第七十一話 【地獄の月曜日⑥】

 夏牙様の言いつけ通り、私はレストラン外の廊下で待機をしていた。賑やかな店内、静かに流れるクラシック曲、別に羨ましいという訳ではない。私も仕事を終えれば美味しいお酒にありつけるのだからと気張れば、あと数時間の勤務をこなすことなど容易であった。

 漂う料理の香りに空腹を覚えながら、行き交うウエストレスに目をやる。こんな時間までご苦労なことだ────と、私の視界に一人の女性が飛び込んできた。



(真戸乃様……?)



 グレーのブラウス、それに濃いグリーンのふんわりとした膝丈のスカート姿。鎖骨の辺りで整えられた髪を揺らし、よろめきながら化粧室に駆け込む可憐な女性は、間違いなく真戸乃 ほたる様だった。


 そこへ何やら困り顔のウエイターが姿を現した。流石に女子トイレへと入るわけにもいかず、入口でおろおろと困惑したよう様子の彼に、私は声をかける。


「どうかしましたか?」

「黒部様! 実は……」


 彼の話を聞くと、どうやら夏牙様と食事をしていた真戸乃様は青ざめた顔で席を立ち、レストランの外へと向かったそうだ。そうかと思えば急に立ち止まり、個室の方へと視線を向けた直後に泣き始めてしまったのだという。


「声を掛けようとしたのですが、逃げられてしまって」

「わかりました、ここは私が。あなたは戻って夏牙様に説明を」

「はい」


 掃除の行き届いた床をコツコツと進めば、手洗い場の前でうずくまる彼女の姿。


「真戸乃様!」


 大丈夫ですか──と駆け寄るも、真戸乃様の意識は既になく、眠りに落ちてしまっていた。スカートには涙の滲みた水溜まり。彼女の濡れた頬を、指先でそっと拭う。


「……可哀想に」


 涙の訳はわかりきっていた。レストランのあの場所からは、角の個室がよく見える。きっと柊悟様の姿を見つけてしまったのだろう。


 あくまでも個人的な意見なので、立石家に仕える者として口に出すことは出来ないが、今回の件──夏牙様発案の今回の件は、私は反対であった。あの優しい柊悟様も流石に立腹するのは目に見えているし、何より真戸乃様が可哀想だ。現にこうして無理矢理酒を飲まされ眠る彼女は、きっと私が想像するよりも遥かに傷ついているに違いない。


 スーツのジャケットを脱いで彼女の上半身を覆った。華奢で軽い体を横抱きにし化粧室を後にすると、片手で彼女を抱え、ズボンのポケットから取り出した仕事用の携帯電話でフロントに電話をかけた。今夜は最上階のスイートルームが全部屋空いているとのことだったので、断りを入れて一部屋借りることにする。職権乱用だが、この場合は許されるであろう。





 解錠し室内に入ると、すぐに仕事用の携帯電話か鳴った──夏牙様だ。真戸乃様を片腕で抱えたまま電話に出ると、彼女の世話は任せる、とのことであった。彼女が目覚めて帰宅を望めば送るように、宿泊を望めば泊めるようにとの命令だ。


『君も、もう上がって良い。今日もお疲れ様だったな。遅くまでありがとう』

「いえ。では、失礼します」


 携帯電話を切った直後、部屋に設置された電話が鳴った。何か必要なものはあるか、というフロントからの電話だったので、適当にお酒と、それからつまみになりそうなものを頼んだ。流石に私もそろそろお腹に何か入れないと、倒れてしまいそうだった。


 それよりも彼女をどうしよう。私の腕の中に収まる真戸乃様は、女である私から見ても非常に可愛らしい。無防備な寝顔についた涙の痕に、心が締め付けられてしまう。



(柊悟様はこんな可憐な女性と毎晩……)



 モザイクが必要なほど、過激な妄想が音声付きで脳内に浮かび、私の身体は熱を持つ。いけない、いけない……別に羨ましいとか、そういうアレではない。私だって夏牙様と……だなんて、そんな妄想をしている訳では決してない、そう、決して!


 このままベッドに寝かせてしまうとブラウスもスカートもしわしわになってしまう。となれば彼女が起きぬよう衣類を脱がせて、備え付けの寝間着に着替えさせるしかない。女同士なのだし、彼女も気にしないだろう……と思いたい。


「失礼します」


 背中にしわを作らぬよう、ブラウスを撫で付けながらベッドに横たわせる。上から順にボタンを外していくと、胸の所でブラウスが外側に大きくはだけた。袖から腕を抜き、中に着ていたインナーと共にするりと剥ぎ取った所で、彼女の体がぴくりと動いた。


「……え…………いやあぁぁっ!!」


 どん、と突き飛ばされ、私はベッドから後退してしまう。ミントグリーンの可愛らしい下着姿の真戸乃様は酷く混乱した様子。その反応はごもっともだ。目覚めて自分の姿を見た瞬間は、きっと夏牙様に「介抱されている」と勘違いしてしまったに違いない。


「申し訳ありません真戸乃様」

「く、黒部さん?」

「はい、黒部です」

「これは一体……どういう状況ですか」

「ええと、ですね」


 私は順を追って事の経緯を説明する。全てを聞き終え納得した様子の彼女は息を吐くと、私が脱がせてしまった衣服を再び身に纏った。


「……ありがとうございました」

「いいえ。これも仕事ですから」


 ベッドの隅で縮こまる真戸乃様からは、警戒の色が消えていた。安心して胸を撫で下ろすと、ドアがノックされた。先程頼んだお酒とおつまみ……見ると、ほとんど食事に近いものが運ばれてきた。


「真戸乃様、どうされますか? 帰るも泊まる

も自由です」

「……」

「真戸乃様?」

「……あんなの見たら……わたし帰れないよ」


 やはり先程の柊悟様の姿に心を痛めてしまわれた様子。だから私は反対だったのだ。眩し過ぎて恐ろしい程の夏牙様の笑顔から発せられるセクハラ紛いの発言。お酒が一定量入るとああいった発言ばかりになるのが自分でもわかっているのに、彼は飲酒をした。柊悟様という弟可愛さに、真戸乃様がどんな方なのか見極めなければと言ってはいたが、果たしてそれは叶ったのか──あとで確かめなければ。


 食事を運び終えたスタッフが退出しても、ベッドから動く気配のない真戸乃様。泊まるという意思表示なのだとしても、このまま放っておくのは心配だ。


「そのように座られていては、可愛らしいスカートがしわしわになってしまいますよ」


 膝を立てて縮こまる彼女は、子猫のような可愛らしさがあった。背の高い私からすれば、なんとも羨ましいものだ。しかしいつまでもそのままだと、帰る時にはしわだらけのスカートが出来上がってしまうだろう。


「可愛いですか……これ?」


 ハッとして横座りになり、スカートをふんわりと広げた真戸乃様。三角座りの時にスカートの隙間から下着が見えなかったのは流石だと思う。普段スカートを穿かない私だったら、間違いなく丸見えであっただろうから。


「可愛いです、ウエストの部分に大きなリボンモチーフのついたスカートなど、私穿いたことがありません。あと先程の下着も可愛く……」

「下着……?」


 ブラウスの胸元を抑え、考え込むよう様子の彼女。ミントグリーンの花弁が幾重にも重なったようなデザインに、白のレース。その奥には重すぎる私の物とは違い、程よい大きさの胸。恐らくはCかD……羨ましいサイズだ。


「普通かと思いますが……」

「そうなのですか?」

「黒部さんはこういうの買わないんですか?」

「買わないというか……このサイズになると、なかなか可愛らしいものもなく」


 自分の胸元に目を下ろし、溜め息。胸が大きくて得をしたことなど、今まで一度もないのだ。このサイズでも可愛らしいものがあれば……だなんて、考えないわけでもない。


 真戸乃様を見れば、驚いた様子。あ、ひょっとして下着ではなくスカートの話だった?


「下着は……サイズが違いすぎるので無理ですが、良かったらスカート穿いてみますか?」

「ええ!? そんな……悪いです」

「構わないですよ。Mサイズですけど黒部さんは細いから大丈夫でしょう?」


 言い終え立ち上がった彼女は、ウエストのリボンを解きストン、とスカートを脱いだ。張りのある太股が眩しい。


「どうぞ」

「はあ……では失礼して」


 ……意外とサイズは大丈夫だ。スカートをウエストまで引き上げ、スーツのズボンを脱ぐ。


「わあ……スースーしますね」

「可愛いじゃないですか!」

「そう……ですかね?」


 誰かに可愛い、などと言われたのは何年ぶりか。相手が女性でもそれは嬉しく、胸が跳ねた。くるりと回るとふわりと裾が広がった。これは病み付きになりそうだ。


「黒部さん」

「あ……すみません、お返ししますね」


 私がスカートを独占しているので、真戸乃様は勿論ストッキングに下着姿。慌てて脱いだものを返すと、私の可愛くもなんともない黒レースの下着が露となった。


「……セクシーですね」

「そうですか? 上のサイズと合わせると、こういったものかシンプルなものしかなくて……もっと可愛らしいものが欲しいのですが」

「大きいですもんね……胸」


 真戸乃様の視線は私の胸に釘付けだ。確かに大きすぎて肩も凝るくらいの胸だが、何の役にも立たない。スーツのサイズを合わせるのも大変なのだから。


「良かったら今度一緒に買いに行きますか? おしゃれに敏感な胸の大きな友人がいるので、どこで下着を買っているのか聞いてみようかなって思って」

「……え?」

「すみません、嫌なら……いいんです」

「いえ! 全く嫌ではありません! 是非!」


 歓喜のあまり彼女の手を握ってしまった。二人揃って下半身は下着姿なので、なんとも異様な光景だ。


「じゃあ連絡先……って、すみません黒部さん、仕事中ですよね?」

「いえ、もう上がっております。真戸乃様のお世話をするようにと言われておりますので、お気になさらず」


 とりあえずズボンを穿こう。真戸乃様もそそくとスカートを穿きベッドに腰かけた。運ばれてきたお酒と料理をじっと見つめると、彼女はポンと手を打った。


「黒部さん」

「はい」

「わたし、今夜こちらに泊まってもいいんですよね?」

「勿論です」

「じゃあ」

「じゃあ?」

「女子会しましょう!女子会!」


 思いがけない提案に私はポカンと開いた口を閉じることが出来なかった。



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