼうにネスが聞くと、アンナは「リモネード通りのマーガレット・ガレットよ!」と声高らかに言った。
──ネスの知っている店だった。
二人分のガレットを購入し、全速力でアンナの待つ場所へと走ったが、全く息が切れないことにネスは驚く。手渡したガレットを美味しそうに頬張る、アンナの幸せそうな顔にも驚いた。
「おばさんは元気だった?」
あっという間にガレットを平らげたアンナは、懐かしむように遠くを見ながら言った。
「元気そうだったよ」
もぐもぐと最後の一口をネスは噛みしめる。相変わらず美味しい。
「知り合い?」
ネスが尋ねるとアンナは「ちょっとね」と言葉を濁した。首を傾げ、彼女を問い詰めようとした矢先、城門からセオドアの走ってくる姿が見えた。彼は二人の前に着くやいなや、膝をついて頭を下げた。
「申し訳ございませんでした!」
セオドアは二人がこの町に到着した時、アンナがネスのことを
「あんたにはこのガキがあたしの男に見えたってことが、よく分かったわ」
アンナが低い声で言うと、顔を上げたセオドアは不思議そうにネスを見た。
「こちらは……?」
彼が不思議がるのも無理はない。それくらいネスの体は成長していた。髪色は変わり背も伸び、顔付きも男らしくなっていたのだから。
「あ、えっと……その……ちょ、ちょっと成長期で……」
あたふたとネスが説明すると、セオドアは理解したのか、それともネスが焦っているのを見て気を効かせたのか、それ以上何も聞いてこなかった。
「ところでアンナ様」
アンナが促して立ち上がったセオドアは、膝についた土を気にすることなく言った。
「ちょうどあなた様にお会いしたい、という方がいらしていますよ」
「誰よ」
怪訝な顔になり、腕を組んだアンナを庇うように、ネスは一歩彼女の前に出た。
城門を振り返ったセオドアが、両手を掲げて手を振ると、全速力で駆けてくる人物の姿が視界に飛び込んできた──速い。
「……ベ、ベベベベベベル!」
アンナが顔を真っ青にして身動いだ瞬間、その人物はアンナに飛びかかり抱きついた。あまりの速さにネスは何も出来なかった。
「アンナさーんっ!」
抱きついた体勢のまま、その人物はアンナを押し倒し、頬を擦り寄せた。右腕で彼女を抱きしめたまま、左腕で彼女の体を撫で回している。
「ぃ…………やぁんっ!」
可愛らしく叫ぶアンナの声でネスは我に返った。セオドアも異様なこの光景に見入っていたようだ。
目の合った二人は、協力してアンナにへばりついている人物を引き剥がした。
「ええい、何をする!」
魂の抜けたような顔になったアンナを背に隠すと、その人物はネスの鼻先を指差した。
騎士団の制服に隊長の腕章。ベリーショートにした純血の魔法使い特有の
「べ……ベベ……ベル、待て」
アンナが震える声で命令すると、ベルと呼ばれた人物は、大人しく敬礼した。
(ベル……どこかで聞いたような名だな)
「アンナさんの命令ならばーなんなりと!」
「……ならば大人しくしていろ」
「はーいっ!」
小動物を思わせる大きな碧眼を輝かせながら、彼女は元気に返事をした。
ネスが彼女の正体を考え込んでいると、アンナが肘をつついてきた。まだ顔が青い。
「ベルリナ・ベルフラワー。ガミール村に向かった第二騎士団の団長よ」
「あ! ……って女だったの? 会話の流れからてっきり男なのかと思ってた」
ムーンパゥルホテルに到着した時、第一騎士団長のアイザックが言っていた、先にガミール村に向かったという騎士団長、ベルリナ・ベルフラワー。その名前が出た時、アンナはひどく嫌そうな顔をしたのだ。実際会ってみると、なるほど、アンナが嫌がる理由もなんとなく分かる。
「騎士団長って、変わった人ばかりなんですか?」
ネスが小声でセオドアに尋ねると彼は「そういう訳ではないのですが……」と頭をかいた。
アイザックもそうだったが、ベリナルもまたアンナに好意を寄せているようだった。本人は酷く迷惑そうだったが。
「あなた、ネス・カートスね」
ベルリナが手を差し出してきたので、ネスは握り返そうと腕を伸ばした。
「ベル」
鋭く言い放つとアンナは何を思ったのか、目にも止まらぬ早さで二人の間に
「うちの新入りに魔法をかけるの、やめてくれる?」
「あれっ、バレてました?」
ベルリナがおどけた顔になる前のほんの一瞬だけ、彼女の顔の上を冷徹な表情が通りすぎた。
「ネス、気を付けなさい。こいつはこう見えても、あたしの五倍近く生きている凄腕の魔法使いよ……安易に握手なんてしたら、知らない間に厄介な魔法をかけられるわよ」
「あなたみたいにねーっ」と言ったベルリナは、腰を曲げてアンナの顔を下から覗きこむ。「アンナさんにかけた魔法は、解けるのにあと一年はかかりまあす」
ふん、と鼻を鳴らしてアンナはベルリナを睨み付けた。
「それで、どうだったのよ、ガミール村は」
故郷の名を聞いて、ネスは顔を上げた。そうか、ベルリナはアイザックより先にガミール村に向かい、アンナに状況を伝えるために、わざわざやって来たのか。
ネスの予測は当たっていたようで、ベルリナはこちらを見ながら話し始めた。
「アイザックばっかりアンナさんに会うのはずるいですからね、私が来たんですよ」
えっへん、と胸を張ったベルリナの後ろに、部下らしき集団がぞろぞろと集まってきた。城門での手続きを済ませ、主の元に集ったようだ。
それと入れ替わる形で「アンナ様」と言ったセオドアは、腰を折って深々と頭を下げた。
「私はこの辺りで失礼します」
「ああ、ご苦労」
アンナが言うと、ネスはセオドアに向かって軽く頭を下げて礼を言った。顔を上げるとベルリナと目が合った。
「それで、ガミール村の状況はどうなんです?」
なるべく平静を装って口にしたものの、焦燥感が滲み出てしまっていたのだろうか。ネスを見つめるベルリナは、勿体ぶるようにニヤリと微笑み、ゆっくりと口を開いた。
「重傷者は多いですけれど、死者はゼロ、です」
その言葉を聞いてネスは安堵したのか、膝の力が抜けて地面に崩れ込んでしまった。張り詰めていた糸がじわりと弛緩したように、体の力がゆっくりと抜けていく。
よかった──本当によかった。誰も死んでいなかった。
「だから大丈夫だって言ったでしょ」言いながらアンナはネスの肩にそっと肩に手を置いた。「で、ベル。犯人は?」
ネスの脳裏に一瞬、兄──ルークの姿が浮かんだ。アンナは九割方兄が犯人だと言っていたが、ネスはそれを信じられないままでいた。
「ルーク・カートスですね。『無名』の幹部の」
「『無名』? それが奴等の呼称なの? あたしも色々調べたけど、奴等が何と名乗っているかまでは、わからなかったのよ」
「彼等は特に呼称を付けている訳ではないのです。こちらとしても呼び名がないのは些か不便なので、仮称として無名、と呼んでいます」
淡々とした二人の会話を、ネスは上の空で聞いていた。
(本当に──本当に兄さんが犯人なのか。故郷を破壊し、母さんを傷付けたのは兄さんなのか)
「ネス、大丈夫?」
地面に座り込んだまま、立ち上がれずにいたネスを気遣って、アンナが屈みこんだ。不安げな顔の彼女──
ネスは震える手で、アンナが膝に添えた片方の手を握った。
「俺は……兄さんと戦わなくちゃいけないのかな」
本当に兄が犯人なら、俺はそれを許せない、と。しかしアンナは、「そんなのあんたの自由よ」と言った。
「戦って、殺して、許せるって思うんなら戦えばいい────あたしは兄上を殺しても許せないけど」
と、いつもの──あの苦しそうな顔になった。
「ベル、あたしたち、そろそろ行くわ」
ネスの手を引いて立ち上がったアンナは、心底嫌なものを見るような目でベルリナを睨んだ。
「わざわざありがとうございました」
と、ネスが言うと「いいんです」とベルは笑った。
「そうだベル、第四騎士団長のデニア・デュランタに会ったら、よろしく伝えておいて」
去り際にアンナが言って、ベルリナに背を向けた。
「はーい!」と元気よく声を上げたベルリナは、その後「あ!」と、とんでもないことを口にした。
「そういえばここに来る途中、虐殺王子に会いましたよお」
(──虐殺王子?)
怪訝な顔になったネスの前を歩いていたアンナは──
「──ベル」
見たこともない、恐ろしい顔になったアンナは──
「その呼び方はやめろ、と昔言っただろう」
と、唸るように言った。
(──なんだ? この嫌なかんじは)
「……アンナ?」
目が合った彼女は、いつか見た苦虫を噛みつぶしたような、不愉快そうな顔になっていた。アンナは慌ててネスから目を逸らす。
「そうでしたっけ、ごめんなさい」悪びれた様子もなく頭をかいたベルは、だって、と続けた。
「生粋の殺人鬼二人から生まれる子がどんなものかって、私達もヒヤヒヤしているんですからあ」
「……えっ?」
今、何と言った?
二人から生まれる子──?
いや、まさか、でも……そんはずは。
アンナと彼は婚約しているんだろ……まさか他に男がいるのか?
ということは彼が殺人鬼?
まさか、あの穏やかな彼に限って、有り得ない──じゃあやっぱりアンナは、彼がいながら他の男と……?
「エリックはもう、そんなのじゃないわ」
疑問符だらけのネスの頭を貫くように、アンナは言った。
「あたしのことは何と言っても構わない。でもあの人のことを蔑むんなら、ベル、あたしはあたしの地位を放棄してもいい、あんたを殺すわよ」
アンナは本気だった。彼女が一番許せないのは、愛するものへの侮辱だった。
背中の黒椿に手を掛け、抜いた。それを見たベルリナは表情を変えることなく、くるりと背を向けると城門に向かって歩き出した。部下が慌ててそれを追う。
「アンナさん、あなたのそういうとこ、大好き」
黒椿を鞘に戻したアンナは、ベルの背中に言葉を吐き捨てた。
「あんたのそういうところが大嫌いなのよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます