第四十七話 【セバスチャン・クロラウトの正体】
挨拶を終えたセバスチャンがバックヤードに下がると、それを見た珠緒さんが他の店員と入れ替わる形でバックヤードに下がった。数秒後不満げに頬を膨らませた彼女は「マスターがお呼びです」と言って、わたしと葵をバックヤードの「STAFF ONLY」と書かれた扉の前にまで案内した。
「私は飲み物を持ってきますので、中にどーぞ」
ぶっきらぼうに言い放つと、珠緒さんは足早にその場を立ち去った。ドアをノックするも返事がない。顔を見合せ、葵がドアをそろりと開く。
「失礼しまーす……?」
部屋の中央には楕円形のガラステーブル。それに合わせて少しカーブした黒革のソファがこちらに背を向けていた。窓はなく、部屋の壁伝いに大きな書類棚が設置されている。
「……セバスさん?」
部屋の隅──事務机の前に置かれた椅子に、セバスチャンが座っている。頭を抱えて何やらぶつぶつと呟いており、わたしたちには気が付いていないようだった。
「セバスさーん……?」
そろりと近寄り肩をつつく。そこで漸く我に返ったセバスチャンは、ハッと顔を上げてわたしを振り返った。コンタクトレンズはいつもの蒼色ではなく、濃い茶色だった。
「ほた……ほたるさん!」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です……」
動揺しているのか、額に汗をかいている。わたしは鞄からハンカチを取り出し、セバスチャンに差し出した。
「汗、これで拭いてください」
「そんな、汚すわけには」
「洗うのはセバスさんでしょう?」
「そう言われるとそうなのですが……」
小さく唸った後、ありがとうございます、と言って汗を拭くセバスチャン。わたしたちの後ろで葵が乱暴にドアを閉めるので、驚き立ち上がった彼は葵に向かって頭を下げた。
「申し訳ありません。ええっと……」
「セバスさん、友人の葵です。事情は全部話してますので大丈夫ですよ」
全部──本当に葵には全部話した。
玄関先で彼を拾ったことも、お風呂に一緒に入っているということも、わたしが彼に好意を抱いている……と、気が付いたということも──全部。
「何が大丈夫かわかんないけど、よろしく、執事さん。
「ほたるさんの執事を務めております、セバスチャン・クロラウトです」
「ふぅん」
セバスチャンに促され、葵と揃ってソファに腰を下ろす。彼自身はその向かいに持ってきた事務椅子に腰掛ける。
「ええと……何からお話しすれば……あ、ネギケースは御覧になりましたか?」
「あ、見ました! まさかこんなところで販売してるなんて」
「知人に頼んで作ってもらっていて……制作費は私の自費で、最近販売を始めたんです」
「……自費」
(自費であんなものを作るとは、この人本当に葱が好きなんだな……)
「おいおい、そんなことよりもっと話さなきゃならんことがあるんじゃないの?」
「葵……」
苛立った声色の葵が、セバスチャンに厳しい視線を投げる。
「……仕事のことですね。それに
「うち?」
「私の家についてです」
──セバスチャン曰く、このカフェレストランと同じ敷地内にある結婚式場及びホテルは、彼の家族が経営しているらしい。創業者は彼の実祖父で、現在の支配人は彼の実父。長男で三つ年上の彼の兄が次期支配人だという。
セバスチャンはここで何をしているのかというと──。
「私はこのカフェレストランのオーナーを務めております。ホテルの経理は弟が務めておりますが、式場の経理は私が」
「このカフェレストランの経理は?」
「勿論、私が」
「ひぇぇ……」
創業者である祖父は、大層な車好きだったらしい。今となっては自分で運転することはないのだが、折角買い集めた車を手放すのは惜しいからと言って、息子や孫たちに与えたということだった。
「ピアノの演奏は……兄の提案で。雰囲気が出るだろうからここで弾いてみたらどうかと言われて。なかなかに好評のようで、御客様も沢山いらして下さいます」
「そうなんですか……」
これが執事セバスチャン・クロラウトの正体。
突然突きつけられた事実に、上手く状況が飲み込めない。
「……お坊ちゃんじゃないか」
言葉の後に溜め息を吐き出す葵。そういえば以前セバスチャンがピアノとバイオリンを弾くのだと聞いてわたしも葵と同じ台詞を吐いたのだった。
「お坊ちゃんがなんで完璧な家事をこなすスキルを身に付けてんの?」
葵の語調が変わる。これは昔からの彼女の癖──喧嘩を吹っ掛ける時と同じ声のトーンだ。
「葵、ちょっと」
「わかってる、大丈夫だって」
「うん……」
「で、なんで?」
苛立つ葵に対し、毅然とした態度を崩さないセバスチャンだったが、この時ばかりは少し動揺しているようだった。
「それは」
「それは?」
「ほたるさんの……為に……身に付けて」
(わたしの、為?)
その時──部屋の入口のドアがノックされた。こちらの返事も待たずして扉は開く。
「失礼しま~す。飲み物お持ちしましたよ」
木製の角盆にアイスティーを三つ乗せた珠緒さんが、にこやかに室内に踏み込む。「どーぞ」と言いながらテーブルにレモンスライスの添えられたグラスとミルク、それにシロップとストローを並べてゆく。
「お話、進みましたかぁ?」
セバスチャンに身を寄せながら、甘ったるい声を出す珠緒さん。先程カフェのフロアで見た時となんだか雰囲気が違うと思ったら、彼女はカッターシャツの前ボタンをベストの襟ギリギリまで開け放っていた。言わずもがなその間からは胸の谷間が見えるわけで。
「ええ、まあ」
「マスター、一つ聞きたいんですけどいいですか?」
「なんです?」
嫌な予感がする。この場面で恋敵が放たんとする言葉。一体何を──。
「こんな胸の小さい子のどこがいいんですか?」
「はい?」
そうだった。この子の前で、わたしとセバスチャンは恋人同士という設定なのだった。何度も言い寄ってくる彼女を跳ね除ける為の言い訳。
赤面したセバスチャンは、一瞬戸惑うような顔になったが直ぐに落ち着きを取り戻し、いつものように微笑。わたしは開いた口が塞がらないが、葵は舌を打って今にも立ち上がろうとしている。
「私の方がこの子より大きいですよ? 顔だって──」
「珠緒さん」
「はい」
それに対してセバスチャンは何と言うつもりなのだろうか。
「ほたるの胸は小さくありません、そこそこ大きいです。それに、色も形も最高なんです」
「ちょ……ちょっと……!」
「おまけに感度もいいぞ」
「葵っ!!」
スマートフォンを弄りながら発せられた葵の言葉に、流石のセバスチャンも赤面した顔が冷めないようだ。漫画だったら頭から湯気が出ていることだろう。
「そんなこと言って、本当は付き合ってないくせに! 私にはわかるんですから!」
珠緒さんは食い下がらない。それどころかセバスチャンの座る事務椅子の肘掛けに尻を乗せ、大胆にも彼に抱きついたのだ。
「勤務中にそういうことは止めてください」
努めて冷静に、淡々とセバスチャンは言う。冷ややかな眼差しが、隣に座る彼女を射抜いた。
「……わかりました、止めます。でも付き合ってないんでしょう? 勤務後ならいいですか?」
「私と彼女が付き合っていないという確証は?」
「ないです! 女の勘です!」
尚も珠緒さんは食い下がらない。やわやわとした体はセバスチャンから離れるが、目線だけは頑なに逸らそうとしない。
立ち上がって腕を組んだセバスチャンは、天井を仰いで何やら考え込んでいるように見える。
「あの……セ」
言いかけて止める。「セバスチャン」だなんて偽名をこの子の前で使うのはよろしくないだろう。しかしわたしは彼の本名なんて知らないし、この場で彼のことをなんと呼べばいいのかわからず、口ごもってしまう。
「なに?
(ああもう……)
不意に呼び捨てで呼ばれるのは、本当に心臓に悪い。演技だと分かっていても、顔が真っ赤になってしまう。
「この子と付き合ってないんですから、私と付き合ってくれますよね、マスター」
必死に抗議する珠緒さんの横を通りすぎ、セバスチャンはわたしの目の前で立ち止まる。手を引かれるので立ち上がると、ぐっ、と腰を抱き寄せられた。そして──。
「ちょ……」
目の前にセバスチャンの顔が──突然の事すぎて、理解が追い付かない。
「────!?」
(なに──わたし……今、セバスチャンと、何したの……?)
「これでも信じられないですか?」
「たった一回のキスなんかで、信じられませんよ!」
(──キ──ス?)
唇に触れた感覚はあった。一瞬のものではなく、数秒の──長い接触だった。
(──キス?)
「珠緒さん、あなたは私が好きでもない女性にこういう事をすると、そういう男だと思っているのですか?」
「それは……そんなことはありません! でも!」
「わからない人ですね……」
またしてもセバスチャンの顔が近づいてくる。重なりあった唇が──舌が──とろけそうなほどに熱い。
(うそ)
自分の身に起こっていることが、上手く受け入れられない。理解することは出来る──わたしとセバスチャンの唇は今、重なりあっている。それはわかるのだが、どうしてこうなったのかがわからない。
(なんで、こんな、──)
体の力が抜け、頭がぼうっとしてしまう。差し込まれた熱い舌に、わたしは応えることが出来なかった。
触れ合っていた部分が離れ、頭を抱き寄せられた。セバスチャンの胸に隠れたわたしの顔は、珠緒さんの角度からでは全く見えないはずだ。
「いつか絶対に振り向かせてみせます!」
甘ったるい話し方が嘘のように、尖った口調の珠緒さん。わたしには見えないが、きっとぷっくりとした唇を突き出して、怒りの表情を貼り付けているに違いない。
「私が心変わりするような男に見えますか?」
それに対してセバスチャンは冷静な態度を崩さない。あくまでも淡々と、平然とした口調で珠緒さんを突き放す。
「っ……!! すみません、失礼しますっ!」
逃げるように珠緒さんが部屋から出て行く。開け放たれた扉を見つめるわたしの瞳も、不思議と熱かった。視界が徐々にぼやけてゆく。こんな所で泣いてはならないと、堪えようとすればするほど体は震え、足に力が入らなくなっていった。
「……ほたるさん?」
名前を呼ばれ、不覚にもわたしはその顔のまま、セバスチャンを振り返ってしまった。
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