第7話 不穏なる気配

「さて、今日のところは無事終了じゃ。ご苦労じゃった。完了の手続きは明日にでも行うとして、今夜はゆっくりと休むがよかろう」

 レオにとって、生まれて初めての狩りが終わった。


 学院の男子寮前で、教授は二人の学生にねぎらいの言葉をかける。

 獲物のウサギを教授に預け、レオは頭を下げる。

「今日は世話になった。ありがとう」


 少し考え、レオは帰り道に抱いた一つの疑問を、教授にぶつけることにした。


「でも、何でおれみたいなただの学生に、親身になってくれ……」

「……教授なら、すでにお帰りになられました」

「うおっ!?」

 レオが顔を上げたその先には、教授はすでに影も形もなく、その背後では深紫の衣を纏う槍使いが不思議そうな顔を向けていた。

「何だよ、見てたんならもっと早く言えよ」

 妙なところを目撃され、照れ隠しにレオは悪態を付く。


「……しいて言うならば……」

 だが、レオの問いに対する答えは、意外にもリチャードから帰ってきた。

「……君は教授の御内儀ごないぎによく似ています。それが、あの方の目に止まる理由かもしれません」

「…………?」

 槍使いの少年の言葉の意味を図りかね、レオはしばし沈黙する。


「……それでは、失礼します」

「お、おう……ありがとな」

「……いえ、こちらこそ」


 そしてレオは、別れの挨拶に挙げた手で頭をかきながら、誰に問うとでもなくつぶやく。


「ゴナイギって何だ?」


 もう一度聞きかえそうとするも、昼ならば目立つ深紫の衣は、すでに暗闇の向こうに姿を消していた。

 ちなみに、御内儀とは妻のことであり、ジュリアにとっては母に当たる人物である。それをレオが知るのは、もう少し先のことであったが。


「うーむ。あの教授じいさんのことだから、変な動物かなんかじゃねえか」

 誰もいない男子寮の前で、レオは憂鬱そうに独りごちる。


「くぁ……まあいいや。とっとと寝るとするか」

 少々考えたところで答えは出ず、レオは大きなあくびをひとつすると、自室に向かって歩き始めた。


   ◇


「眠れねえ……」


 不自然に明るい部屋の中で、自室のベッドに横たわったまま、レオは同室の同級生を起こさぬように静かに愚痴をこぼす。

 部屋の窓にはカーテンが掛かっているが、さすがに遮光は完全ではなく、差し込む月の光が明々と部屋を照らしていた。


 いや、この奇妙なまでの明るさは、教授に掛けられた暗視用の魔法のせいである。


「これ、ずっとこのままじゃねえだろうな」

 目を閉じても、何やら光が気になり、寝付くことができない。


 それでも、初めての狩りの緊張が解けると、疲れもあって若者はいつの間にか眠りに落ちていった。


 余談であるが、かの魔法の持続時間は約半日であると、後にレオは教授から聞いた。


   ◆


 それからしばらくの後、春の月も下旬に近付いたある日の昼下がり。

 リーフ公国の南西部では、森を抜け平原を横切る街道を、一台の乗合馬車が次の宿場町を目指しゆっくりと進んでいた。


「ん……?」

 いぶかしげな声が、御者から上がった。

 先ほどから、馬たちの様子がおかしい。

 その歩みはいつもより遅く、時おり森の方を不安げにうかがうような仕草をする。


 わずかに霞んだ春の空。降り注ぐ温かな光。草原を吹き抜ける風の音。萌えいずる若草の匂い。

 何の変哲もない、のどかな春の光景の中で、馬だけがしきりに異常を訴えている。


 ビリビリビリ……


 不意に、耳障りな音が張り詰めた空気をかき乱した。


「な、何だ!?」

 音源は、馬車にはめ込まれた窓ガラス。強い風もないのに、激しく震えながら悲鳴にも似た雑音をかき鳴らす。

 とっさに御者は手綱を引き、馬車を停止させた。


「おい、何事だ!?」

 馬車の中から、護衛の戦士が一人、慌てて飛び出してきた。


「地震か!?」

「わ、わからん!」

 奇妙なことに、彼らは地震と思われる振動を感じることはできなかった。

 辺りをいくら見まわしても、二人の目には怪しいものは何も見付からない。

 窓ガラスの震えと馬のいななきだけが、危険を告げる警報のように鳴り響いていた。


 言い知れぬ不安感だけが、御者を、そして護衛の戦士をも包み込む。


 ドオン……!


 不意に森の方から、大きな音が響いてきた。


「お、おい、あれ!」

 戦士が怯えたような声を上げ、森を指差す。

 御者が目を凝らせば、森の奥で一本の木が大きく揺れ動いているのが見えた。それは、明らかに風に揺られているのではない。まるで巨人の手に掴まれて、振り回されているかのような、激しい動きだった。


 やがて、力に耐えきれなくなったか、木は大きく傾き、暗い森の底へと姿を消す。わずかに遅れ、先ほどと同じ、つまり木が倒れる音が馬車へと届いた。


 そして、二人は見てしまった。森の向こうでうごめく、巨大な影を。

 木々の影に隠れて姿形すら判然としないが、手前に見える木々と比べれば、その大きさは尋常なものではなさそうだ。


 木々が蹂躙じゅうりんされるような音は、なおも続いている。


 森までの距離は、かなりある。

 だが、御者と戦士は、もはや恐怖を抑えきれなかった。


「に、逃げるぞっ!」

「おお!」

 戦士が馬車の中に飛び込むのも待たずに、御者は馬に鞭を入れた。怯えていた馬たちも、はじかれたように駆けだす。


 車内から悲鳴が聞こえたが、今は逃げるのが最優先だ。乗り心地は最悪だとしても、命には代えられない。


 そして乗合馬車は、宿場町へと続く道をいまだかつてない速さで駆け抜けていった。


   ◆


「地震?」

 数日後、学院の学生課にて。

 ローレンス教授は、本来学生が仕事を探す場所で、係の女性から依頼の話を聞かされていた。


「そう言われても、地学はわしの専門外じゃぞ。それに、謎の大きな影とやらじゃが……いかに巨大な獣とて、大地を揺るがすような力はないわ」

「そうおっしゃいましても、ここ数日、弱い地震が起きたとか、馬が逃げたとか、巨大な怪物を見たとかいう報告が相次いでいるんです。このままでは、乗合馬車も隊商も、この国に寄りつかなくなってしまいます!」

 係の女性は、焦りの表情で緊急性を力説する。


「国や傭兵隊はどうしておるんじゃ?」

「それが、解決に必要な深い知識と経験、万一のための行動力と戦闘力。それを兼ね備えていて、いまこの国にいるのは教授だけだと、各方面から指名依頼が来てるんです!」

 仕事を増やされるのは面倒だが、実力を認められて教授もまんざらではない様子だ。


「おだててもなにも出んぞ。じゃがまあ、ご指名とあらばやむを得んかのう」

「あ、ありがとうございます」

 教授の承諾を得て、受付の女性も相好を崩しつつ頭を下げる。そんな彼女相手に、各種の手続きを済ませると、教授はぶつぶつと独り言をつぶやきながら、自らの城とも言うべき博物館-正確にはその準備棟-へと戻る。


「さて、一人で行ってもよいが、ジュリアは多分ついてくるじゃろうな。念のためリチャードにも声をかけるとして……」

 考えを巡らせる教授の脳裏には、最近知り合った一人の少年の顔が浮かんでいた。

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