第五十話 【現れたのは】

 二十二時四十分過ぎ。


 飲み会は十分ほど前にお開きとなっていた。ほたるを含む五人を残して他の社員は皆帰宅の途についていた。「用事がある」と言って途中退席した蟹澤かにさわ 楼久ろく以外は、皆最後までこの場に参加していた。二次会が開かれる予定は無いようだった。



「まーどーのー、まーどーのー!」

「…………」

「駄目だこりゃ」


 姫季──瑞河みずかわ 姫季ひめきは空になったジョッキに囲まれ、隣に座る──否、テーブルに伏せるほたるの肩を揺らした。しかし当のほたるは眠っているのか、ぴくりともしない。


「真戸乃、どうやって帰るのよ……」


 頬杖を付く姫季の後ろでは、その様子を心配そうに見つめるカオリ──蝶野 カオリの姿があった。今年で四十になる彼女の役職は係長。更にその後ろには堅侍──十紋字じゅうもんじ 堅侍けんじの姿が。言わずもがな彼の役職は課長。皆が恐れて止まぬあの課長である。


「まど──」

「ん」


 スッ──とほたるが顔を持ち上げた。いつもぱっちりとしている二重瞼は眠たげに閉じようとしているが、自分の隣に座る姫季の顔を見つめるとおもむろに口を開いた。


「……暑い」

「暑い?」

「暑いです!」


 言うや否やほたるは自分のブラウスの前ボタンを一つ二つと外してゆく。三つ目に手を掛けたところで、姫季がそれを無理矢理止めた。


「みんないるんだから待ちなって!」

「えーあーつーいー」


 スカートのファスナーに伸びる手を、すかさず姫季は止めた。


「真戸乃先輩って脱ぎ上戸なんですか?」

「ある一定のライン越えたらこうなるのよ」


 美鶴──つぐみ 美鶴みつる はその様子を赤面しながら見つめていた。姫季が止めさえしなければ、自分が淡い恋心を抱く先輩のあられもない姿を目にすることが出来たのかもしれない──という妄想が彼の中で膨らんでいたからであった。


「真戸乃、帰るよ!」

「やだぁ」

「何でよ!?」

「セバスがやだぁ」


(セバスって何よ)


 姫季は頭を抱える。同棲している彼氏モドキの事なのだろうが、あだ名か何かなのだろうか。


「彼氏に謝るんじゃなかったの?」

「やだあ……」

「車で来てるんでしょ? 代行呼ぶから」

「…………」

「え、寝たの!?」


 そんな二人の後ろでは、堅侍とカオリが顔を付き合わせてほたるを誰がどう送るのか、知恵を練っている。この場で彼女の正確な自宅住所を知る者は誰もいない。ただ一人──美鶴ただ一人が、家がわりと近いからといって大体の位置を知っているだけだった。


「鶇君」


 ショートヘアの後頭部を掻きむしりながら、カオリが美鶴に近寄った。その隣では未だ姫季がほたるの肩を揺らしている。


「蝶野係長……なんでしょう?」

「真戸乃さんの家と近いんだって?」

「ええまあ……大体の位置はわかります。コンビニの一本裏通りの、三階建のアパートだって言ってたので、近くにいけばなんとか」

「代行呼ぶからさ、付き添い頼める?」


 片目を瞑り、顔の前で両手を合わせるカオリ。彼女は恐らく──美鶴ならば大丈夫だろう、という確信を持って彼にほたるを送るよう頼んでいるのだ。それは同時に堅侍の意見でもあった。


「えっと……」

「係長、美鶴くんは駄目ですって」

「瑞河さん、どうして?」


 顔を上げた姫季が盛大な溜め息を吐く。美鶴を顎でしゃくると、彼は下を向いて口籠ってしまった。


「ええっと、その……」

「美鶴、白状しろ」

「酔ってる真戸乃先輩が可愛すぎて……僕には無理です……」

「何が無理なのよ」

「多分二人きりになったら、色々我慢できません」

「美鶴、あんた可愛い顔してこのスケベ野郎っ!」

「すいません! だって……僕だって一応男ですよ!?」


 全員分の溜め息で場が満たされる。堅侍に至っては舌を打ち、美鶴を睨み付ける始末。


「一人で帰らせるもの心配だし」

「セバスのとこになんて帰らないもーん……」

「って起きたの真戸乃。本人もこれだし……」


 各々が頭を捻る中、声を上げたのはやはりというか姫季だった。


「仕方ない、逆方向だけど美鶴くんを連れてアタシが──」

「なんだったら私が美鶴くんと送るわよ、方向も一緒だし」

「でも係長の手を煩わせる訳には──」









「あ? ほたる?」




 声の主は広間の戸に手を掛け、こちらを覗いていた。驚き見開いた目は猫を思わせるような人懐っこさがある。明るく短い茶髪、それに派手な半袖シャツにハーフパンツとビーチサンダル。そのような服装も相まって、なんとなく軽い男──そういった雰囲気が彼からは溢れていた。


「だれー?」

「やっぱりほたるじゃねえか」


 失礼します、と言って男はサンダルを脱ぎ広間に上がる。「何やってんだよ」とほたるの頭にわしゃわしゃと触れたところで彼女は顔を上げた。


「あれー、?」

「酔ってんのかよ……すいません、迷惑かけて」


 桃哉──大家おおや 桃哉とうやはその場に居合わせた四人に頭を下げる。会社の飲み会か──と彼は目星をつけた。


「ごめん、君、誰?」


 ほたるの頭を撫でる桃哉の手首を掴み、カオリが凄んだ。


「私はこの子の上司。君、ナンパとかじゃないよね?」

「突然割り込んでしまってすみません。こいつの幼馴染で大家 桃哉といいます。友人とここで飲んでおりまして。帰ろうとしていたのですが……ほたるの声がしたもので、つい」


 派手な見た目とは打って変わって桃哉は丁寧な口調で言う。得意の営業スマイルも添えると、カオリは少し警戒心を弛めたようだった。


「真戸乃さん、ほんと?」

「はいー本当ですよぅ。とおやは幼馴染です」

「君、ちょっといい?」


 姫季が桃哉を手招く。自分と同じくらいの背丈の女性に多少驚きながらも、桃哉は姫季に近寄った。


「ひょっとして君、真戸乃の元彼?」

「え……まあ、そうですけど」

「この子のアパートわかる?」

「はい」

「じゃあさ、この子を家まで送れる? 車あるんだけど代行は呼ぶし、代金はアタシが持つからさ」

「……構いませんが」

「信用するよ?」

「はい」

「とおやと帰るのー?」


 姫季は桃哉に念を押すように睨みを飛ばし、カオリの元へと向かう。彼が本当にほたるの幼馴染みで、彼女の自宅も知っているということも伝えたが、元彼だということは伏せた。言う必要のないことだと彼女自身が判断した為であった。


「そうなの? 本当に任せて大丈夫なの?」


 酔った女を男一人に任せることに抵抗のあるカオリは、未だに渋っているようだ。堅侍も口こそ出さないが、眉間に皺を寄せて心配げにその光景を見つめていた。


「大丈夫ですよお、ちゃーんととおやに送ってもらいますからあ」

「あんたさっきまで帰りたくないって言ってたじゃん……」


 溜め息を吐く姫季を尻目にほたるは立ち上がる。ふらりとバランスを崩した腕を桃哉が掴んだ。


「色々とご迷惑をおかけしてすみません。代行、外で待ってます。おい、ほたるちゃんと歩けって」

「おかけしてすみませんー……お疲れさまでしたあ、失礼しますう……」


 まともに歩けないほたるの軽い体を、桃哉はひょいと背負う。その首元に抱きついたほたるは再び「失礼しますう」と言うと、背負われたまま眠ってしまった。


「大家君、頼んだよ」


 姫季の低い声に、振り向いた桃哉は黙って頭を下げその場を後にした。美鶴は残念そうにその背中を見送り、姫季以外の二人は少し不安げに遠退く二人を見つめていた。


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