第三十一相 歪んだ思慕の楔

 太腿の上に握られた掌が強張っているのが良く見える。人の機微には聡い自分の、忌々しくもあの仮面だらけの集いで培った観察能力は今日も通常運転。大切な友人である目の前の瑠璃に対してもそれは一切綻びなく作用していて、恐らく私の顔は何時もとは違う張り子でできた作り物の面の様な笑顔になっているのだろう。普段は明るく笑みを絶やさない彼女が、私の顔を瞼の上辺をなぞる様に見てきているのがその証明だろう。きっと彼女にとって私の顔は、到底穏やかには見えていないはず。

 事実だ。

 確かに瑠璃を含めたここの生徒会の面々は小学生高学年からずっと付き合っている仲で、生半な関係の深さではない。互いの深い所まで突っ込む無作法な真似は誰もせず、しかし固い絆がそこにあるのを全員大小はあれど感じていると私は思っている。

 だが、それでも。私にとってあくまで至上の位置に据え置いているのは銀君ただ一人であり、それが揺らぐことは決してない。例え相手が瑠璃であろうとも。

 だけど、その事実と理不尽な怒りを向ける事はイコールにはならない。銀君が道を違えそうになれば私は彼を諫めるし、彼が間違いを犯せばそれを怒る。そして今瑠璃が言う、銀君に酷い言葉をかけ傷つけたと言う言葉も、その内容を聞くまでは私は何も言わない。妄信はしない、それは本当の愛ではないから。

「まずは順に話を聞こうかな。何があったの?」

 かちゃりと陶器が鳴る音。淑やかさの中に気品ある意匠を施されたティーカップをソーサーから持ち上げ、中に注がれているコーヒーを一口含む。何も入れられていない漆黒の液体は舌に苦みを充満させ、僅かに猛ってしまった気分を強制的に元に戻してくれる。ふう、と一息つくと、瑠璃がおどおどと視線を巡らせながら口を開いた。

「その、あの……この間陸上部の部活終わりに、部長さんと、ぎ……銀士郎さんとお話をしてて、それで、その」

「ゆっくり、焦らないで、誰も瑠璃を責めていないよ。きっと銀士郎君も。今私は瑠璃を責め立てるために居るわけじゃない、全部ちゃんと、話を聞くから」

 明らかに動揺を隠せていない瑠璃へ、なるべく起伏が少なく、しかし冷たくない声色で語り掛ける。人は不安や疑心暗鬼に苛まれた時、感情の込められた言葉で問われる事を避けようとする。それは結果として重要な話を聞き出せず、却って不信感を抱かれる結果にもなりかねない。こうした場合の声色は、余計な感情を含まない虚実なきものにする必要がある。数多の人間を相手に呑まれず、主導権を掌握する必要に駆られていた私の一つのスキルだ。

 そうして語り掛けたのが功を奏し、瑠璃は胸元に手をやりながら深呼吸をし、泳いでいた視線は落ち着きを取り戻していた。無論、体の強張りまでは解消できていなかったが。

「え……っと、お話をしてた時に、銀士郎さんが私のことを胡桃瑠璃として見てくれたのが、と言うか、何と言ったらいいんだろう……陸上部員として一緒に活動もしていて顔くらいは知ってても不思議じゃないのに、前から接点はちょっとあったって気が付いてくれたのが、生徒会が始まってしばらくしてからだって聞いて。それで、私は会話を交わすようになる前から知ってたのに、淡泊で冷たいなって勝手に思っちゃって……本当に勝手な考えなんです……」

「うん」

「それで、あんまりにも人に興味関心が無いように感じてしまって、もしかして今私と仲良くしてくれているように見えるのも、ただ丁度気が向いているだけで、本当は私の事なんかどうでもいいんじゃないのかなって、思って。あの、本当にしっちゃかめっちゃかな事を言っているのは分かってるんです。連想ゲームよりも飛んだ考え方なのもわかってるんです。でも、でも……もしも私だけが大切な存在だと思ってるだけで、銀士郎さんは私の事なんてどうでもいいって思ってたら、凄く、凄く嫌で、嫌いに思われるよりも辛くて。何時もみたいに自分よりも他人を優先させる調子で、私にも大した考えも無くお情けで付き合ってくれてるんじゃないかって――――」

 嗚呼、成程。彼女がらしくも無く彼に当たり散らしてしまった理由が分かった。彼女は怖いんだろう。初めて現れた、自分の事を芯から慮り親愛の情を向けてくれていると思っていた人が、実は機械的に付き合っていただけなのではないかと言う不安が過ぎり、それを否定しきれなくなってしまった。今まで深い所まで彼女を見る人が居なかった、そんな荒野に現れた理解者と言うオアシス。それが泡沫の幻想なのではないかと、そう感じたのだろう。瑠璃の家庭事情を鑑みれば、唯一心を許せると信頼した異性と言う存在は掛け値の無い物になっているのは想像に難くない。だからこそ、あの人間味に欠けている所がある彼の言動は彼女の不安の罅を大きくしてしまった。

 大方、銀君は取り乱した瑠璃に対しても動揺も無く対処したのだろう。彼を知っているからこそ事の顛末はある程度想像がつく。銀君の言葉で底に沈んでいた瑠璃の不安が浮かび上がり、それに心が圧迫され動揺。それを見た銀君が落ち着かせるために行動し、その途中で落ち着くように、まるで機械が不具合を見つけ自己修復でもするかのように心を沈めろとでも言ったのだろう。

 彼ならできる、余程の事でもなければ、あの鋼の様な精神は揺らぐことなく、揺らいだとしてすぐに元に戻すことができる。いっそ人間らしかぬほどの速さで。

 でも、瑠璃はそうはいかない。元より心が強くないのを、ペルソナともいうべき笑顔で無理矢理補強して脆さを支えている状態だ。それが崩れてしまえば、きっと不安は増大し、彼の言葉は他の誰の言葉よりも突き刺さる。だから、彼女らしくも無く銀君に当たってしまった。今回の顛末はそんな所だろう。

 結論がわかれば言う事は一つだ。なんて不器用で可哀想なんだろう。いっそその頭を掻き抱いて優しく撫でてあげたい、彼を理解しきれないために要らない不安を覚えてしまった彼女の、その背中を押してあげよう。きっと瑠璃も、銀君の奥底を覗けば心の底から安心し彼に体も心も預けられる。

「瑠璃」

「――――雪乃?」

 瑠璃がふと気が付き気配のある方へ顔を向ける。私は対面の位置から瑠璃の隣へと移動した。首を僅かに横に曲げ、私のアシンメトリーな長い横髪が肩に垂れている。私が微笑むと、瑠璃は言葉を発する事を躊躇う様に黙り口を噤んでいた。

「瑠璃も、生徒会の皆も、まだ銀士郎君とは知り合ってから二ヶ月ちょっとしか経ってない。当然彼の人物像も、どういう事を考えているのかも全部は見えてないと思うの。違う?」

「ちが……わない」

「確かに瑠璃は似合わない八つ当たりの様な事をした、それは当然駄目な事。でも、今回は銀士郎君にも非がある。相手によって対応を変えないで、自分の尺度でしか言葉をかけられないのが彼の悪い癖だからね」

「…………」

「多分今銀士郎君は、瑠璃とどう接したらいいかわからなくなってる、下手したら、今後一切自分は瑠璃に関わらない方が良いって考えているかもね」

「っ……! 嫌だ!」

「だよね。瑠璃、銀士郎君のこと好きなんだろうし」

「……へ?」

 きょとん、と。間の抜けた様な顔で瑠璃が顔を上げる。それは自覚が無かったからなのか、それとも私が気づいていたことに対してなのか。表情の意味が何に向けられているのかまでは分からない。しかし、自分の推測通りの様子に、私は目を細めながら笑った。

「好意を持つことはいいこと。でも、銀士郎君に関して言えば一歩間違えれば全て壊れて無くなってしまうかもしれない綱渡り」

「……雪乃? 何を言って――――」

「いい、瑠璃。これから私が言う事をしっかり聞いて覚えるの」

 自身の唇に人差し指を立てた右手を添える。口を閉ざすよう言うジェスチャーで、しかし私は口端を持ち上げ笑いながら口を開く。

「一つ、銀士郎君と仲直りがしたいなら、数日後に始まる林間学校で機会を見つける事。きっと学校ではできない会話のきっかけが、環境も共に過ごす時間も違う先でなら作ることができる。だから、その時までに自分が何を言いたいのかちゃあんと考えて置く事」

「う……うん……」

「二つ、銀士郎君を好きに想うのは私としても嬉しい。でも、瑠璃一人でも、私一人でも、銀士郎君はこちらに向く事は無いの」

「……?」

「隙間があれば零れ落ちる、銀士郎君はそう言う人。必要なのは囲うための檻になる人、零れ落ちる事の無いように彼を閉じ込める器」

「雪……乃……?」

 ソファーの上に膝が立て、瑠璃の顔が少し高くなった私でできた影の下敷きになる。瑠璃が見上げた承和色の中に潜む私の顔は、決して今まで見た事の無い、酷く恐ろしく、そして問答無用でこちらの心を呑み込むものに見えているのだろうか。彼女の表情を見るとそう思えてしまうほど、瑠璃の表情は先程までとは違う強張り方をしていた。

 瑠璃の喉が鳴る。カラカラに乾いた口内に僅かに残留する唾液を必死にかき集め呑み込もうとしているのだろう、悲しいほどに空回りして嚥下まで辿り着かないようで、口を無意味に開閉している。目の前にいる私が、見知った仲の良い人間に見えない。知っているのに、知らない。頬に添えられる手が、不自然なほど冷たいだろうに。瑠璃はそれを振りほどくことをしなかった。危険信号が出ているのは分かっているけれど、今逃げれば自分が求める全てを取りのがしてしまう。そんな面持ちであるだろう顔。

「ねぇ、瑠璃」

「な……に…………?」

「銀士郎君のこと、好き?」

「――――…………」

 声が無い。自分の心が、初めて自分の汚れた心をそれでも真正面から受け止めて、満たしてくれた相手へ向ける感情の名を、無垢なまま穢れた彼女には名づけることができない。それを確認した私は哂った。

「それを確認するの、今度の林間学校でね。銀士郎君と出会って自分の衝動には素直になれるようにはなったと思うけど、感情まで理解して御しきれてない。私はそう瑠璃を見てる」

「感情……」

「世の中、綺麗な事だけじゃないのは瑠璃ももうわかってるでしょ? 清廉潔白な人間なんてまず居ない、どす黒い感情はあっておかしくない、時には倫理観も無視して行動する事だって人間はあるの」

「……ごめん、難しい」

「きっと言葉で言うよりも、行動した方が瑠璃にはわかりやすいかもね。試しに、自分がこうしたいって、銀士郎君にだけ感じる気持ちに従って接して見て。銀士郎君は拒まない――――ううん、拒めない。あの人はあの人で瑠璃に今負い目があるから、大抵の事は許してくれる。そもそも、あの人はみんなが思うほど真面目な正義は持ってないよ」

「そ、そんなこと――――」

 私は何かを言おうとした瑠璃の口を、自分の口元に寄せていた人差し指で閉ざす。何を言おうとしていたかはわかってる。だから、余分な言葉で彼女の行動が阻害されない様に、私が望む未来へ進むための種火をそこに作るために。彼女の思考を遮った。

「これ以上は何も言わない、後は瑠璃の行動次第。自分の求める暖かさを、二度と現れないかもしれない幸運を、手元から逃したくないのなら。瑠璃は自分の心にもっと従順になる必要がある」

「私の……心に……」

「私は二人の仲を取り持つことはしないけど、もし困ったら助け舟くらいは出してあげる。折角同じ人に好意を抱いたんだもの、今まで以上に仲良くなれると思うな」

「……」

 私を見上げていた顔が下がる。表情の見えなくなったので、私は立てていた膝を戻しソファーに座り直す。中にあるスプリングが小さく軋む。それが私には、綺麗なままだった瑠璃の精神に鈍く亀裂が入る音のように聞こえた。

「――――我儘になって」

「うん?」

 十数秒ほどの間を開けて、瑠璃が口を開いた。その声色は、先程まであった怯えた雰囲気は消えて無くなっていて、ただただ強い自我を初めて自覚した、どろりとした感触すら覚えるものになっていた。私は静かに微笑みながら、瑠璃の言葉を待つ。

「我儘になって、銀士郎さんが受け入れてくれたら、どうしたらいいのかな。雪乃は銀士郎さんが好きなの? 私が好きになったら、取り合いになって、雪乃は嫌なんじゃないの?」

「そうだね、普通ならわざわざ恋敵なんて増やしたくない。ここで瑠璃に向ける言葉は、普通の人なら離れた方が良いかもしれないとか、そう言うものだと思う」

「なら――――」

「でも、相手があの銀士郎君で、私は一人じゃ彼の心を完全に得られない。でも私は欲しい。だから、アプローチを変えることにしたの。だからこそ、私は彼をここに招いた。一番の理由は彼の家庭の事情を汲んでだけれど」

「……結乃が初めに言ってたことは?」

「あれは私が彼を独占したいがためってニュアンスだから、正確には違う。私は確かに銀士郎君を独占したかったけど、それは無理だった。だから、囲い込めるように杭を一つ一つ作って打ち込んで、みんなで幸せになる事を選んだの」

「……?」

「今は分からなくていいよ、いずれ瑠璃もその考えをわかってくれるはずだから。瑠璃がいまするべきなのは、自分が銀士郎君に向けて抱いているものをしっかり理解する事。もしそれをするって決心がつくのなら、不義理になるかもしれないけれど、銀士郎君に関する昔話をしてあげる」

 あくまで対価として。たとえその中に同等の自分自身の過去を含めていようと、人の過去を許可なく話すのは本来タブーであることは雪乃自身自覚している。下手をすれば、銀君から叱責を食らうこともあるだろう。それでも、私は彼を手に入れたい。手に入れられる可能性を少しでも高めるためなら、危険な綱渡りも致し方ない過程だ。歪み切った恋路を歩むのなら、真っ直ぐな道筋では願う結末へと行けないのだから。例え人から後ろ指を指されようとも、それを意にも介さなくなるくらいには自分はもう堕ちている。

「……わかった。今のまま銀士郎さんとぎこちないままなのも、自分をわからないまま居るのも、私は嫌だ」

「うん」

「だから、教えて。私が銀士郎さんと向き合うために、怒られるのも受け入れるから、銀士郎さんを、教えて」

「わかった、いいよ。でも核心に至る部分までは言わない、あくまで銀士郎君を理解するために必要な事だけを教える。そこから先は自分で聞いてね」

「うん」

 持ち上げられた瑠璃の顏。決意と覚悟が定まったのであろう力強い表情に、私は安堵の溜息を内心漏らした。

 よかった。これで楔は一つ、完成に近付いた。

 他の皆がどう転ぶかはわからない。瑠璃の様に手助けが必要かもしれないし、各自で進んでいき最後に後押しをするだけかもしれない。それでも、自分が去年一年をかけて練り上げた計画は今ようやく、歯車が噛み合って動き始めようとしている。それが堪らなく嬉しくて、彼を恋い慕う様になったあの時から数年分の感情が溢れそうになるのをを必死に抑え込む。

 嗚呼、どろどろとした感情が心を満たす。あの鋼鉄でできた様な心を装って、その実崩れかけているのを必死に押さえる銀士郎君を思うだけで頬が紅潮する。瑠璃の前でなければ破顔してしまうほど。無理かもしれないと若干の諦めもあった中、ようやく掴んだ彼へ繋がる糸。それは綺麗な赤い色じゃなく、私達生徒会役員全員に共通する暗い紅色なのだろうけれど、それを離す気はない。例えどれほど倫理から逸れようと、ただ一つ、私が生まれて初めて求めた宝物を、絶対に逃がさない。

 胸に湧く泥の様な感情、瑠璃にはまだ見せるには早い、けれどいずれ彼女や他の皆も抱くかもしれない感情を必死に押しとどめながら、私は瑠璃へと支払う対価である彼の話を始めることにした。

 段々と曇りながらも彼と言う存在に呑まれていく瑠璃を見ながら、私は彼女に道標の材料を与えた。

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