1 暗黒の時代-2-

「ああ、無事だったのね!」

 古い住居が立ち並ぶ一角にさしかかったところで、蒼い顔をした女性がソーマを見つけて走ってきた。

「あ、ああ、ただいま」

 その勢いに押されて、彼は半歩退く。

 長髪を革紐で束ねた女性は周囲の目も気にせずにソーマを抱きしめた。

「母さん、やめろって! みんな見てるだろ!」

「だって心配だったもの。艦が飛んでいくのを見たから、あなたたちに何かあったんじゃないかしら、って気が気じゃなかったわ」

「心配ないって。そのへんはちゃんと弁えてるさ」

 母親を不安がらせないように、ソーマは努めて冷静に答える。

「シェイド君も無事でよかったわ。うちの子が迷惑をかけなかったかしら?」

 ソーマの母は目尻の涙を拭って言った。

「いえ、なにも……というかソーマにはいつもお世話になってますし……」

 シェイドはちらりと彼を見た。

 肩越しに振り返ったソーマは、

“余計なことは言うなよ?”

 と目で訴えていた。

 この人は心配性だな、とシェイドは思った。

 プラトウに限らずこの国の人間なら、生きていくことが危険と隣り合わせなのは百も承知だ。

 外に出れば猛獣に襲われるかもしれないし、人気のないところに行けば野盗の餌食になるかもしれない。

 家にこもっていても目に見えない疫病からは逃れられない。

 そしてそのどちらにいても、今は戦争の只中だ。

 自分の住んでいる町がいつ戦闘地域になってもおかしくはない。

 敵や味方が倫理的に戦ってくれればよいが、そうでなければ予告のない空爆によって命を落としかねない。

 いずれにしても戦禍に巻き込まれることには変わりないから、いちいち心配していてはきりがないのだ。

「シェイド君のお母さんもあなたを待っているわ。早く帰ってあげなさい」

 ソーマの母は彼の肩を軽く叩いた。

「はい、そうします。それじゃソーマ、また明日ね」

「ああ、気を付けて帰れよ」

 気恥ずかしさから、ソーマが赤くなった頬を隠しながら見送る。

 ここからシェイドの家はそう遠くない。

 ゆっくり歩いても10分もかからない距離だ。

 しかし住居が無秩序に建てられているために途中、何度か曲がりくねった道を進まなければならず、初めて来る者は実際よりも遠くに感じてしまう。

「あ……」

 ふと首筋に手をあてた彼は、わずかな痛みに気付いた。

(さっき洞窟の中で擦りむいたかな?)

 指先にうっすら血が付いているのを認めたシェイドは、人の姿がまばらになるのを待ち、もう一度首のあたりに触れた。

 指先がアメジスト色に輝き、そこから発生した光の粒子が傷口に吸い込まれていく。

 手を離すと傷はすっかり塞がっており、薄桃色の出血の跡だけが残った。

 取り出したハンカチで拭うと少しだけ赤く染まったが痛みはなく、傷の感触もない。

「これでいいかな」

 麻袋を担ぎなおし、シェイドは家路を急いだ。

 あちこちが剥がれ落ちた石造りの家。

 粗末な木の扉を開けると、眼前に険しい表情の女性が立っている。

「ただいま」

 彼女はシェイドの姿を認めた途端、にわかに表情を綻ばせた。

「おかえりなさい」

 母親は子への愛情表現として真っ先に抱擁を思いつくらしい。

 やや乱れた栗色の髪を整えることもしないで、彼女はシェイドの背を抱いた。

「今日も無事に戻ってきてくれたわね……」

「大袈裟だよ、母さん。石集めなんて毎日やってるじゃないか」

「それでも不安なのよ。あなたが遠いところに行って、もう二度と帰ってこないんじゃないかって――そう思ってしまうの」

 それを聞いた彼は、ソーマの母親が心配性ではないことに気付いた。

 子を想う親はきっと誰でも同じなのだ。

 たとえちょっとした散歩であっても、家に戻るまで身を案じ続けてくれているのだ。

 そう考えた彼は、ついさっき自分がしたことが間違いではなかったと確認した。

「石集めといえば、今月は好調だよ。ソーマとも話してたんだけど、余分は来月に回せばしばらくゆっくりできそうだって」

 成果を褒めてほしそうにシェイドは身を乗り出して言った。

 彼女は土埃をかぶった髪を撫でながら、

「ごめんね、男の子に産まなければこんな想いをさせずに済んだのに……」

 かすれるような声でそう囁いた。

「それは言わないって約束じゃないか」

 でも、と後ろめたさを隠さない母を彼は制した。

 重要なのは誰の子として産まれるか、にある。

 貴族の子は貴族に、平民の子は平民にしかなれない。

 産まれた瞬間から生き方を決定される世界に於いて、性別は意味のない飾りも同然だった。

「シェイド……」

 そんな境遇を嘆くこともなく、懸命に生きるひた向きさに彼女は落涙しかけたが、息子の些細な変化を見つけて表情を固くした。

 ほんの小さな違和感だが、こうして接触するとよく分かる。

「あなた、魔法を使ったわね?」

 しまった、とシェイドは思ったがもう遅い。

 あからさまな動揺に母は大息した。

「魔法はダメって言ったじゃない。特に外では絶対に使わないで」

「で、でも……」

「軍に目をつけられたら引き込まれるわ。あなたの魔力を見破られたら、彼らが放っておくワケがないもの」

「ごめん、でも母さんに心配かけたくなかったんだ。怪我してるって分かったら――」

「シェイド……」

「それに魔力を持ってないって思われたら笑われるよ」

「兵士にされるよりずっとマシよ。あなたは戦争に行くためにワケじゃないわ。お願いだから約束して」

 温和そうなこの女性は一転、強い口調でシェイドに迫った。

 この約束だけは決して破ってはいけない、と彼女は何度も言い聞かせた。

「分かった、もう使わないよ。うん、約束する」

 まだ不満そうな彼はしかし母に従うことにした。

「それと、もうひとつ――」

 シェイドは袖をまくり上げ、左手首にはめている銀製の腕輪を見せた。

「これも外しちゃダメなんだよね? お守りみたいなものだって」

「ええ、そうよ。よく覚えているわね」

 母は我が子の頭を三度撫でた。

 こうしている間、彼女は最も安らぎを感じることができた。

 過酷な環境の中で、それでも生き続けなければならない彼女にとって、愛する者と結婚し、育てることが何にも勝る幸せだった。

 もうこれ以上、彼女が望むものはなかった。

 夫と死別した今となっては、シェイドだけが唯一の心の支えだったのだ。

 注ぐ愛情は無限だ。

 自分の全てを捧げてでも、この子を守りたいと彼女は心に誓った。

「母さん、ぼくは母さんの子で幸せだよ……」

 母に頭を撫でられている時、彼は決まってこう言う。

 掌の温もりを通して彼女の寂しさを感じるからだ。

 世界にたったひとりの母親。

 その無限の愛情に育まれ、彼の命はいま、どの瞬間よりも輝いていた。





 シェイド・D・ルーヴェライズ。

 この漆黒のコートを羽織った少年は、13歳にしてはあまりにも幼すぎた。

 自分が置かれている状況も、この国のことも、世界のこともほとんど知らない。

 善というものは理解できても、悪というものは理解できていない。

 そもそも悪という存在が存在していることすら、シェイドは分かっていない。

 彼は幼くて、真っ白だった。そして、誰よりも優しかった。

 きっと何色にも染まるから――。

 運命は彼を利用しようとした。

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