第17話 恋のはじまり
パーティーも終盤に差し掛かった。
父の藤田会長の隣に立って多くの人に挨拶するも、さっきのかれんの表情が頭から離れなかった。
彼女の小さな顔を手で包んだときの頬の温もり、口づけた後の健斗を見上げる潤んだ瞳……
そんなことを思い出してしまうと、不意にドクンと心臓をぐっと掴まれたような衝撃が走る。
息苦しい。
でも脳裏に浮かぶ彼女の表情にホッとする自分もいる。
彼女のそばにいたい。
自然とそんな思いが涌いてきた。
俺、なかなか重症みたいだ……
そう呟いて大きく深呼吸する。
パーティーが終わった。
今日このパーティーに参加したということは、父からの無言のメッセージを受け取ったということに等しい。
いずれ、近い将来、正式に『JFMコーポレーション』のCEOに就任することになるだろう。
大学の事も含め、これからあらゆる取捨選択を迫られ、頭を悩ませることになる。
そんな時、傍らに彼女がいてくれたら……
心強さに自分が何でも達成できるような気分になる。
今日のところはようやく解放された。
おもむろに携帯電話を取りだすと、健斗は彼女にメッセージを送った。
「久しぶり。これから会わない?」
タクシーで山道を登る。
携帯電話を取り出して、彼からのメッセージをなぞる。
「久しぶり」だなんて……
さっき会ったばかりじゃない。
自然に笑みがわいてくる。
何故なら、彼女も同じ気持ちだった……
新緑の山々を臨みながら15分ほど上がると、待ち合わせのレストランに到着した。
案内されたテーブルにつく。
全面ガラス張りの室内テラスから、見事な景色が広がっている。
山々、木々があり、その向こうに町並み、そして海まで見渡せる贅沢な景色にしばし見惚れていた。
エントランスの方で声がする。
その声と同時に、カツカツと革靴の音がする。
その音よりも自分の心臓の音の方が大きいのではないかと思うほど、緊張してめまいがする。
かれんの顔に焦点が合ったとき、彼はにこやかに微笑んだ。
「お待たせ」
その瞬間、なにもかも吹っ飛ぶように、心が解放された。
二人だけの空間。
しばらく沈黙が続き、目が合う。
「久しぶり……って感じ、しないか?」
「するかも……」
「ってことは……俺たち同じ気持ちなんだよな?」
彼の目を見つめ、瞳で答えた。
机の向こうから長い手がスッと伸びてくる。
「お前の手、このまま
ゆっくり頷く。
少し冷たい指に触れられて、気持ちが一気に流れ出した。
指先がどんどん熱くなってくる。
大きく力強い手に包まれて、気持ちが通い合うのを感じた。
太陽が傾き、空がだんだんと色づいて来た。
金色の光は、やがて海と街を紅く染め、空には紫のグラデーションを映し出す。
「こっちに来て」
彼女の手をとり、窓の方へ連れていく。
二人は立ったまま、ぼんやりと移ろい行く空の色を見ていた。
「そのドレス、綺麗だ。とっても似合ってる。仕事の時はキリッとしてるけど、パーティーならこんなに華やかなんだな」
「あなただって、コンビニて遭遇する時と今では別人よ」
二人で笑い合う。
「かれん…って呼んでいいか?」
「ええ」
「じゃ、かれん、俺のことは健斗で。これからは、あんたって呼ぶなよ」
少しにらむ。
「ああ、怖い怖い。ホント、手強い女だよ。俺にここまでさせるなんて」
「どういう意味よ?」
「そう、その顔。初めて見たときはおっかなかったけどな。今は……」
彼の顔を仰いだ。
「かれん、今は…いとおしくてたまらない」
ぐっと肩を引き寄せた。
「俺のそばにいて」
静かに頷いた。
彼は子供みたいな顔で微笑む。
彼女を胸に抱き締めて、頬に手を伸ばすと彼女を覆うようにキスをした。
紺碧の海が空と同じ色になるのを、彼の肩越しに見ながら、かれんは幸福感に目を伏せた。
眼下の景色はきらびやかな夜景と化している。
二人は向き合ってディナーを楽しむ。
「かれん」
「なに?」
「今日は口数が少ないね、調子狂うよ」
「だって……」
「わかってる」
そう言って微笑むけれど。
本当にわかってるだろうか?
胸がいっぱいで、普通に振る舞うことも
食事をすることも精一杯なのに……
平然を装いながら話を切り出す。
「あの……今さらなんだけど……このお店、私たちだけしかいないよね?」
「そうだな」
「今日は土曜日の夜だから、普通なら満席じゃないかなって思ったり……」
「そうだな」
「つまり、あなたが……」
「そう。貸しきったんだ」
「やっぱり!」
「この店は、うちの会社の……」
「え? そういうことなの!」
「……そうだな、かれんには色々話さなきゃならないことがあるんだ」
「話さなきゃならないこと?」
「うん、俺自身のことも、俺の回りのことも……なにも話してないから……」
「あなたは大学の准教授でしょ? そして今日わかったことがあるわ」
「そう、俺は『JFMコーポレーション』の藤田会長の息子だ」
「まだそれだけじゃ……ないみたいね。まあ、このお店貸しきったり、あなたのあの部屋も……確かにただの先生ってだけではない感じだったもんね」
「まあ、普通なら不審に思うよなぁ……かれん、これから追々説明していくから、とにかく、俺を信じて、そばにいて」
「健斗……」
二人タクシーで帰る。
かれんのマンションの前で降りた。
「初めて会った日もこうしてタクシーで送ってもらって」
「そう、こうしてここで降りて君にストーカー扱いを受ける、と」
「もう! 根に持ってるのね」
胸を叩く彼女に、笑って応戦する。
「ははは、ぜんぜん!」
「さあかれん、家に入って。でなきゃいつまでもここに居たくなってしまうから」
「わかった。じゃあ……」
「あれ? 手が…おかしいな、離れないんだ。どうしてだろ?」
「もう! ふざけすぎよ!」
「おいおい、男の心理がわかってないな! なんなら、このまま俺の家まで引きずっていっても構わないんだぜ」
「なにいってるの」
健斗はかれんの手を引き寄せて抱き締めた。
「冗談だよ。でも本当はここでかれんにキスしたいのが本音だ。でも家の前ではさすがにな……俺たちはもう秩序ある大人だ。そして何も焦ることもない。二人の気持ちが確かめ合えたんだ、あとはゆっくり大切に進んでいこう」
健斗はかれんの頭に優しく手を置くと、彼女の肩を持ってくるりと玄関の方に向けた。
「さあ、行けよ」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみ」
もう後ろ手のゆらゆらバイバイを
見ることはないのだろう。
そう思いながら、最後まで手を振ってエントランスに入った。
彼女を見送った健斗は、ネクタイを緩めながら北に向いて歩いていく。
まだかれんを意識していなかった頃を思い出していた。
この川沿いで肉まんを食べたっけ?
気の合うヤツだなとは思っていたが、
女としては……
あ、でもあのとき……
夜の桜が舞い散るなか、色気なくビールを仰ぐ彼女の髪に降ってきた花びらが、やけに綺麗に見えたことを思い出した。
もう始まっていたのかもな。
……今日の俺は、やけに素直だ。
頭をかきながら、足早にアパートに入っていった。
ママが居ないことにホッとする。
テーブルに置いたカバンについたキーチェーンに目をやる。
健斗との出逢いをくれたのは、まさしくこのキーチェーンだ。
やっぱり、幸せを呼んでくれるお守りなんだと実感した。
なにも約束はしなかったけど、彼が連絡をくれることはわかっていた。
言葉がなくても、信じることができた。
思い出すだけで胸が熱くなる、あの眼差しが甦ってきて、思わず目を閉じる。
バスタブにダマスクローズのオイルを入れ、甘く芳醇な香りに包まれながら、今日の出来事を思い出す。
長く浸っているわけでもないのに、のぼせるようなほてりを感じた。
携帯の通知が光っている。
由夏からだった。
「もしもし、由夏」
「ああ、かれん。今日は『MAY'S』のパーティーに行ってきたんだよね? パパに会えた?」
「あ、うん。パパにも会えたけど……」
「どした?」
「うん。『JFM』の会長がスピーチしててその横に……」
「かれん! ごめん!」
「え? なんで由夏が謝るの?」
「だって……藤田先生が御曹司だってこと……」
「え? 由夏、知ってたの?!」
「ごめんごめん! 一応藤田先生本人とも相談したのよ! でも彼もちゃんとかれんとのこと考えてて、時期を見て話す、みたいな……だから次のCEO就任パーティーが決まったらきっと話すんだと思ってたから……」
「ちょっと待った! 健斗と相談?! 就任パーティー?! なんのこと?!」
「……ああ、もう、まとめてごめん! ちゃんと説明するから、怒んないで聞いてよ」
由夏は、かれんの父の東雲会長が友人の宴をプロデュースしてほしいと、かれんではなく直接自分にオファーしてきたことと、その内容が『JFMコーポレーション』の藤田会長の一人息子がCEOに就任するため、少人数のVIPを集めたお披露目会だと言うことを説明した。
更に、別件の打ち合わせで健斗に会った際に、事実確認と、かれんにはどう伝えるかを聞いたことを説明した。
「彼ね、あなたを混乱させたくないからって、言ってた。就任パーティーの日取りが決まってから、言うつもりたったんじゃないかな? まさか今日、ロイヤルホテルで鉢合わせするとは思ってなかったのね」
「そうなのね」
「ねぇかれん……もしかして?!」
「うん。付き合うことになった」
「ホント?! ヤッター! かれん! おめでとう! 私こうなることを願ってたわ!」
「ホントに?」
「当然よ! あなた達、本当にお似合いだったから」
「そうかな? 喧嘩ばっかりしてたけど……」
「藤田先生はかれんでないとダメなのよ! かれんだってそう! お互いにシンパシー感じあってると思ってたの。これで私もお見合い斡旋おばさん卒業だわ!」
二人して笑った。
かれんは由夏に今日の経緯を話した。
「パーティのあと二人で食事して、そこで話してくれた。今まで彼は謎が多いって思ってたけど、彼の話を聞いたら腑に落ちる事が色々あったわ。表立って公表するつもりはないけど、由夏と葉月にだけはちゃんと言わなきゃなと思ったから」
「聞けてよかった! ホントに嬉しいよ!」
「葉月には明日言おうかな」
「そうね、土曜日の夜だから彼氏か来てるかもね」
「そうよね」
「あ、一つ……さっきから気になってたんだけど……」
「なに?」
「今日は土曜日よ、明日は会社も彼の学校もないわよね?」
「うん。そうね」
「あのさ! 大の大人が、ディナーの後にまっすぐ帰ってきちゃうって、どうなんだろ?! そこはもう感情の赴くままに、一晩過ごして一緒に朝を迎えるもんじゃないの?!」
「やだなぁ由夏ったら! 由夏はそうなの?」
「私は……そんなことはどうでもいいの! だってそうでしょ?! やっと想いが伝わったのに……」
「彼はこれから急激に忙しくなるみたいだし、いくつも論文を抱えてるらしいから……」
「……まあ、焦ってないってことを証明したい気持ちがあるのかも知れないけどね。わかるけど」
「由夏」
「なあに?」
「ホントににありがとね。今まで色々ご心配かけました」
「こちらこそありがとう。良く眠れそうよ! じゃあまた月曜日ね!」
祝福してもらうことが、こんなにも嬉しいことだと初めて知った。心が芯から温まるような幸せな気持ちに溢れていた。
間髪入れず、電話が鳴った。
健斗からだ。
「もしもし、かれん。元気か?」
「元気って……さっき会ったばかりじゃない?」
「そうだけど……もう会いたくなってる」
かれんは赤くなって、思わず電話から顔を外した。
「……あなたって、そんなにロマンチストだっけ?!」
「あんまり言わないでくれ! 俺も自分で柄じゃないことぐらいわかってるんだからな。……だけど素直にそう思ってしまうんだから……しょうがないだろ」
すねた子供のような健斗の声に、思わずかわいい!と言いそうになった。
どんな顔をして話しているのかしら?
「……それより、俺さっきから何回か電話してるんだけど、話し中だったぞ! ちょっと心配した……」
かれんは笑いそうになるのをこらえて聞く。
「何の心配をするわけ?」
健斗はため息をついた。
「ギブアップだ! 意地悪はよせよ。誰と話してたのか聞かせてくれる?」
かれんは我慢ができなくて、吹き出してしまった。
「ごめんなさい、由夏よ」
「あー、もう! くそっ! で? 由夏さんに俺たちのことを?」
「うん。報告した。すっごく喜んでくれて。私もホント嬉しかったわ」
「そうか、良かった。さすがお見合い斡旋おばさんだな」
「もう卒業だって、そう言ってた」
「あはは、世話かけたな! 今度何かご馳走しなきゃな」
「ええ!」
心温まる時間だった、繋がっていること、素直に本心を話せることがこんなにも幸せな気持ちになることを、もう何年も忘れていた。
「ねぇ、あなたとの出会いも、結局キーチェーンがきっかけなのよ、すごいと思わない?」
「確かにそう思うと凄いな! あの時は俺、かれんに怒鳴り散らしちまったけどな……」
「あはは、ホント怖くて変な人と思ったわ。でも考えてみたら、あんなに純粋に私のこと心配して、あんなに叱ってくれた人なんて、今までいなかったから、びっくりしたけど新鮮だったのよ!」
「かれんは嘘つきだな! 初めは天海先生に惚れたろう?!」
「あ……そこはノーコメントで!」
「こいつ! 否定しろよ! むかつく!」
「あはは」
この人を好きになって本当に良かったと、心から思った。
第17話 恋の始まり ー終ー
→第18話 波瑠とレイラ
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